安楽なりし生は

詩野聡一郎

一 ワンス・アポン・ア・デス

 暗い部屋の中に、一人の男が立っている。

 光源は壁に取り付けられたモニターのみであり、その映像から発せられた光が男の顔に張り付くことで、かろうじてその輪郭を識別することができる程度であった。

 伸びた光の先を目で追えば、部屋の壁には大小さまざまなスクラップ記事が貼りつけらているのが見てとれる。

 そして、その上には大胆な筆運びで描き込みがなされていた。

 曰く、「この暗号は政府の秘密の組織を示している」。

 曰く、「あの女は私を監視している」。

 曰く、「その事件は富裕層による陰謀である」。

 等々。

 それらは、それらだけで部屋の主の狂気を示すだけに十分な証拠足り得た。

 そこに書かれていることは本来、あり得ないことではない。

 部屋一面に書かれた真実のプラネタリウムは、全てが本当のことかもしれない。

 しかし、そこに狂気を見出せるのであれば、それで十分であった。

「それで、あんたはどうしてこうなったんだ?」

 男は声を発し、右腕をゆっくりと上げた。

 そこには銃が握られていた。暗闇に溶け入りそうな、黒い銃身を備えた回転式拳銃だ。

「それを聞くのも業務の内なんだ。話してくれ」

 よく見れば男の銃口の先には一つの椅子があり、まだ十代後半に入ったばかりかという外見の少年が座っていた。

 はじめからそこにいたであろうに、その少年はまるで別の場所から突然やってきたかのように気配もなく、ただそこにいた。

「僕は……」

 少年の声は聞き取るのが難しいほどか細かったが、男は聞き取った。

 そして理解した。

 この少年は既に死んでいる。

 肉体的な死ではなく、心が死んでいるのだ。

 ゆえに、少年からは生命の気配が感じられない。

 ゆえに、そこにいるのに存在を感じることができない。

 今喋っているのは少年ではない。少年が精一杯生きた後の、その抜け殻だ。

「僕は、何かがおかしい気がした。何かはわからないけど、変な感じがした。このままでいいのかがわからなくなった。“このまま”っていうのが何なのかわからなくなった」

「……」

「どうして僕は他人の言うことを聞かなければいけないのかと聞くと、お母さんもお父さんも、先生も、答えてくれなかった。誰も答えをくれなかった。だから困って、悩んで、考え続けた」

「……」

「でも、誰もが僕に言うことを聞かせようとする。でも、言うことを聞かなければいけない理由がわからない。言うことを聞いたほうがいいよとみんな言うし、僕もそう思うけど、そうしなければいけないという理由がどうしてもわからなかった。だから、どこかに答えがないかをずっと探してた」

「そうか」

 男が引き金に指をかける。

「そうこうしているうちに、これまで通りに生きることができなくなっちゃった。だから、おかしいのはきっと僕なんだ。偉い人が考えた末にそうなっているとみんな言うけど、結局僕には偉い人の考えはよくわからなかった。それはきっと僕が馬鹿だからだったんだと思う」

「……」

「ありがとう。おじさん、僕のためにきてくれたんでしょ。話を聞いてくれて、嬉しかった」

「俺に感謝なんてするな。俺はお前を救うことはできない」

「ううん、おじさんがお医者さんや神父様だったら、こんな風に話せなかったと思う。僕は器用じゃないから」

「そうか」

「ありがとう、おじさん」

「ああ」

 男は引き金を引いた。

 発火した銃弾は、銃身に内蔵された消音機でその気配を消し、目立つことのない純粋な質量となって少年の顔に吸い込まれた。

 鼻先に小さな穴が空こうという瞬間、少年はほんのわずかに目を見開きながら、少しだけ口を動かした。

 しかし、そこに言葉が生まれることもなく、残酷なほどに美しい朱い花だけが一輪、壁を彩っていた。

 少年は、絶命したのだ。

「…………」

 否。既に絶たれた命を、帰るべき場所へと埋葬したにすぎないのだろうと、男は考える。

 そして、慣れた手つきで銃身を布で軽く拭き、男は少年の躯に背を向けて歩き出した。

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