エピソード一 ゼロ歳児頃

 昭和四十六年、また逢う日までがレコード大賞を獲得した年だ。アポロ十四号が月面着陸をした年でもある。

 七月五日に俺は横須賀の衣笠病院で生まれた。どのくらいの体重なのかであるとか、元気だったかだとかはわからない、その母子手帳がないからだ。

 後年、たしか小学生の頃に、母親へ俺の母子手帳のありかを尋ねたが、言葉をにごして、ちゃんとした答えがかえってこなかった。

 なぜなら母は継母で、俺の体重が何グラムだったか、へその緒がどこにしまってあるかについては、分からないため答えられなかったからだ。

 分からないのは当然なのだが、なんというか子どもの俺にとってはひどい話だった。これでも一応、田上家の長男なのにな。どうした事だろうと子ども心に、継母の対応や態度が不思議に思われたのだった。

 なにはともあれ、この辺は俺自身赤ちゃんすぎて、記憶がないために叔母からの伝聞にならざるを得ない。悲しいが続ける。

 叔母は、俺が二六才の時に全てを知っているかのごとく、俺が赤ちゃんの頃について話してくれた。ところが、俺には知らない事ばかりでとまどい、混乱して、結果寝込んだのであった。

 まさか父親がバツイチで、実母と思い込んでいた母親が、後妻だったなんて!右腕のやけど跡は、顔も知らない実母ははがつけたとな!なんだそりゃ。

 叔母が語った内容をもとに、俺の生まれてからの事を書こうと思う。

 俺、田上たがみみつる

 父親の田上たがみ慎司しんじ、昭和二十年十二月生まれ。第二次世界大戦直後に生まれ、幼くして父親と死に別れた。自称苦労人。外づらがよく、気分屋。子ども相手に木刀で殴る、本気で殴る、寝ている俺の頭を蹴る、父親(祖父)が早死した事がコンプレックスになっていて、時として地雷になる。家族として相手するのが非常に面倒くさい人。

 継母の旧姓花輪はなわ明穂あきほ、昭和二十二年十月生まれ。第二次世界大戦後生まれ、父親より二才若い。英語の発音ができなくて中学教育に恨みをもってると何度も繰り返してきた。言語化しにくいけど悪意ある行動をしょっちゅうする人だ。叔母曰く「いい意味で能天気な人」というのが非常にしっくりくる。

 実母の旧姓、田中たなか留美子るみこ、俺の生みの親で母子手帳もこの人が持っていっていたために、赤ちゃんの頃が不明となってしまった張本人。謎の人物。取材しても何も出てこなかったが、田中家の実家住所、再婚先の住所電話などは調べがついた。

 祖母の田上たがみカツ、大正十五年生まれの老け顔東北美人。宗教にハマってしまい、田上家を壊した張本人のひとり。甘え下手。たまにズーズー弁が出てた気がする。

 さて話を俺の赤ちゃん時代にもどす。生まれた俺は、順調にすくすく育ってはくれなかったようだ。生まれて半年ほどで事件がおきる。

 結婚した田上慎司・留美子夫妻は、横須賀市追浜町に世帯を独立して暮らしていた。慎司はその当時、消防署の救急車の運転手だったそうだ(この世帯を独立していた先が追浜と書いたが、実は未確認だ。というのも旧姓田中留美子の実家が追浜本町にあったので、そこと混同しているのかも知れない)。

 令和三年三月二十日、コロナ禍の最中の春分の日だったが、思い立って、横須賀市追浜本町にある、田中留美子の実家住所へ訪問してきた。写真の建物はその住所ではない。となりの建物なのだが、適度に古かったために撮影してみた。商売用と思われるワゴン車が停まっていたが、モザイク処理してある。

 他にも、生みの親の田中留美子の実家の周囲を撮影してきた。京急の追浜駅から数分という駅近でいい所に住んでたようだ。流石に周辺に聞き込みはできず、引き上げてきたが道路のはす向かいに、百年続いたというパン屋があったので、もしかしたらその店主に田中家の事を聞けば娘(留美子)について何かしら聞けたかも知れない。

写真説明:追浜本町にある実母の実家(は隣の建物)

 冬のある日、実母の留美子が熱湯をこぼして俺の右腕に大やけどを負わせたようなのだ。ようなのだというのはその場に俺と留美子の他に誰も居合わせなかったため、こういう表現になる。

 この話を聞いた当時も五十才になった今も、下衆な想像をしてしまった事がある。実は浮気相手のオッサンがいて、なぜだか急にキレて俺に熱湯をかけたのじゃないかとか、そういうのだ。でも、そうではなかったようだけど。

 当然の事ながら、赤ちゃんの俺は大号泣。実母はパニクってやけどの応急措置では常識の流水につけるという行為をせず、赤ちゃんの俺の洋服を脱がし、いや腕からはがしてしまったようだ。

 そのために洋服の右腕部分には、皮膚と肉がべっとりついたまま剥がれてしまった。パニックになるのはまあ若かった……当時の留美子は年齢を計算すると一九才だったはず……とはいえ、さすがにこの行動にはあきれて言葉もでない。

写真説明:実母の実家近所にあった神社

 右腕の皮膚をはがされ、やけども負ってた俺。さぞ痛かったろう。辛かったろう。愛情をそそがれる代わりに、熱湯と苦痛をそそがれた赤ちゃんの、しんどさを考えると怒りが止まらないし、何よりとてもとても悲しい。

 そして、消防署勤務だった父親へ電話をかけたそうな。パニクってる留美子と慎司がどんな会話をしたのか?父親は五〇才の今になっても話してはくれない。

 後年、俺が成人してから「この事件は刑事事件として立件できないのか?」と本気でなやみ、考えた。事件は起きてからではなく知ってから立件できる制度が用意されているはずだがと、検察庁の横須賀支所に問い合わせしてみたが、木で鼻をくくったような態度であしらわれてしまった。傷害事件じゃんか。児童虐待じゃんかと。

 このやけど事件までに、実母と祖母の間でも何か子育てについて、やりとりやいざこざがあったらしいが、このやけどという事件事故が決定打となったようだ。

 この事件後に留美子は、俺を誰か知らない人にあずけて、家から逃げ出してしまった。なんということだ。ひょっとして乖離かいりせい遁走とんそう(無意識のうちに逃げ出してしまう病気があるんだそうな)か?そんな馬鹿な。単に無責任な、後先考えない行動だったなだけだと思われる。

 その結果、祖母は大激怒した。父親はこの時どうしてたか、知らんし語らんし、しらばっくれてる。その見知らぬ人に預けられた俺が発見された時は、目やにで目が開かないような、どうしようもない状態だったそうな。悲惨きわまる状態である。横須賀市長井在住の叔父と叔母から、その話を聞かされた当人の俺としては、どういう反応をすればいいかわからん程度につらかった。

 そしてなんやかんやあって、昭和四八年七月に父と母は離婚が成立した。父親に親権があるという離婚になった。俺は田上家長男としてそのまま育てられたのだった。

 ……というような俺の前史を、叔母以外の誰もが教えてくれなかった。俺がこれらの事を知ったのは成人してからなので……感情の行き場もなかった。俺の赤ちゃん時代について、両親祖母がちゃんと俺に話してくれなかったために、子どもの頃から「俺はひょっとしたら、愛されてないのか?」と勝手に思っていたのであった。

 五〇才の今考えるに、登場人物全員が、子どもの愛し方が下手で、赤ちゃんの田上少年は不幸だった。主に父親と祖母がちゃんと言葉にしなくて、なんにも伝わらないのに「言わなくても察しろ」と言った父親に対して、情けなやあわれみ、怒りを覚える。

 各人、自分の都合の悪いことを棚に上げて。主に理屈でなく感情で子どもに強く当たっていた父親は、俺から拒絶されて当然だなと思ったりするのだ。

 まだゼロ才児なのに、波乱万丈すぎるでしょ。不幸すぎでしょ。それでもって謎の登場人物がいて、その預けられた人って誰なのさ?結局わからずじまいだった。命の恩人ではあるけど、世が世なら未成年者略取りやくしゆ、いわゆる誘拐犯だよ!と思うのだが、これを読んでるあなたはどう感じるか聞かせてほしい。不幸な赤ちゃんだよな?あわれみの対象だよな?過去の出来事だけれどもさ。

 そのような結果かわからんのだが、俺が一才の頃の写真が唯一手元に残っているのだけど、右腕にやけどの痕があり目はうつろに死んでいる。その一枚の写真しか残っていないのだ。長男なのに!子ども心に「俺は愛されてないんだ」と勘違いしてもおかしくないだろう。

 しかしなぜ他の写真を処分したのか?実母と一緒に写ってる事が多いからのようだと推察する。そんなに実母がにくいのか?存在を消すが如くにか。異常すぎる、旧ソビエトのニコライ・エジョフがスターリンに粛清された後、公式の写真からその存在がフォトショップのように消されたのを思い出したりした五〇才の俺なのであった。

写真説明:唯一の赤ちゃんの頃の写真

 もしかしてなのだが、実の両親ともども、何か精神障害でもあったのかと思う程度に、この件に対しての反応は空疎だ。まともに言葉が返ってきた記憶がない。

 俺以上に精神にダメージを受けたのかも知れないが、本人に「客観的事実として何があったか?」を伝えられないのは、ある種の障害持ちだったのではないか、と思われる程度にひどいのだ。もう一つは、彼ら彼女らにはそれほど重要な出来事「ではない」から覚えていない、語れないである可能性もあるのではないだろうか。

 もう一度ダメ元で取材を申し出てみるつもりだが、電話がダメなら直接か手紙か。どうする俺。直接会ったら冷静でいられる自信はない。

 令和三年四月二日、田中留美子が、再婚後に住んでいたと思われる住所へ探訪してきた。横浜から京急線で逗子・葉山駅にて下車。バスで三浦半島の西岸を南下して、佐島入口にある横須賀市営住宅を訪ねてきた。

写真説明:田中留美子の住所にあるアパート群

 取材の前日は眠れず、どうせ会えないと分かっていても、もし会えたら何を会話するか、メモはどうする?等を考えて、悶々としていた。実際は、鋼鉄製であろう扉をノックすらできず、建物の写真と入口付近を撮影して逃げるようにその場を立ち去ってしまったのだが。冷静になったと言うべきか。なんだか憑き物が落ちるように、追求の言葉も出なくなってしまった。

 というか、建物の入口にあるポストが、養生テープ塞がれており、該当する部屋の表札はなく(他の棟は表札が出ている世帯も確認できたのだが)さすがに階段を登り、扉をノックして「旧姓田中留美子さんのお住まいですか?」等と訪問するという、愚というか蛮なのだろうかできるはずもなく。

 言葉が悪いのだが、横須賀の交通の便がクソ悪い田舎で、何年もの間クソ狭い市営住宅に、息子三人と旦那と一緒に住んでいたであろう老女に、興味が失せてしまった。俺が復讐にくるのに怯えていたのだろうか?実母がどう思っていたかわからんし、知りたくないが、戸籍から抜かれても、俺にとっては母親だったのになあと、渇望してたが興味が失せた。酸っぱいぶどうなのかも知れないが。

 酸っぱいぶどうとは、狐が己が取れなかった後に、狙っていた葡萄を酸っぱくて美味しくないモノに決まっていると、自己正当化したイソップ童話にちなんだ、負け惜しみの心理学的説明である。

 俺は近所のコンビニで購入した、ぬるくなった水のペットボトルをちびちび飲みながら、一時間に数本のバスを待ちバス停に佇んでいたのだった。

 気分?スッキリしたよ!胸の中にあったモヤモヤや長年の妄想じみた疑問は謎の納得とともに消えてしまった。

写真説明:この建物に田中留美子が住んでいたと思われる

写真説明:建物の入口。右側にある郵便ポストは塞がれていた

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