第16話 いっしょに行かない?

 喫茶・黒猫のしっぽのドアを開けると、チリン、チリン……と、ドアベルが鳴った。その音にカウンターの中にいるおじいちゃん、カウンター席の石谷、そして――。


「お、来た来た。早く座れよ、お腹すいた!」


 店の奥の二人席に座った悠斗が振り返った。

 おじいちゃんのメッセージに、


『すぐに降りるよ』


 と、送ったからだろう。テーブルには二人分の夕飯がすでに運ばれていた。日菜と悠斗の分だ。

 今日はトマトたっぷりのデミグラスソースで煮込んだハンバーグだ。お店に入ったときから良い匂いがただよっていた。


「ごめん、お待たせ!」


「大好物が目の前にあるのに、待たされる俺の気持ち! 軽く短編小説にはなるよ!」


 スプーンを握りしめてバシバシとテーブルを叩く悠斗を見下ろして、


 ――それでも、待っててくれるんだよね。


 日菜はくすりと笑った。

 先に食べてていいと前に言ったのだけど、


「いやだ、待ってる」


 と、悠斗はきっぱり言い切って。本当にこうやって待っていてくれるのだ。

 すっかり当たり前になった光景に微笑んだあと。


 ――その点、日菜はなでさせてもらえてる感じだよなぁ。


 ――なんならすり寄られてる感じよね。


 帰り道に真央と千尋が言っていたことを不意に思い出して。日菜は悠斗の真後ろで足を止めると、じっと黒髪髪を見つめた。

 黒猫みたいにつややかで、さらさらで真っ直ぐな、さわり心地の良さそうな髪の毛だ。


 何の気なしに。それこそ夏休みの自由研究で、すっかり仲良しになったかぎしっぽの黒猫をなでる感覚で、悠斗の髪をくしゃりとなでた瞬間。


「何……してんの?」


 悠斗が顔をあげた。

 きょとんとした表情で日菜を見上げている。悠斗の濃い茶色の目に自分自身が映っているのに気がついたら、とたんに恥ずかしくなって。


「な、なんでもない!」


 日菜はあわてて手を放すと、悠斗の向かいの席に座った。


 ――何してるんだろ、私!


 気恥ずかしさやらなんやらで落ち着かない。

 悠斗と目をあわせないようにうつむいて、テーブルの下で手をもじもじとさせていた日菜は、


 ――でも……。


 ふと、手を止めた。指に残っている感触は、かぎしっぽほどじゃないけど、つやつやでさらさらで。


 ――もう少し、なでてたかったな……。


 唇をきゅっと引き結んで、ほほに手をあてた。


「何してるんだ、お前ら。とっとと食べないと冷めるぞ」


「ひゃい!?」


「ほーい」


 石谷の声に日菜はあわてて背筋を伸ばした。チラッと石谷の顔を見ると、ただ不思議そうな顔をしているだけだ。

 悠斗も、特に気にしてるようすはなく。間延びした声で返事をすると、


「いただきます!」


 スプーンをにぎりしめて、パクリとハンバーグをほおばった。うっとりと目を細めて、しっかりと味わって。ごくりと飲み込んだ悠斗は、


「で、日菜。今の何? どうしたんだよ、急に」


 自分の頭を指さして、首をかしげた。


「……っ」


 うやむやのうちに話は終わりになったと思ったのに。ハンバーグを口に入れたばかりの日菜は、思い切り咳き込んだ。

 悠斗が差し出した水を飲んで、深呼吸して、


「ごめん」


 日菜はハンバーグだけを見つめて、ぼそりとあやまった。

 でも、悠斗は許してくれない。二口目のハンバーグをごくりと飲み込んだあと、


「今の、何?」


 再び、尋ねた。さっきよりも強い口調だ。


「本気でごめんってば……」


「正直に、素直に」


 ぴしゃりと言われて、日菜は上目遣いに悠斗を見た。その言葉を、悠斗に言われると弱い。

 怒っているわけじゃなさそうだけど、話すまでしつこく聞き続けるぞ……と、いう気迫が悠斗からは感じられた。これは観念するしかなさそうだ。


「真央と千尋が、悠斗くんは野良猫みたいだって……」


 日菜はため息とともに口を開いた。


「野良猫ぉ!?」


「で、平川くんと黒田くんからエサはもらうけど、絶対になでさせない。でも私はなでさせてもらえてる感じって言われて、ためしに……なでてみました」


 最後の一言だけ、ものすごく。ものすごーく小さな声で言って、日菜はうつむいた。

 おじいちゃんや石谷の耳に入ると恥ずかしい。


 ちらっと見ると、カウンターのおじいちゃんと石谷はいつもどおり。

 おじいちゃんはコーヒーカップをきれいに磨いていて。石谷はコーヒーを飲みながら、返事どころか反応すらしないおじいちゃんにあれこれと話しかけている。

 日菜と悠斗の話なんて、聞いても、気にしてもいなさそうだ。


「人を野良猫呼ばわりするなんて、失礼なやつらだな」


 唇をとがらせてハンバーグを頬張った悠斗は、


「で、日菜は日菜で本当になでられるか、ためした……と」


 じっと日菜を見つめた。日菜はスプーンをくわえたまま、黙ってコクコクとうなずいた。

 改めて言葉にされると、それも悠斗本人に言われると恥ずかしい。恥ずかしいを通り越して、埋まるための穴を用意してもらいたい気分だ。数分前の自分を叱りつけたい。

 ふーん、とつぶやく悠斗の声を聞きながら、日菜は背中を丸めた。恥ずかしさをごまかすためにハンバーグをほおばった日菜は、


「別に日菜になら、なでられてもいいよ」


 思わずスプーンをくわえたまま、顔をあげた。


「好きなときになでていいよ」


 悠斗は日菜を見つめて、あっけらかんと笑った。なんの恥ずかしげもなく。なんのためらいもなく。意地悪とかでもなくて。

 本当に正直に、素直に、そういうことを言うのだ。この黒猫は。


 スプーンをくわえたまま、ぽかんと悠斗を見つめていた日菜は、


「ごめんなさい。私が悪かったです……」


 赤くなっているだろう顔を覆って、思わず謝った。


「え、なんで?」


 すっとんきょうな声をあげる悠斗に無言でふるふると首を横に振って、日菜はさらに小さくなった。


 ――勝てない気がする……。


 別に勝ち負けではないのだけど。

 日菜は小さくため息をついて、ぱくりとハンバーグを食べてから、


「そうだ。今週の金曜……明後日に秋祭りがあるの、知ってる?」


 パッと顔をあげた。

 話題を変えたかったというのもあるけど。早く悠斗に話したかったというのも、日菜の正直で、素直な気持ちだ。


「夏祭りのときみたいに、みんなでいっしょに行かないかって。平川くんと黒田くんと、真央と千尋と。それから私と……」


 ――日菜が行くなら行くよ。


 なんて。さっきみたいになんの恥ずかしげも、ためらいもなく。にっこりと笑って言うのだろうと。

 そう思っていたのに――。


「俺、行かない」


 悠斗はさらりと言って、ハンバーグを口に入れた。


「え……?」


 予想していなかった答えに。

 それこそ、グラウンドでサッカーをしようとか。週末に映画を見に行こうとか。

 和真や大地が誘ったときと同じ速さで返ってきた答えに、日菜の頭は真っ白になって。次の言葉が出てこなくなってしまった。


「清水から聞いてるかもしんないけど、秋祭り限定のお守りとか絵馬があるんだよ」


 そのあいだにもいつもどおりの笑顔で、悠斗はどんどんと話を進めてしまう。


「結構、混むし。なくなっちゃう年もあるから、欲しい物があるなら早めに行けよ」


 にこにこと笑って話す悠斗につられて、日菜は笑みを浮かべてうなずいた。

 浮かんだ笑みはきっとあいまいで、中途半端なものだったと思う。

 でも、ハンバーグを口に放り込むのに忙しくて、悠斗は見ていない。


 見ていたら、どうしたの? と、聞いてくれたかもしれない。

 聞かれたら、どうして? と、聞けたかもしれない。


 でも――。


「楽しんで来いよ、秋祭り!」


 顔をあげた悠斗は満面の笑顔でそう言って。それきり。

 秋祭りの話は終わりになってしまった。

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