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 張りを伴った皮の滑らかさと姿勢を崩さない程度に臀部が柔らかく沈み込む絶妙な深度に密やかな感銘を覚える。入社以来初めて入った役員専用の面談室で横田執行役員を前にした高太朗は、ソファの座り心地の良さも相まって地に足のつかない高揚感に包まれていた。

「直属のチームなのに全然見てあげれてなくてゴメンね」

 横田が人懐っこい笑顔で語りかけた。

 細身でスーツを着こなす彼が無防備に相好を崩すと、普段のシャープな印象とのギャップに相手の内心には自然と歓喜が込み上げる。

「本当におめでとう。栗田さんがこんなに早く成果を上げてくれて嬉しいよ」

「ありがとうございます」

 称賛に高太朗は照れ笑いを浮かべて頷いた。

 今朝、自分の名前が呼ばれた時は一瞬何が起こったのかわからなかった。月に一度の全社定例。個人賞発表の段で「月間新人賞」に選出されたのだった。

 要因は大手新聞社との契約締結に寄与したこと。以前有里から依頼を受け、源さんと夜中までデータ入力を行なった案件が評価され、有里と二人での受賞だった。

『特別な成果をあげた』という自覚が全くなかったため、我関せずで聞いていた高太朗は言葉を失い、目録を受け取る動きも挙動不審、受賞のコメントも要領を得ないたどたどしいものに終始した。その定例終了後に横田に呼び止められ、今この面談に至る。

「やっぱり栗田さんを石塚さんに預けて正解だったよ」

 横田が快活な笑みを浮かべて語る。

「あの人の隣にいると、否が応でも仕事が一つ一つの小さいことの積み重ねだって思い知らされるからなあ。俺も十年前は散々こきつかわれたよ」

「横田さんも石塚さんと一緒に仕事されたことあるんですか?」

「俺も十年前、新卒一年目で配属されたのがあの人のチームだったんだよ。一年間みっちりしごかれた」

 いまや最年少役員として華々しい活躍をする横田のキャリアのスタートが自分と同じであることに高太朗は驚いた。同時に、塔子と横田の間に感じられる得も言われぬ信頼関係のようなものの正体が分かった気がした。

「当時は早く活躍したいって気ばかり焦って、先を行く同期たちを羨んだりしたもんだけど、あの時仕事の基本的な姿勢を身につけたことが二年目以降の土台になってたんだなと今はしみじみ感じるよ」

「そんな歴史があったんですね」

 横田が頷く。

「それで新卒研修での栗田さんの姿が、『昔の自分に似てるなあ』と思って石塚さんのところに配属してもらったっていう流れ。まあ栗田さんにとってはいい迷惑だったかもしれないけど」

 高太朗は不本意に感じていた自分の配属に関しての背景を知り、胸の澱みが溶けていくのを感じた。光栄な気持ちにさえなったが、反面一つの疑問が湧き上がる。

「石塚さんはなんでそんなに評価されてるのにこんなにも長い間アルバイトなんですか?」

「あーそれね」と言って横田は苦笑した。

「何回も社員にならないかって声かけてるんだけど、一向に首を縦に振らないんだよねあの人。『本業があるから』って」

「やっぱりそうなんですね」

「大手の取引先の中には『石塚さんがいるから』ってうちにサービス管理を依頼してくれてるところも沢山あるし、社内の調査とか別業務を頼んだりすることもあるから、会社としては是非とも待遇を良くして留めておきたい人材なんだけどね。ブレないんだよな」

「石塚さんらしいですね」

「ほんとにな」

そう言って顔を見合わせ二人はしばし笑い合った。


「これからもこの調子で頑張ってよ」

ひとしきり激励され高太朗は面談室を出た。執務フロアに戻り自席へと歩を進める途中、設置された大型テレビにこの会社への不正アクセス事件について報じているニュースが映っているのが目に入った。

違法業者の逮捕から一週間あまり、事件は順調に捜査が進み、拓也は聴取の中で関与を認めて逮捕された。ほどなくして『もう一人の協力者』も逮捕され、騒々しさは収束の様相を呈している。

ここ数日のニュースやワイドショーでは、内部の社員が関わったという部分に着目し、現代の会社組織が抱える構造的なリスクを象徴する出来事として、この事件を締め括っているところが多いようだった。

 今回拓也に話を持ちかけ、データの受け渡しなどを担当していた『もう一人の協力者』は、会社に出入りしていた宅配業者の男だった。報じられた男の供述によると、男は違法業者のメンバーの一人と学生時代からの知人で、拓也が大型の取引を逃して取り乱している姿を集荷業務で会社を訪れた際に偶然目撃し、話を持ちかけたそうだ。拓也は営業成績が伸び悩んでいた焦りから、追い詰められ誘いに乗ってしまったらしい。

 押収された男のノートパソコンには、拓也に渡すデータをコピーし、それを閲覧した形跡があったと報じられている。

 思い返してみれば、確かに高太朗が男から受け取った伝票の控えには、品物を記載する欄に『卓上カレンダー』と正確に〝機密情報〟が記されていた。塔子は高太朗から提出されたその伝票の控えをみて、男が共犯者であると目星をつけたのだろう。報道を見る限りでは、会社からの情報提供が男の逮捕に寄与しているのかはわからなかったが。

 高太朗は事件の解決とともに社内が落ち着きを取り戻し始めたことに安堵する一方、最初に上手くいってしまったが故に見栄を張らざるを得なかった拓也の境遇を思い、自業自得だとの見方からくる愉悦と幾らかのいたたまれなさがない交ぜになった感情を覚えた。


思い巡らせながら席に戻り、パソコンを起動させた。今日も右隣には塔子が、向かいの席には源さんが座り、淡々と業務を遂行している。

立ち上ったウェブブラウザのホーム画面に、『よく見るページ』の一つとして先日面接を受けた会社のページが表示された。あの会社からは内定の連絡をもらっていたが、塔子とカフェで話した翌日に電話で辞退の意思を伝えた。

カフェで話した日、塔子が机に置き忘れていった文庫本、その装画の作者として記されていたのは『石塚塔子』の名前だった。

驚きからネットで検索してみると、彼女の活躍の記録が見切れないほど多数表示された。

石塚塔子は定期的に画廊や美術館で作品を発表するほか、広告などいくつかの商業的な仕事も手がけている熱心なファンを持つ画家だった。なかでも書籍の装画には数多く起用されており、表紙となっている書籍には誰もが知っている人気作家や高太朗が好んで読んでいた小説家のものもあった。

 さらに彼女は毎年必ず初夏に個展を行なっていて、その日程はちょうど先日、塔子が会社を一週間ほど休んだ期間と重なっていた。

 塔子が毎日早くに出社し定時で帰るというサイクルを頑なに繰り返しているのも、社員登用を持ちかけられながら固辞し続けるのも、〝本業〟との両立を維持し続けるために構築してきた彼女なりの方法論なのだろう。毎日退勤後に喫茶店で机に向かっているのも、恐らく創作活動の一端に違いない。

 この事実に思い至った時、高太朗は自分がいかに他人任せで非現実的な空想に依って生きていたかを痛感した。

 世の中に流布する『成功者』の華々しい部分だけをかいつまんで都合よく採用し、理屈をこしらえては、自身の不遇の責任を誰かに押し付けることを繰り返す。そうやって立場的に自分を攻撃することのできない存在に物を言って、プライドを守っているだけ。

 これまで望む何者にもなれず、思い描く評価を得ることが出来なかったのも、実際の物事に向き合わず、現実的に一つ一つ行動することを避けてきたからだ。

 ごく身近にいる塔子の活躍を知り、憧れに思える世界といま座っているこの場所が地続きであることを目の当たりにして、いま逃避的に転職するのではなく、ここから一歩一歩進んでいってみようと決めたのだった。

「これこの前忘れてましたよ」

 高太朗はカバンから文庫本を取り出し、横から塔子のデスクの上に置いた。

 塔子は横目に文庫本を一瞥すると

「あら、ありがとう」

 と言って、文庫本を自分の方に十センチほど引き寄せ、再びパソコンの画面に向き直った。

高太朗はその『らしい』振る舞いを見て口元に小さく笑みを浮かべ、改めて周囲を見渡す。

塔子はいつもの凜とした姿勢で目の前の仕事をこなし、前の席では源さんが飄々とした様子で業務を捌く。有里や武志のいる営業部の方からは慌ただしく電話で話す声がいくつも重なりあって響き、休憩スペースからは談笑する声が聞こえる。

社内は今日も変わらぬ営みが繰り返され、いつもと同じ光景が形作られている。

 高太朗はブラウザの『よく見るページ』から面接を受けた会社を削除し、今日最初に更新するサイトの管理画面を開いて、仕事に取り掛かった。

意識の集中とともに騒々しさが遠のき頭の中が静かになる。

今日も右隣から規則正しくキーボードを叩く音が聞こえる。

(了)

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石塚さんの単調でありふれた仕事 佐藤 交(Sato Kou) @yuichiro7212

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