番外 児童虐待の後遺症・新宗教二世・アスペルガー

 ここでは本書の副題について自分史や記憶から抜粋して語っていこうと思う。他のエピソードや番外編と重複する部分があるかも知れないが、その辺は気にせず書いて行こうと思う。

 児童虐待の後遺症でADHD(注意欠陥・多動性障害)の様な症状を本人が示すというのは、大人というか四〇代になって知った。『子ども虐待という第四の発達障害 杉山登志郎』という本に書いてあったのだ。それを知った時には驚いたし、嘘だろうと思った。そんな都合のよい話があるものかと。

 自分が子供の頃から感じていた生きづらさを言語化するのが難しかったし、救われる可能性はゼロだと絶望していた。それが三〇代の頃か。たまたま何かで区の保健所でカウンセリングのような事をやっていると調べて、電話で予約し、保健所(区役所と一緒の合同庁舎というやつだ)に行ったのは三〇才を過ぎていた気がする。そこから長い精神科への通院生活がはじまった。

 ドクターショッピングのような事もしていた。最初は井土ヶ谷にある病院だった。おじいさんのドクターだったが、肌があわなかった。生きていく苦しさも全然緩和しなかった。

 そこでカウンセリングを併設している病院を探し、関内駅南口の病院へ変わったが、人格障害の診断をされた。

 ドクターとの関係も悪くなかったが仕事を止めて生活保護を受給するにあたり「うちでは(福祉の患者は制度として)無理」と断られてしまい、今のクリニックに流れ着くようにたどり着いた。

 そこで今までの生育歴を話し、そううつと診断され、投薬とカウンセリングによる認知行動療法がはじまった。でもよく考えたら他の病院でも生育歴は聞かれた気がするんだよなあ。

 というのが落ち着くまでの流れで、今のクリニックになってから自分自身の症例や環境等の調べものがはかどったように記憶している。病気と向き合うようになった一〇年間は金銭的にはカツカツの生活ではあったが、それまでの働きながら病院に通う生活に比べたら、脳の資源の使い方が断然うまくなっていった。そんな気がしている。

 大人の発達障害が割とポピュラーになった二〇一〇年(平成二十二年)頃、俺も発達障害の診断を受けるかどうか迷った時期がある。そこで電話した病院か当事者会の人間に開口一番罵倒された事があって、やる気が萎えて診断をうけるのを中止した記憶がある。あれは幻聴だったのだろうか?いや違う。怒りの記憶があるし。具体的に何を言われたか記憶が曖昧だ。覚えているのは「大人の発達障害について調べたら、この電話番号が出まして」といったら、即「お前のようなバカがどうのこうの」まで言われたのは覚えているのだが。ショックな事だけは記憶している。

 ふりかえると小学生の頃の俺は、落ち着きのなさ、衝動的に行動する唐突さ、病的なまでのこだわりの強さ、謎の癇癪持ち、病的な五感のするどさに悩まされていた。令和四年の今なら発達障害を疑われるだろう。そう思うのだ。

 その発達障害って何よという話なのだが「幼少期から現れる発達のちぐはぐさによって、脳内の情報処理や制御に偏りが生じ、日常生活に困難をきたしている状態のことで、特定のことには優れた能力を発揮する一方で、ある分野は極端に苦手といった特徴がみられる」とある。(NHKより)

 それが児童虐待の後遺症だという仮説、または臨床の結果そのように見えると分かったのは随分と大人になってからの振り返りだ。

 児童虐待か。俺の人生のどの出来事をもって、児童虐待と決めつけるのかというと、ゼロ才の時には既に右腕に大きな火傷痕があった。それで十分だった。

 いや十二分に児童虐待はあったのだ。継続的に行われたしつけと称する虐待は、俺の脳みそにダメージを与え、結果的に発達障害に似た行動や状態を示した、という訳である。そのような見方を俺はした。そう考えると腑に落ちるのだ。

 今も父親について考えると、心理的に大きな壁か、脳の物理的な欠損の影響なのか、考えが定まらなくなっている。これこそが児童虐待の証拠であると俺は思う。

 あまりに刺激が強くて五〇才になった今もその刺激から回復していないのだ。その事に気づいた時、怒りはなかったが、とまどいだった感情が確信に変わった。父親の俺に対する児童虐待が俺の脳に損傷を与えるという根拠に対して。

 これについては今の所、回復のめどは立っていないし、何をどうすればよいのか分からないが、子どもを言葉で、暴力で傷つけたら、その脳も破壊されるという仕組みが分かっただけで、怒りやとまどいや悲しみの落とし所は見つかったので良しとしている。

 後天的に発達障害のような脳の不全がおこるなんて、俺には想像もつかなかった。だが、現実にそのような事は起こった、それが俺の人生だ。


 新興宗教二世についてだ。日本国には信教の自由があるらしいが、俺自身が子どもの頃には信教の自由はなかった。世界救世教しか選択肢がなかった。それがとても嫌だった。

 または何も信仰したくないという選択肢もなかった。といえば通じるだろうか?選択肢がない生活ほど苦しいものはない。聞こえるか祖母よ、父よ。俺は選択肢が欲しかったのだ。

 俺の自分史ではあるが一旦外れて、祖母の事を書かねばなるまい。

 祖母カツ子は三三才の時に夫と死に別れ、子どもを三人抱えて人生の岐路に立たされていた。女手一人で子ども三人を育てるのは無理だからそれぞれ養子に出せとか、どこかいい良人と再婚して養ってもらえとかである。宮城県石巻の出身の田舎者の祖母には兄弟従兄弟が多数おり、その男性陣が家によく遊びに来ていた事から「あの家には男性多数が出入りしていてふしだらだ」みたいな陰口も言われていたようだ。

 だからといって宗教にすがるってのはどうかと思うが、祖母を支えたのは宗教だった。世界救世教が祖母の半生に寄り添い、支え、行動を支配したのであった。信仰を手にした未亡人である所の祖母は強くなっていた。昼夜働き、子どもを三人育てきったそうな。

 で、長男の子どもが生まれた。俺だ。目に入れても痛くない程の入れ込みようだったらしい。そんな風には見えなかったけど。俺が火傷をした時も相当に心を痛めたようだ。俺にはそんな態度見せなかったけれども。

 実母が逃げ出すように家を出て、俺を育てるのに人手がない。そんな中、祖母が俺の面倒を見つつも働ける場所を探した。その結果が世界救世教の布教所(教会)の事務だった。これが前史だ。

 そういう前史があっての俺と世界救世教である。祖母は宗教を切り離せなかったかも知れないが、俺はそういうのと無関係で育ちたかったなと思うのだ。

 そのような事を説明されず、俺はいきなり子どもの頃に、意識が芽生えてから宗教に放り出された。

 俺にとっては見るもの全て、聞こえるもの全て、触れるもの全てが意味不明だった。俺が生まれるより前の事を伝えるなり、生まれてからの事、つまりは実母に逃げられた話や火傷を負わされた件を説明してくれないのはつらすぎる。圧倒的に両親や祖母からの説明が足りてなかった幼少期だった。神様の事については見知らぬ大人たちが教えてくれてた気もするけれども。

 我思う、故に我あり。ではあった。しかしその前提条件とか、今ここがどこなのかとか説明は一切なしだった。人生ハードモードすぎるでしょ。徒手(武器をもたないで戦う様)は無理ゲームすぎる。ひどい祖母と父だったなと今では思う。

 一方で、俺が祖母や父だったらどんな選択肢があったか考えてみるが、五十年前の横須賀で片親家庭に福祉が何かできたか?できない訳で、選択肢としては宗教に頼るくらいしかなかった訳だ。その辺は譲歩して、じゃあ子どもの俺に状況説明をしないでいるかと言うと、うん、した方がいいな。大人の都合を子どもに押し付けるのはよくないが、今この状況を子どもと親とで乗り切るためには、せめて説明だけでもして情報共有を図るのは鉄則だろう。生き残るためには。と思う訳だ。オジサンになった今の俺は。

 なぜそれをしなかった。腹が立つ。バカじゃないのか、バカだからそうしたんだろうなあ。信仰に強い自信を持っていたら、そのくらい言えただろうに、それすら言わなかったのが信じられない。親心というのはそういう無慈悲なものなのだろうか?知恵が足りてないなとバッサリ切ってしまいたくなる。

 結果、四〇代になって、世界救世教の後継団体に電話をしてまで問い合わせをして、ちゃんと俺が信徒でないと確認して抜けなければならなかった。これもかなり手痛いと思うのだ。その心理的物的コストを返してくれ死んだ祖母よ、生きている父親よ。


「田上さんはアスペルガーだよね」と、

 長年カウンセリングしてもらっている心理士さんに言われたのでアスペルガーを知ったのだが、それがなんなのか未だによく分かっていない俺なのである。雑な検索によると「社会的なコミュニケーションや他の人とのやりとりが上手く出来ない、興味や活動が偏るといった特徴を持っていて、自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群といった呼び方をされることもあります。」とあった。

 他の人とのやりとりが上手く出来ない。これまさしく俺が物心ついた頃から困っていた悩みごとで、よく「伝わっているかな?」と思い悩むフレーズなのだ。

 言いたいことが上手く伝えられたか悩むし、伝えられた気がしないし、伝える方向にばかり意識が向いていて、聞く方向には意識が向いていないとか、そういう問題を抱えている気がする。ささいな問題なのだけど、数十年単位で塵も積もれば山となって歪みになってるような気もしている。

 意思疎通に難がある人だなと、ある人を思っていたら、俺の方が意思疎通に難がある人だって分かった瞬間の落ち込みようったらありゃしない。凹むし、どう対応対処すればいいのか未だにわからない。誰に対してもだ。

 他にも「相手の気持ちや意図を想像するのが苦手」確かに他人の気持ちを察するのが病的に苦手で、父親のセリフ「察しろ」に対して「エスパーじゃないから無理」と返した事もあった。説明しなさすぎの父親にも問題はあったかもだが。

「その場の雰囲気に沿った発言や、空気を読むことが難しい」空気を読みすぎて自爆することはよくある。過剰に反応しちゃう部分がある。対応じゃなく反応なのだ。

「曖昧な説明や指示を理解することが苦手」指示書がないと仕事にならない。マニュアルをゼロから作るのも苦手、言語化が苦手だったんだ。

「非言語コミュニケーション(視線、身振り・表情など)の理解が難しい」視線はよく分からない事が多い。多分無視していると思う。

「相手の発言をそのまま受け取ってしまう(冗談なのか区別しにくい)」これはそう。なので会話に困る事がままある。

「人の話に共感しにくいことが多い」これもよく分からない感覚かも。逆に、俺の側から他者に共感を求める事はできるようになったかも知れない。例えば、金欠時の賢さや、頭の回転が下がる独特の感覚について叔母と話した時に「分かる」って言ってもらえたしな。

「他人への興味が薄く、一人で過ごすのが好き」究極にはそう。他者とわいわいするのは苦手で一人で図書館の本を発掘する方が好き。

「決められた手順やルールにこだわる」これもそうね。何故か俺ルールを外れると機嫌が悪くなるんだよな。

「急な変更や予定外があるとパニックになってしまう」これも生きてきて困った事の一つだ。

「臨機応変な対応が苦手」アドリブは念入りに考えておいて、そこから会話の選択肢を複数用意しておく感じかな?即興は苦手な方だ。

「特定の対象への強い没頭」ドラゴンクエスト(ゲームの名前)とかSF小説とかラブプラス(これもゲームの名前)への傾倒っぷりとか、それらしいよなあ。

「感覚過敏もしくは鈍感」足裏の意味不明な痛みや、光の眩しさが異様で、できるなら度入りサングラスをしたい程度に日の光が苦手だ。

「同じような動作を繰り返す」これはあまり思い当たらない。

「興味のないものは関心が持ちにくい」病的にがつく程その傾向が強いというのは自分でも感じている。

 と、自分史のエピソードから引っ張るというより、オジサンになった今この瞬間まさにここに書かれたような傾向が感じられて、昔にあった出来事を振り返る事ができない。なんでだろう?困ったものだ。

 困っているが病的に困って、死にたくなる気分を誘発したりはないので、まだましなのかも知れない。少なくとも令和四年二月の今は。過去を振り返って小学校の頃が一番感覚鋭敏でしんどかったのを覚えている。特に足の裏が痛かったのは夢にまで見る。

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