5-6 親子としての第一歩

 まさか、家に帰るだけなのにこんなにも緊張するなんて思わなかった。光磨は菜帆とキスミレに目配せをしてから、チャイムを鳴らす。自分の家なのにわざわざチャイムを鳴らしたのは、手っ取り早く秋鷹を呼ぶためだった。


「どうした。鍵でも忘れ……」


 ややあって、全体的に黒い寝間着姿の秋鷹が顔を出す。普段はコンタクトだが、今は縁なしの丸眼鏡をかけていた。菜帆の姿に驚いた様子の秋鷹は、目を丸くさせながらも頭を下げる。


「親父。その……話が、あるんだよ」

「…………何だ?」


 秋鷹は眼鏡のブリッジを押さえて、じっと光磨を見据えた。光磨は小さく息を吸い、ずっと訊きたかった言葉を解き放つ。


「母さんのことを、教えて欲しい」


 ――本当は、もっとさらりと言い放ちたかった。

 しかし、現実はそうもいかないらしい。どうしようもなく声が震えて、顔も強張ってしまった気がした。そんな自分か情けなくて、でも前に進みたくて、光磨はただ必死に秋鷹の返事を待つ。


「それは、母親としての浩美のことを知りたいってことか?」


 少しの沈黙のあと、秋鷹は顔色一つ変えずに訊ねてきた。

 違う。そうではない。そういうことじゃ、ない。

 答えはとっくに決まっているはずなのに、何故か光磨は後ろを向いてしまう。そこには心配そうに祈るようなポーズをしている菜帆と、優しく微笑むキスミレがいた。光磨は菜帆に笑いかけ、それから――キスミレと頷き合う。


「光磨、これで最後だよ。行ってらっしゃい……っ!」


 再び秋鷹と向かい合うと、キスミレの明るい声が聞こえてきた。同時に、背中から温かな光が流れ込む。何度経験しても不思議な感覚だと思った。でも、違うのだ。今までは、ただキスミレの力を借りているだけだった。

 今は、キスミレと一緒に前に進めている。そう言い切れる自分がいた。

 それと同時に、


「あ……っ」


 という、菜帆の小さな声が聞こえてくる。

 きっと、キスミレは――キスミレの光は、消えてしまったのだろう。いつものように姿を消した訳ではなく、心の底からキスミレの光になれたのだと納得してくれたのだと思った。

 だからこそ、光磨は冷静になることができたのかも知れない。


「アニソン歌手の……奥野原浩美としての母さんを、知りたいんだ」


 ――言えた。

 今まで馬鹿みたいに逃げ続けた言葉を、ようやく言うことができたのだ。そう思ったら、心がすーっと軽くなるのを感じた。ずっと我慢してきた何かが崩れ落ちるように、光磨は自分自身を止められなくなる。


「俺はずっと、アニソンから逃げてきた。別に嫌いな訳じゃない。そうじゃなくて……むしろ、興味があったんだよ」


 自分の気持ちを吐露する度に、光磨の視線は秋鷹の足元へと向かってしまう。せっかくキスミレが背中を押してくれたのだから、今くらい前を向けよという話だろう。しかし、こればっかりは仕方のないことなのだ。どうしようもなく情けない気持ちが押し寄せつつも、光磨はやっとの思いで「でも」と言葉を続ける。


「もう……母さんはいないから。俺がどれだけその世界のことを知りたいって思っても、一番訊きたい人から訊くことはできない。だから」


 ほとんど掠れた声になりながら、光磨は叫ぶ。


「俺は、今まで逃げてきたんだよ……っ」


 でも、これが光磨の本音だ。

 馬鹿で馬鹿で仕方がなくて、光磨はなかなか顔を上げることができない。


「母さんがどんな人だったのか、どんなアニソンを歌っていたのかなんて知らなかった。ずっと知らずに生きてきたこと……後悔してるよ。今更知ることなんてできないって思い込んでたし、それに……。もう会えない母親の背中を追ってどうするんだって思ってたから」


 今の今まで、胸の奥に眠っていた言葉が溢れて止まらない。

 秋鷹とは今までずっと、二人三脚で歩んで来られたと思っていた。親子揃って感情をあまり表に出さないタイプだが、光磨が動物好きであることは理解してくれている。だから高校の入学祝いにマンチカンのまろまるをプレゼントしてくれたし、光磨自身まろまるのおかげで心が癒されることもある。だから、秋鷹との親子関係は普通に上手くいっていると思っていた。

 ――なのに、自分の心の中にはこんなにも大きな本音が隠れていた……なんて。

 やっぱり、自分はとんでもない大馬鹿者なのだと光磨は自虐する。


「ひ、枇々木くん……!」


 すると、菜帆に小声で呼びかけられてしまった。ぐるぐると回り続ける感情から逃げ出せなくて、ずっと俯いてしまっていたのだ。はっとして、光磨は顔を上げる。


「……え……?」


 秋鷹がいったいどんな表情をしているか、光磨はまったく想像できていなかった。つまるところ、まったく心の準備ができていなかったのだろう。


「……すまなかった」


 しっかりと目が合う前に、秋鷹は頭を下げる。


「俺は、光磨には自由に生きて欲しいと思っていた。どれだけ奥野原浩美が誇らしい人だと思っても、過ごした記憶があまりないお前にそれを押し付けたくはないと思っていたんだよ。俺は……ずっと、間違っていたんだな」


 その声色は、今まで聞いたことのない絞り出したような声だった。俯く秋鷹の眼鏡のレンズには、ぽたぽたと雫が落ちている。

 光磨は、生まれて初めて父親の涙を見た。苦しい程に胸が締め付けられて、心では「そんな顔しないでくれ」と叫ぶ。


「違う。違うんだよ親父。親父は何も悪くない。俺がずっと意地を張って逃げてきたのが悪いんだ! だからもう、逃げたくない。俺は、進みたいと思った道を進むって決めたんだ!」


 ――頼む、伝わってくれ……!

 光磨は必死に秋鷹を見た。親譲りの刺々しい瞳でも、今ばかりは希望に満ちた輝きを放っていると信じたい。迷って迷って迷いまくって、色んな人や曲に助けられて辿り着いた今を、秋鷹には知って欲しい。

 だから光磨は笑った。どれだけ視界が滲んでも、溢れる感情は喜びでしかない。それを父親である秋鷹に伝えられるのが何より嬉しいのだ。


「親父。俺は今日、やりたいことを見つけたんだ」


 言いながら、光磨は菜帆と目を合わせる。「待たせて悪いな」と呟くと、菜帆は静かに首を横に振る。もらい泣きをしてしまったのか、菜帆の瞳は若干赤らんでいるように見えた。


「ええと、この人はクラスメイトの……」

「枇々木くん。自分から挨拶するよ」

「……そうか。悪いな」


 菜帆のことを秋鷹に紹介しようとすると、菜帆は優しく微笑んでポケットティッシュを差し出してきた。苦笑しつつも、光磨は受け取る。


(まぁ、振りだけでもしておくか)


 光磨の心の中には、当然のように「泣いてなんかない」という気持ちがあった。でも、菜帆には泣いていると思われてしまったのだろう。仕方なく目元を拭く仕草をすると、何故かじわりとティッシュが湿った。さっきから視界も悪かったし、心のどこかではわかっていたはずなのに、光磨はようやく自分が泣いていたのだと理解する。

 悲しくもないのに涙を流すなんて、初めての経験だった。――なんて意識すると、ますます感情が溢れ出しそうだ。光磨は上を向き、なんとか誤魔化す。


「枇々木くんのお父さん、初めまして。私、枇々木くんのクラスメイトの穂村菜帆と言います」

「……見苦しいところを見せてしまったな。今日は息子とライブに行ってくれたみたいで、ありがとう」


 濡れた眼鏡を外してから、秋鷹は軽くお辞儀をする。


「いえいえ、そんな……」


 ペコペコと頭を下げてから、菜帆はすぐさま光磨を見た。「枇々木くんのお父さんにご挨拶する」と意気込んではいたが、流石に緊張が勝っているのだろう。瞬き多めで見つめてきて、助けを求めているように見えた。


「穂村さんはアニソン歌手を目指してるんだよ。それで……俺は、穂村さんの歌声が好きだと思った。でもそれは応援したいって気持ちじゃなかったんだよ。俺も穂村さんと一緒にアニソンを作っていきたいって……気付いたんだ」


 震える声で、光磨は言い放つ。

 こんなこと、面と向かって親に伝えるのは恥ずかしい。だから震えてしまうのだと、光磨は心の中で言い訳をした。


「そうか。…………そう、なんだな」

「親父……?」


 秋鷹はわざわざ靴を履き、一歩、また一歩、光磨に近付いた。そういえば、さっきからずっと玄関で話をしてしまっている。せっかく菜帆も来てくれたのだから、居間にでも案内すれば良かった。なんて今更ながら思ったが、もう遅い。前へ前へと進む感情が勝ってしまってそれどころではなかったのだ。


「俺は誰よりも近くで浩美を見てきた。枇々木浩美としても、奥野原浩美としても、だ」


 言いながら、秋鷹は手を伸ばしてくる。相槌代わりに手を掴むと、予想以上に力強く握り返してきた。親とのスキンシップなんて恥ずかしいはずなのに、何故か目頭が熱くなってくる。


「浩美の愛したアニソンの世界が、俺も大好きなんだ。……だから、何でも訊いてくれ。浩美のことでも、アニソンのことでも、全部教えてやる。……ようやく。本当に、ようやくなんだよ。お前に、浩美のことを教えてやれる。こんなにも嬉しいことはないな」


 本当に、今までの親子関係はなんだったのだろう、と思った。


 すべてのことを否定したい訳ではない。これまでだって、ちゃんとした親子の形だった。でも、それにしたって、初めての顔が多すぎるのだ。

 こんなにもハキハキと喋って嬉しそうに顔を緩ませる父親を見て、嬉しくない訳がない。菜帆が見ていると思うと羞恥心を感じてしまうが、だからと言って感情を隠したくなかった。


「な、何つーか、その……。ありがとうな、親父」

「…………俺は何もしていない。むしろ、何もできなかった人間だ」

「でも、俺がアニソンから逃げてる間も、ずっと好きだったんだろ?」


 訊ねると、秋鷹は無言で頷く。

 そして何故か――ニヤリと得意げな笑みを零した。


「光磨。本当にお礼を言うべきなのは……キスミレの光なんじゃないか?」


 ――息が止まるかと思った。


 もうキスミレはいないのに後ろを向き、ポカンと口を開ける菜帆と目を合わせる。はっとして前を見て、光磨はようやく「え……?」と聞き返すことができた。


「え……っと、お、親父。確かに俺はキスミレの光を聴いたのがきっかけでアニソンと向き合うことができた。……その話、まだ親父にはしてないと思うんだけど」

「…………光磨、諦めろ。そういう話じゃない」


 苦笑する秋鷹を見て、光磨の中に渦巻いていた疑惑は確信へと変わる。思わず、再び菜帆と顔を見合わせてしまった。


「親父にも、ずっと見えてたのか?」

「ああ。俺も電波ちゃんと呼んだ方が良かったか?」

「ぐっ……頼むそれはやめてくれ!」


 秋鷹はキスミレのことを何も知らないのだと、光磨はずっと思っていた。見えている素振りなんてまったくなかったから信じられないが、秋鷹の口から「電波ちゃん」というワードが飛び出すと否が応でも信じるしかない。

 速まる鼓動の中で、光磨は密かに思う。

 キスミレがふらりと消えていた時。もしかしたら、秋鷹の元に現れていたのかも知れない、と。



 秋鷹は、これまでのことを話してくれた。

 それは光磨が初めてキスミレと会った日のこと。秋鷹の職場にも、突然キスミレが現れたのだという。私、アニメソングになりたいの。私、キスミレの光だったの。私、光磨の背中を押したいの。時間が経つにつれ、キスミレの言うことは変わっていく。最初はまったくもって意味がわからなくて無視を続けていた。でも、不器用ながらにキスミレと接していくうちに秋鷹は気付いたのだ。

 キスミレは容姿も口調も浩美とは大違いだが、心根だけは同じなのだと。時折見せる真面目な顔は、浩美の姿を思い出させた。信じられないはずなのに、心は激しく揺さぶられる。つまりは秋鷹も秋鷹で、ずっと困っていたらしい。


「でも、俺はようやく信じられたんだよ。実際に背中を押すところを見られたからな」

「そう……だったのか」


 見えていた。

 秋鷹はずっと、キスミレの姿が見えていた。

 ふわりと、心の奥底に引っかかっていた何かが消えていく。同時に、やっぱり自分はなんて馬鹿な人間なのだろうと笑った。家族に対しても不安を抱き続けていて、言ってしまえば信じられていなくて、光磨は俯く。


「光磨」

「あ……ああ、そうだよな。もう遅いし、そろそろ穂村さんを……」


 名前を呼ばれ、光磨は情けない自分を誤魔化すように慌て出す。すると突然、秋鷹は光磨の頭に手を置いた。


「結局、俺はあいつに助けられてばかりだな」


 呟きながら、光磨の頭の上の手をぐわんぐわんに動かす。撫で慣れてないにも程があるだろうと思ってしまうくらい、大雑把な手つきだった。思わず笑ってしまうし、嬉しいし、でも恥ずかしいし、光磨の心は激しく揺れる。


「俺はお前の進む道を応援する。訊きたいことがあったら訊け。時には一緒に悩んでやる」


 しっかりと、はっきりと、言葉と視線をぶつけてくる。

 光磨が無意識のうちに頷くと、秋鷹は視線を逸らした。独り言のように小さな声で、「それが俺の進みたい道だ」と付け足す。照れ隠しがしたいのか、秋鷹はすぐに咳払いをした。


「……穂村さん、だったか。本当に恥ずかしいところを見せてしまったな」

「い、いえ! そんなこと……」


 菜帆は突然話を振られて驚いたのか、背筋を伸ばす。しかし、ふと光磨と目が合うと微笑みを浮かべた。ぶっちゃけ、今の光磨は様々な感情が押し寄せてしまっている。きっと情けない顔をしていたのだろう。


「私は、これから枇々木くんと一緒に同じ道を歩むことになるんです。だからこれは、私も知るべきことだったんだと思います!」


 さも当然のことのように、菜帆は明るく言い放つ。キスミレがいなくても、菜帆の笑顔は眩しいくらいの光を纏っていた。

 そうだ。そうなのだ。感動して立ち止まっている場合ではない。光磨は今、自分の人生の中で大きな一歩を踏み出した。でも、まだ踏み出せただけなのだ。自分にとってどれだけ大変な出来事でも、これはプロローグに過ぎない。


「親父、穂村さん。ありがとう」


 自分はまだ、技術どころか知識すら足りない。きっと菜帆にはたくさん迷惑をかけてしまうだろうし、秋鷹のことも頼りまくってしまうと思う。


「それと……。これから、よろしくお願いします」


 だからこそ、光磨は二人に深くお辞儀をした。今日以外に改まった言葉を口にできる日はないと思う。それに、プロローグが終われば今までとは大違いの目まぐるしい日々が始まるのだ。


「うん! よろしくね、枇々木くんっ」

「……俺達は家族だ。もう遠慮はするなよ」


 二人の返事の仕方は違っても、流れる温かい空気は同じだった。

 やっと見つけた自分の道は、決して一人のものではない。

 そう思うだけで嬉しくて、光磨もやはり微笑んでしまうのであった。

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