番外 叔母・継母・父親・実母について雑感

 長井の叔母さんは父親の妹で、赤ちゃんの頃から世話になっている人だ。

「自分の息子より光の方が目の中に入れても痛くない」と豪語しており、その可愛がり方は相当なものだと思う。俺が赤ちゃんの頃にはオムツを変えてくれたそうだ。

 気恥ずかしいが書く。俺と叔母さんとの精神的な距離は近い、継母の明穂さんより近いかも知れない。俺が小学生の頃家出した時、叔母さんは優しく抱きしめてくれた。明穂さんはその時どうしてくれただろうか?腫れ物にふれるように何もしてくれなかった。五〇才の今に考えると、何もしないのも愛情表現かも知れないが、言葉にしないと俺には何も伝わらなかったと思う。その辺明穂さんは根本的な所で「ずれてる」のだ。会話下手なのだ。かといって無言で抱きしめてもらった記憶もない。

 小学生の万引きがバレた時も、叔母さんならどうしていただろうか考えてみる。優しく諭してくれたかも知れない。明穂さんはどうしたか記憶がない。無言だったのではないだろうか?相当に辛い対応をされたので記憶がないのだ。悲しい。

 叔母さんから怒鳴られた記憶がない。いや、怒るとか叱るとか、そういう感情がゼロではないはずだ。ただ負の感情をぶつけられた記憶がない。母親と祖母からは割としょっちゅう「光!」と名前に負の感情を込めて叱ったりされた記憶が残っている。なので俺は自分の名前が(負の感情が付随してるため)大嫌いなのであった。叱り方も下手だった。祖母も名前に負の感情をぶつけてくる人だったのを思い出した。言葉で滔々と諭してくる事は父親・母親・祖母の三人には皆無だった。そうして欲しい俺なのであった。五〇才の今になって、言葉や対話が心の平穏を生む効果を実感しているから尚更である。自分史を書いて悲しい気持ちを振り返るまでは、恨みさえ持っていた。

 父親について、自分史の本編で言及するのがとても難しく感じている。何故か考えてみる。理不尽に負の感情をぶつけられ、心が傷ついた記憶は残っているが、詳しい時間が曖昧なのだ。

 思い出しているが、小学生の頃だけでも、気分屋で何を考えているか分からなくて苦労していた想い出がある。不意に殴る、意味なく怒る、かと思うと理由が分からず機嫌がいい日があったりと、行動に一貫性がない人で、予測がつかなかった。

 五〇才の今思うに、父親は俺との意思疎通になんらかの障害をもっていたのではないかと思える。

 一つ強烈なエピソードを思い出してみた。それは俺が四八才の時に胆石症で入院、手術をうけた時の事だ。胆のうを摘出するのに、全身麻酔が必要になった。そのために手術前に麻酔科医師との打ち合わせの機会が俺と父親の三人で行われた。

 その席上で、麻酔科医師より麻酔の危険性の説明が行われた。そして話は麻酔科医師から父親に何か質問はないかと問いかけられた。質問の時間だ。

 この時の父親の返答がとんちんかんすぎた。なぜか父親自身がうけた手術と全身麻酔の経験について話をしはじめ、麻酔科医師は困惑していた。俺も困惑していた。

 この場の主題は俺の麻酔に関する事柄のはずだが。ツッコミを入れたかったが追いつかなかった。この「言葉は通じるけど、意思疎通ができない感じ」は俺が子どもの頃から感じていた違和感の全てだった。

 成人してから三〇年すぎて、麻酔科医師の前でやっと言葉に落とし込む事ができたと思う。それまでどうやってこの意思疎通の出来なさ具合を誰かに伝える事ができるのか、さっぱり言葉にできなかったのだ。

 他に思い出す細々した事は、パソコンにソフトを入れる事を「インストール」と言うが、父親はいつも「インストロール」になっていた。言い間違えにしてはやけに病的な気配を俺は感じていた。他にも口癖のように「セイムセイム」と言っていた。意味は不明だ。

 他に父親自身の昔の出来事を思い出すと必ず言う話題が、彼が消防署に勤務していた頃の話で、それは火事の現場で人がまるこげになっているのを見た直後に、消防の夜食が焼き肉だったので食べるのに難儀したという件で、俺や他の人が嫌がっているのにも関わらず、何度も繰り返し父親が面白がって話すのであった。ちっとも面白くなかったのだけれども。

 この俺の嫌がる話を延々とする、やめろと言っても止められないという、他者の気持ちが把握できていない話しっぷりに、何度もうんざりさせられていた。

 それらが木刀とげんこつの間に、気まぐれで不意打ちでやってくるのだ。

 父親の機嫌をとらないと平穏に生活できない家庭なんて、意味があるのだろうか、いやない。そのような荒んだ家庭だった。機嫌をとっていても、朝には父親が理由もなく不機嫌で、俺が足蹴にされる訳だ。思い出しながら書くのも苦痛だ。

 できることなら殴り返しておけばよかったと後悔している。五〇才の今殴りかえそうとしたら、多分殺害してしまうかもしれないからだ。自分の機嫌を他者にとらせる、しかも家族にというのは人間として最低の部類だと最近学んだ。これって俺の父親の事じゃないかって思わず膝をたたいたものだ。

 実母の留美子についても言及してみる。この自分史を指導してもらっている北見康子先生から「実母の留美子は田上家の宗教に合わず家庭内で孤立していたのではないか、そのため俺の右腕の火傷事件は家を出るきっかけかも知れないが、それ単体ではなく宗教も十分家出の理由になりうる。あまりにも可愛そうすぎる」と指摘があったのだ。

 その視点、田上家の宗教に留美子が合わなかったというのは目から鱗であった。信仰は合う合わないが確かに大きい要因の一つだと思える。

 そういえば昔、三十才の頃に電話した時も宗教についての言及はなかった。言及しないのはそれがトラウマだったから言及をさけた、というのも納得のできる部分がある。電話の向こうで、留美子の声は震えてた気がする。途中から電話を息子に代わったのも、おそらく限界のための選択だったのだろう。

 電話ごしにとはいえ、俺に言葉で殺されるかも知れないという場面で実母を救ったのは、ゼロ才児の俺を手放した時と同じように、彼女の息子だった。それだけか弱い女だったのかも知れない。情けないと突き放して考えてしまう俺なのである。

 いや、身近に助けを求められる環境にいてよかったなとも思った。俺は苦しい時に助けを求められる環境ではなかった。

 なんたる皮肉。そしてなんという弱き生き物なのだろうか実母よ。俺は思う、女は強しじゃなかったのか?この女は知ってる限り二度息子を盾に生き延びようとしたのだ。

 一度は俺を、二度目は種違いの弟を盾にしたのだ。呆れるがその性根はあっぱれでもある。よもや自分の生んだ子どもに「右腕を返してくれ」と言われる等と想像していなかったであろう実母には強烈な一撃を加えた俺であった。後味はスッキリしなかったけれども。

 俺の勝手な思い込みだけれども、みすぼらしいアパートに親子五人が暮らすには狭すぎると思うのだが、もしかすると実母が自身を罰する的な側面があったのかも知れないとも現地に行ってみて俺は感じていた。

 余談だが、インターネットで電話番号と住所を検索できる「住所でポン」というサービスで、田中留美子の電話番号を検索すると二〇〇〇年頃まで長坂に住んでいたのを確認できる。有料版にすれば最新の情報も入手できるが、いつごろ引っ越したか等は調べていない。その後、雑に検索したら電話番号を非公開にしたのか検索しても電話番号が出る事はなかった。ストーカー(俺の事だ)対策したと思われる。しかし一方で、フェイスブックに田中留美子と同姓同名がいたので地道に調べれば実母をネット経由で観察できるかも知れないのだ。

 もちろん田中留美子というのは仮名で、本名は特徴的なので個人の特定が容易なのだ。個性的な氏名もこういう場合不利に働く。森の中に木を隠す事ができないからだ。書いていて、俺はずいぶん気持ち悪いなと思うが、実母を思う気持ちの大きさが行動に現れるのだ、仕方ない。見捨てられた子どもが、実母を追い求めては駄目なのだろうか?

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