第18話


 通常の開始時刻より1時間遅れて教室に入れば、室内からヒソヒソとした声が聞こえ始める。

 

 晴那とひまりという意外な組み合わせに、皆驚いているのだろう。


 しかし、数分もしないうちにそれも収まり、教室内には数学教師の説明する声だけが残っていた。


 晴那は勉強が得意ではない。

 昔から苦手な方で、どちらかといえば頭の悪い部類に入るだろう。


 そんな晴那が授業を途中から聞いても分かるはずがなく、話半分で黒板を板書する。


 テストの点が悪くても、ノートやプリントなどの提出物を収めればあまり文句は言われないことを、長年の経験からわかっているのだ。


 早くお昼にならないかと呑気なことを考えていれば、背後からトントンと肩を叩かれて振り返る。


 後ろの席の女子生徒から渡されたのは、小さく折り畳まれた白い紙だった。


 「…これ、読んだら前の席に渡して」


 紙を開けば、そこには「瀬谷ひまりの初恋の男子を見つけたら、全員から缶ジュース一本ずつ奢り!」と書かれていた。


 人気者が長年恋をしている相手、というのは周囲の好奇心をより一層掻き立てているのかもしれない。


 あの子の淡い思い出をそんな賭け事に使われて欲しくなかった。


 紙をぐちゃぐちゃに丸めて、自身のスカートのポケットへ仕舞い込む。


 あとから何か言われても、知らないと言い換えそう。こんなくだらないことで、不器用なあの子を傷つけて欲しくなかったのだ。




 中休みを告げるチャイムと共に教室を出た晴那は、一足早く校舎裏へとやってきていた。


 由羅はまだ来ていないようで、ひまりがくれたミネラルウォーターを手持ち無沙汰に飲んでいれば、男子生徒と思わしき大声が場に響いた。

 

 「お前か、犯人は」


 只事ではない雰囲気に、晴那は恐る恐る声のした裏庭を覗き込んだ。


 花壇の前で男子生徒が立っている。恐らく、声の主は彼のものだろう。


 「…え」


 男子生徒が苛立った様子で持ち上げているのは、晴那と由羅が可愛がっている野良猫だった。


 首根っこを掴まれてぶら下がっており、放っておくことが出来ずに慌てて彼に駆け寄る。


 「あの、その猫…」

 「なに」

 「何かあったんですか」

 「うちのガーデニング部が一生懸命育てた花壇をたびたび踏み潰してた。いまちょうどみたから」


 花壇を見やれば、確かに綺麗に咲いていた花々がいくつか踏み潰されている。

 一生懸命育てた花をそんなふうにされたら、怒ってしまって当然だろう。

  

 「いまからこいつ先生のところに持っていくから」

 「え…」

 「校内に猫が迷い込んでるんだかろ、処分してもらえるだろ」


 確かにこの猫は彼に対して迷惑を掛けてしまったが、ひとつの命であると言うのに。

 処分だなんてあまりにも冷たすぎる物言いに、咄嗟に男子生徒から猫を奪ってしまっていた。


 「こ、この子私の猫なので」

 「は…?」

 「花壇荒らしたのは本当にごめんなさい。けど…」


 一歩下がって、サッと頭を下げる。

 猫は晴那に抱っこされながら、不思議そうにキョトンとした顔をしていた。


 「見逃してください」


 そう言い残して校舎裏へ向かって走っていれば、勢いよく誰かにぶつかってしまう。


 猫を抱えているため受け身を取ることが出来ずにそのまま倒れ込みそうになれば、誰かに両肩を支えてもらい、ギリギリのところで体制を持ち直した。


 「わ、びっくりした…」

 「由羅さん…」

 「お前も一緒かぁ、相変わらず小さいなあ」


 愛おしそうに、由羅が野良猫を撫でる。

 振り返っても追いかけてくる気配もなく、晴那はそっと息を吐いた。


 普段通り、二人で校舎を背もたれにしゃがみ込む。


 「この猫って、野良ですよね?」

 「たぶん、親猫とはぐれちゃったんだろうね」

 「実は、ガーデニング部の人がこの子を先生のところに連れて行くって話してて」


 ギュッと猫を抱きしめる手に力がこもる。

 猫とはいえ、この子は晴那の数少ない友達の1人なのだ。

 辛い時には何度も癒されたし、寂しい時は寄り添ってくれた。


 「保健所とか連れていかれちゃったら…」


 何も知らずに、相変わらず猫はキョトンとしている。

 このままでは、殺されてしまうかもしれないのだ。飼ってあげたくても、晴那の住むマンションはペット不可なため難しいだろう。


 誰か貰い手を探すにも友達がいない。ひまりは同じマンションだから同じくペットは飼えないはずだ。


 焦燥感からため息を吐けば、抱えていた猫を由羅に奪われる。


 可愛くて堪らないと言うように、由羅は猫に軽くキスをした。


 「じゃあ、私がこの子飼ってもいい?」

 「いいんですか…?」

 「うん。うちのマンションはペット飼っても平気だし、猫ならあんまり手も掛からないからお母さんも良いって言うと思う」


 自分の安全がわかったのは、猫は先ほどよりも弾んだ声で、ニャオと鳴いてみせた。

 由羅に飼われることが嬉しいのか、彼女の手にスリスリと擦り寄っている。


 「名前どうしようかなあ」


 心の底から安堵して、ホッと胸を撫で下ろす。この子の行先が明るく、幸せな道でよかった。


 由羅であれば、間違いなく可愛がってくれるだろう。


 こうして裏庭で会えなくなってしまうことは寂しいが、晴那を支えてくれたこの子が幸せになるためなのだから仕方ない。

 やはり寂しさは拭えないが、それよりも安心している気持ちの方が遥かに大きいのだ。

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