3-4 自分自身が歌うこと

 ――電波ちゃんがいてくれて良かった。


 カラオケの個室に入った途端に思った感想は、まさかの電波ちゃんに対する感謝だった。この前のファミレスと今回のカラオケには根本的な違いがある。それは、個室で二人きりになってしまうということだ。決して嫌という訳ではないのだが、やはりファミレスとは恥ずかしさが桁違いな気がしてたまらない。


「わぁ。いつもは一人だから、枇々木くんと電波ちゃんがいるのが何か不思議だよ。……枇々木くんは?」

「俺、カラオケは全然なんだよ。多分、幼い頃に家族と来たくらいだと思う」

「そうなんだ。……あはは、自分から誘っておいて何だけど、緊張するね」


 言って、菜帆はドリンクのお茶(カラオケの時はいつも頼んでいるという玄米茶)を一口飲む。やがて小さく「よしっ」と呟き、光磨と電波ちゃんを見た。


「でも、将来はもっと色んな人に歌声を披露するんだから、これくらいで緊張してちゃ駄目だよね。……枇々木くん、早速歌うけど……大丈夫?」


 一瞬だけ、菜帆は表情をキリッとさせる。でも、すぐに光磨を気にかけるような優しい表情へと変わった。

 菜帆はアニソンが大好きで、夢はアニソン歌手だ。今から歌うのはもちろんアニソンだらけだと思うし、光磨だってその覚悟の上でここに来た。

 菜帆が夢に進もうとしているように、自分だって変わるきっかけを掴みたい。それに、単純に興味があるのだ。菜帆の歌声がどんなものなのか。今までだって色んな菜帆の姿を見てきたけれど、歌う姿も見てみたい。そんな、純粋な興味だった。


「興味が、あるんだ。穂村さんの歌声に」


 恐る恐る、光磨は本音を口にする。

 すると何故か、菜帆の口角がニヤリとつり上がった。


「そっか。……じゃあ枇々木くん。私のこと、ちゃんと見ててね」


 透き通った琥珀色の瞳が、光磨の心に優しく入り込んでくる。相変わらず、菜帆は積極的な人だと思った。でもそれだけではないのだ。小さく微笑む姿も、落ち着いた声のトーンも、慣れた手つきで曲を入れる姿も――どれもこれも、光磨にとっては自信に満ち溢れているように見える。電波ちゃんに遭遇してから今まで、何度か菜帆と二人で過ごしてきて様々な姿を見てきた気でいた。でも過ごした時間はまだ一ヶ月も満たないくらいで、まだまだ菜帆については知らないことだらけだったのだと。今、ようやく思い知った。


 流れるメロディーは意外にも抵抗なく耳に入ってくる。母親の曲はあんなにも聴くのが怖いと思ってしまったのに、耳を塞ぐという行為も何もせず、ただじっと菜帆を見つめてしまった。


「…………っ」


 今、自分は息を呑んで菜帆の姿を見ているのだろう。自分の様子が理解できてしまう程、光磨は呆気に取られている。


 今、この瞬間だけ。

 穂村菜帆という一人の少女は、ただの女子高生ではなくなっていた。


 一音一音に感情がこもったような力強い歌声だったり、優しく響き渡るロングトーンだったり、ポニーテールまで弾むような明るい声色だったり――。

 曲ごとに表情を変える歌声に、光磨はただただ夢中になっていた。大袈裟でも何でもなく、菜帆の歌声には魅力が詰まっていると感じるのだ。音楽にそこまで詳しくない光磨では何も説得力がないかも知れない。でも、このまま一人で練習しているのはもったいないと光磨は感じた。


 ――それに。


 菜帆が歌っている曲自体も、光磨は嫌いではないのだ。

 一度聴いただけで耳に残るメロディーとか、ストレートだったり耳に心地良かったりする歌詞も印象的で、聴けば聴く程に引き込まれそうになる。

 何であんなにも怯えてしまうのかがわからない程、光磨の心は踊っているのだ。一秒でも菜帆から目を逸らしたくない、なんて。何恥ずかしいこと言ってんだと思いつつも、やはり逸らすことはできない光磨がそこにはいた。


「楽しそうだね、コーマ」

「んなっ、何言ってんだよ……っ」


 歌う菜帆の姿に集中しすぎたせいだろうか。意味深な笑みを浮かべる電波ちゃんに気付くのが遅れてしまい、光磨は大袈裟に身体を仰け反らせてしまう。同時に、胸の鼓動が加速するのがわかった。もちろん唐突に電波ちゃんに話しかけられたから……というのが大きいが、それだけではない。

 電波ちゃんの言葉が図星だったのだ。

 今までに抱いたことのない感情が身体中を駆け巡って、マイクを握る菜帆の姿をいつまでも見ていたいと思ってしまう。これを楽しいと言わずに何と言うのだろうか。心の底からひしひしと湧き上がってくるのは、温かな感情ばかりだった。きっと、恐怖心など一ミリも感じなかったのだろう。

 しばらく放心していると、菜帆は歌うのをやめてこちらを見つめてきた。透き通った琥珀色の瞳は眩しくて、でもやっぱり逸らしたくはない。そんな、不思議な気持ちに包まれる。


「大丈夫そうだね、枇々木くん!」


 見つめ返す光磨の表情を見て安心したのか、菜帆は優しい笑みを浮かべる。


「あ、ああ……そうみたい、だな」


 反射的に、光磨は苦笑を返してしまった。意外と平気だった――どころか、興味津々で菜帆を見つめてしまった、なんて。しかも今もまだ興奮で胸が高鳴っている、なんて。

 正直、恥ずかしいったらありゃしないのだ。


「でも凄いんだな、穂村さんは。正直、想像以上の実力だった。家族や友達は知らないのか?」


 恥ずかしさを誤魔化すように、光磨は若干早口になりつつ訊ねる。すると菜帆は、一瞬だけ目を伏せてから、ちらりと光磨を見た。


「一応アニソン歌手になりたいって言ってはいるよ。でもちゃんと披露したのは枇々木くんが初めてなんだ。だから今、嬉しいんだよ。褒めてもらいたくて、枇々木くんに披露したから。今までこつこつ頑張ってきて良かったなぁって」


 言いながら、えへへと照れ笑いを浮かべる菜帆。


 ――本当に俺は、穂村さんのことを何も知らなかったんだな。


 と、菜帆の姿を見れば見る程に思ってしまう。元々の菜帆の印象だったら、「そんなことないよ」とまずは謙遜すると思っていたのに。というより、褒められたらとりあえず謙遜してしまう、というのが人間の当たり前の行動だと光磨は思っているくらいなのに。

 菜帆は、褒めてもらいたいから歌ったのだという。その上で嬉しいと素直に照れている菜帆のことを、光磨は心の底から格好良いと思った。


「穂村さんはオーディションとかは受けないのか?」

「まだだけど、もちろん良さそうなのがあれば挑戦してみるつもりだよ。今、枇々木くんに聴いてもらってますます自信ついたから、今すぐにでも出たいくらいだよ」


 なんちゃって、と言いながら菜帆はまた楽しげに笑う。光磨もつられて顔を緩ませると、違和感に気付いて首を傾げた。


「……あいつ、ついさっきまでいたのに」

「あれ、本当だ。電波ちゃん、いない……ね」


 電波ちゃんが唐突にいなくなるのには正直もう慣れた。しかし「アニソンの匂いがする!」とノリノリだったわりには退場が早いな、とは思う。もしや、光磨と菜帆がデートみたいな感じになるのを邪魔したかっただけなのだろうか、とも思ってしまった。


「じゃあ、枇々木くん。はい」

「……え?」

「電波ちゃんがいないならまだ歌いやすいかなって」


 何でもないように言いながら、菜帆はマイクを手渡してくる。

 反射的に受け取ってしまったマイクを見つめながら、光磨は徐々に冷や汗が流れてくるのを感じた。確かに光磨はカラオケに来たが、今日は菜帆の歌を聴く専門だと思っていたのだ。しかし、菜帆はニコニコと期待するような眼差しを向けてくる。


「もちろんアニソンじゃなくて大丈夫だよ。枇々木くん、歌えそうな曲とかある?」

「あ、ああ……一応音楽は聴くから、ない訳でもないが……」

「だよね。枇々木くん、音楽プレイヤー持ってたし歌自体は好きなんだろうなって思ってたよ」


 ぐいぐい迫ってくる菜帆の視線に、光磨はついに耐え切れなくなり「はぁ」と大きめのため息を零した。勘弁してくれという意味ではなく、最早諦めに近いため息だ。視線を逸らすついでにリモコンを操作すると、菜帆の表情はますます晴れやかになった。


(は、早く終わってくれ……!)


 と祈りながら歌った曲は、一般的に知名度の高いロックアーティストの曲だった。勢いで歌い切れると思って選曲したのだが、それが間違いだったようだ。緊張で震える声は全然リズムに乗れていないし、声量も徐々に小さくなっていってしまう。――というのは、もしかしたら先程の菜帆と比べてしまうから自分を卑下してしまうだけかも知れない。


「わぁ、枇々木くんも上手なんだね!」


 と、菜帆には嘘偽りがなさそうな笑顔で感想を述べられる。


「そう、か……?」


 しかし、光磨としては何とも言えない微妙な気持ちになってしまった。自分の歌が上手いか下手かなんて、自分自身ではまだよくわからない。菜帆の言葉がお世辞じゃないとしたら、意外と上手いと言っても良いのかも知れない――が。

 ぶっちゃけ、自分の歌唱力などどうでも良いのだ。歌う前も歌い終わってからも、一番に感じたのはどうしようもない緊張だった。菜帆と二人きりだからとかそんなことは関係なく、人前で歌うこと自体に苦手意識を覚えてしまう。

 光磨は、歌うことに向いていない。


 それはつまり――光磨自身がアニソン歌手を目指したいという訳でない、ということで……。


「っ! 枇々木くん、大丈夫? ごめん、私が無理して歌わせたりしたから……っ」


 突然、菜帆が血相を変えて光磨の顔を覗き込んできた。急に距離を詰めてくる菜帆に驚き、光磨は「ぅえっ?」というアホみたいな声を漏らしてしまう。

 自分は今、何を考えていたのだろう。

 電波ちゃんがアニメソングになりたいと言っているだけで、別に光磨がアニソン歌手にならなくてはいけない訳ではない。それはそれ、これはこれ、だ。これからアニメソングに向き合っていくことはできるかも知れないが、光磨が母親の背中を追ってアニソン歌手を目指す――ということは決してない。

 そう言い切れてしまうことが、何故か光磨の心を深くざわつかせた。


「わ、悪い。つい穂村さんの歌声と比べて恥ずかしくなっちまったというか……はは」


 半分本心を伝えつつ、光磨は誤魔化すように頭を掻いてみせる。そのままマイクを手渡してバトンタッチをしようとしたが、菜帆に小さく首を振られてしまう。


「今日はもう帰ろっか。枇々木くんも疲れちゃったでしょ?」

「いや……まぁ、確かに自分が歌うとなるとそうだが、俺はもっと穂村さんの……」


 遠慮がちな笑みを浮かべる菜帆に、光磨は慌てて「俺のことは気にするな」というニュアンスの言葉を伝えようとした。のだが、「もっと穂村さんの歌声を聴いていたいんだ」などという小っ恥ずかしいセリフが零れ落ちそうになり、光磨は焦って口を噤む。


「あ、ああ……ありが、とう」

「えっ」


 と思ったら、何故か菜帆の頬は照れたように朱色に染まった。聞き取れないような程に小さな声でお礼を言われてしまい、光磨の心はますます焦り出す。


(口に出してた……のか? いやそんなまさか)


 しかし、菜帆にしては珍しく顔を背けていて、瞬き多めで地べたを見つめている。積極的な姿ばかり見ていたはずなのに、今の菜帆の照れ具合は異常だった。


「俺……今、何か言ったか?」

「そっ……そんなことより枇々木くん!」


 物凄くわかりやすく光磨の質問をスルーし、急な話題転換をする菜帆。「言っていた」と肯定するような菜帆の反応に、光磨の思考は一瞬だけ停止する。


「ゆっくり帰りながら、話せないかなって。今は歌うより、お話ししたい気分なんだよ」


 駄目かな? と言いたいように小首を傾げる菜帆の姿を見て、光磨はようやくはっとした。さっきから一人で思い悩んで、菜帆に心配をかけさせてしまっている。だから菜帆は帰ろうと言ってくれたのだと改めて理解し、申し訳ない気持ちに包まれた。


「ああ、そうだな。そうするか」


 ――同時に。

 頷きながらも、光磨はある決意を固めるのであった。

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