番外 『ひさご』の思い出

 令和四年から計算して、三〇年以上昔のことだ。高校在学中に焼き鳥屋でアルバイトをした。その時の話をしよう。

 店の名前は『ひさご』京急線汐入駅から徒歩〇分の、六畳ひと間のカウンターだけの店だ。

 店名はともかく「汐入駅から徒歩〇分の焼き鳥屋」といえば、誰もが思い浮かべる店だ。

 その名前は知らなかったが、店は知っていた。夕方から夜にかけて、汐入駅を利用すると、香ばしいにおいがただよっていたからだ。

 五月の割と新学期ごろに、今はもう閉店した駅前の書店『汐入書房』の店の中で、床屋の息子で同級生の赤坂にいきなり声をかけられたことを思い出している。俺は趣味の文庫本コーナーを探していた。

「よう。しばらくぶりだな田上。そういえばお前、アルバイトに興味はないか?」と詰襟姿の赤坂が、俺に話しかけてきた。

「おう、赤坂じゃないか久しぶり。バイト?そりゃいいねえ。どこで募集していて、どんな仕事かな?」とブレザー姿で俺は、さわやかな笑顔を交えて言った。

「汐入駅の横にある焼き鳥屋『ひさご』で募集をして、誰かいないかと大将に頼まれていてね。お前なら適任かもな。内容は皿洗いだ」と赤坂が得意げに言った。

「なるほど、興味があるから行ってみるわ。ありがとうな、俺が適任かあ。なんだか照れるなあ」と、俺は即答して本屋でそのまま別れた。

 しかし、よくよく考えてみると、焼き鳥屋で現役高校生がバイトしちゃ駄目だろう。なぜなら酒類の提供があるからだ。

 当時は、その辺をなんにも考えていなかった。最寄り駅に近いバイトの誘いがあって、ラッキーだ。その程度にしか感想を持ってなかった。

 後日、学校帰りに制服で(!)店を訪ねると、ちょうど仕込みの最中で、おばちゃんたちが鶏に竹串を刺しているところだった。

 オーナー兼店主のKさん(以下大将)が忙しいなか、対応してくれた。

 大将はまだ三〇代前半の、やり手な青年実業家といった風情を漂わせていたが、服装が白Tシャツにはっぴ姿で、下はデニムパンツでなんとなくダサい印象を受けた。服装と風情のギャップが魅力に感じられた。

 生まれて初めて書いた履歴書の、細かい内容は忘れてしまったが、手書き文字に苦労したことは覚えている。そういえば、証明写真はどうしたか忘れてしまった。履歴書に貼付しなかったかも知れない。写真屋で撮影した記憶がないので、多分、証明写真機を使ったはずだ。この辺の記憶は曖昧だ。

 そうこうするうちに、面接もすんなり通ってしまい、バイトへのデビューが決まったのである。

 放課後は早くに学校を出て、寄り道せずに『ひさご』に通っていた。制服のまま、カウンター奥の階段を二階へあがり、着替えて階段下へおり、カウンター内の洗い場付近に陣取って、洗い物をするのが仕事だった。

 焼きを含む調理は一切しなかった。というのも焼きは職人が一人専属でおり、その人と大将の二人でローテーションを組み、回しているのであった。

 酒は飲むか?営業中はもちろん、仕事あがりにも絶対飲ませてはくれなかった。俺のほうにもそんな余裕はなかった。

 しかし、同時期に酒を飲んだことも覚えている。店での影響とは別に、酒を飲みタバコを吸っている不良高校生だった。当人としては不良の自覚はまったくなかったけれども。

 ともかく忙しく皿を洗い、酒の提供をし、接客をして、焼き職人の機嫌を取り、大将の機嫌も取るというあわただしさだった。

 夕方に店入りをして、帰宅してから遅い夕食をとるのであった。賄いは確か出なかった。

 六畳間を凹の字型にカウンターが仕切ってあり、凹の底面が店の正面で、そこに焼き鳥台が置かれていて、店の主戦場だった。

 一方の俺は、後方の凹の空白部分に待機しており、呼ばれたら出ていくのが常であった。そこに洗い場があったからだ。

 夕方から戦場の忙しさだった。よほどのことがない限り、俺は金銭を扱わなかった。いや、扱わせてもらえなかった。皿洗いには荷が重すぎるからで、それで良かったと思っている。

 俺は店の中で『ガミ』と呼ばれていた。『田上』から『ガミ』を取ってのあだ名だ。と言っても自分から「『ガミ』と呼んでください」と言い出した。自分の名前『みつる』は、なぜだか好きになれなかったからだ。そういうヒネた子どもだった。

 高校生にしては、時給も悪くなかった気がする。五〇才の今思えば、最低賃金だとは思うのだが。

 詳しく思い出せないので調べたが、昭和六〇年ごろの神奈川県の最低賃金が、四六一円だ。記憶だと、もっともらっていた気がする。

 たしか「時給が文庫一冊分か、悪くないな」と給与明細を見て思ったのを思い出したからだ。

 お世辞にも店は綺麗だったとは言えない。子猫くらいの大きさのドブネズミが罠にかかっていたこともある。ゴキブリ(店では「太郎」と呼ばれていた)もよく見かけた。台所用洗剤をかけて殺していた。すぐ近所にドブ川があった影響だろうか。そのドブ川も横須賀芸術劇場が建設された頃(平成六年)には埋設されたようだった。

 数ヶ月にわたり、割と真面目にバイトをしていたが、ある日、学校の先生にばれてしまった。

 それが運悪く、別学年の担任をしている梅井先生だった。

 さらに運がわるいことに、同級生の梅井武夫くんの父親で、子どもの頃からの顔見知りなのだ。

 先生が店にやってきた時のことは、よく覚えている。のれんをひょいとくぐり、慣れた調子で椅子に座った。俺より店に慣れており、それは常連の仕草だった。梅井先生と気づいたが特別な声掛けもせず「いらっしゃいませ」と大将に教えられた通り、いつもの大声を出していた。

 記憶ちがいでなければ、あの時、店先で目があった時に「アチャー、めんどうになったな」という表情を見せられたような気がする。

 その場で何も言われなかったし、自分としては「何ら問題はない」と勝手に思い込んでたのだ。

 数日後、学校で教室移動をしてる最中に、梅井先生に声をかけられた。

「田上ぃ。お前『酒の提供を含む店』でのバイトはやっちゃいかんだろう。『ひさご』のことだぞわかってるかコラ」

「おっとこれは梅井センセ。一体何のことでしょう?」と、俺はとぼけたが無駄だった。というか、その言葉ですべてを察したのだ。

「という訳で、職員室で問題になったから、謹慎三日間な。退学にならずにすんで良かったな、俺の手腕だぞ」とふんぞり返って梅井先生が言った。

 いくら昔からの知り合いだからって、もっと言いかたがあるだろうに。ひどすぎると思ったが、謹慎で済んだのは良かったほうだ。このセリフは、どうやら他人にも聞こえるように言っていたらしい。

 さらに後日、もろもろ謹慎などが終わって梅井君の自宅へ遊びに行った時に、父親である梅井先生から「店で遭遇したのは、不幸な事故だった」というような言葉を頂いた。多分、こちらのほうが本音なのだろう。

 このバイトが楽しかったのなんの。

 無知な若造の俺に、酒の飲みかたやタバコの吸いかたを教えてくれる、無責任な酔っ払いのおじさん、酔ってるのか、しらふなのか分からない水商売の姉さんがた、女癖が悪いと噂の大将に、いじられ役の焼き専門の職人と、癖の強い人たちに出会ったからだ。

 大将の女癖の悪さは、それ自体が伝説級の噂になっており、浮気し放題だの、とっかえひっかえだの、それが元で嫁に逃げられたらしいだのを、店の常連が新人の俺に教えてくれた

 しかし大将は、営業時間中に絶対ふざけたことをしなかった。汗だくで焼きの職人に熱血指導してたのが印象に残っている。火を扱う仕事のためか、そこは真面目にやっていたと覚えている。

 焼きの職人は名前を忘れてしまったが、まだ二〇代の若い兄ちゃんで、お互いに大将から叱られる立場だったからか、不思議なことに自分と気が合った。大将の熱血指導に、ふてくされることもなく真面目に仕事してる姿に、男ぼれしたのを覚えている、令和の今も元気でいるだろうか気になる所だ。

 そういえば、ジムビーム(慣れるまで臭いバーボンでそれなりに美味い)を常連客から一本もらい、梅井君の家に持っていき、彼に横流ししたことを思い出した。お互い高校生なのに何をしていたのだか、いい思い出だ。

 話は変わって、汐入駅は米軍基地のゲートがある関係で、基地で働く人たちが仕事上がりのアルコールを一杯ひっかけるための店が、数多くあり、『ひさご』もその一軒だった。そのような説明を大将から聞いた。事実、店の客層も、外国人対日本人の比率が一対一だったような気がする。

 そのため、酒の種類は比較的軽いものが多く、つまみも焼き鳥以外はほとんどなかった。冷ややっこに枝豆などだ。

 ああ、書いていたら酒はともかく、できたての焼き鳥を食べたくなってきた。

 店は九〇年代に行われた汐入駅の改装にあわせて、閉店してしまったが、このエッセイを書くに当たって、誰か記憶をインターネットに書いているかなと、検索をした。

 そうしたら、なんと同じ町内の汐入町四丁目のとある居酒屋の隣で、ちょうど汐入交番の斜向かい辺りに移転して、営業を続けているのがわかった。オーナーは違うようだが、これは取材して確かめなければなるまい。

 さらに検索したら令和四年現在、旧汐入駅前の『ひさご』のオーナーが(多分大将のことだろう)JR横須賀線の衣笠駅の駅前通りで、奇しくも『ひさご』という焼き鳥屋を経営しているようだ。そちらも確認せねばなるまい。

 大将も焼き職人の彼も、まだ生きていて健康ならばよいけれど。二人共もういい年齢だろうなあ。旧交を温める程度の交流はないかも知れない。しかし、俺にとっては忘れられない人なのであった。

 三〇年ぶりに食べる、焼き立てのネギマは思い出の効果もあって、さぞうまいだろうなあ。

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