最終話 君は今でも美しい





時々ユリは不安定になり、泣いてばかりになる。それは前から体験していたことだったけど、その日、僕はユリの底を見た。


僕はユリをいつもいつも美味い料理を出す高いお店ばかりには連れて行けない。だからいつもの食事はファミレスで済ませていたけど、ユリは変わらず「美味しい」と言って喜んでいた。そう。彼女は外に居る時は普通なのだ。でも、僕の家に来てしばらく経つと、彼女は泣き出したり怒り出したりしてしまい、時には手が付けられないほど落ち込むことがあった。




何度も見た、ユリのとろりとした虚ろな目、それから子供のように泣き喘ぐ声…。僕はそれに長くは堪えていられず、彼女を早くに寝かせてしまおうとしたこともあった。でもユリは「せめて話を聞いてよ。聞くくらい出来るでしょう?」と泣きながら訴えて来る。どうにも仕方がなくて、僕は何度もそんな事が続き、くたびれてしまっていた。僕だって傷ついていた。


「どうせ私のことなんかなんとも思ってないくせに、同情してくれなくていいよ」


ユリはそう言って、結局いつも僕の愛を信じてはくれなかった。


「そんなはずないだろ!ちゃんと好きだよ!」


僕がそう意気込んで胸を叩いても、彼女は横を向いて立ち上がろうとする。


「何?“ちゃんと”って!私、そんなのわかんない!帰る!」


「待ってよ、今から帰るバスなんかないよ!」


「じゃあ歩いて帰る!」


「落ち着きなさいユリ!明日の朝になったら駅まで送る。その時に帰るんだ。だから、もう寝よう…」


たとえば僕がそんな風に言って、内心では本当に困り果てている時、ユリはそれ以上無理無茶を言ったりはしなかった。彼女はギリギリのスレスレだけを守るために、「その直前までは悲しみを発散させている」。そんな気がした。だから僕もそれにある意味では甘えて、彼女のわがままを聞こうとは思わなかった。その前にも、たくさんわがままは言われていたし。でも僕にはちゃんと分かっていた。「すべてを受け入れる」ことをしない限りは、ユリにとってこの関係は「ゼロ」と同じなのだと。


僕はどんなに言っても、何をしても、いつ何時でも彼女を一番に選んだとしても、「愛されている」と信じてもらえなかった。どうしてなのかは分かっていたから、僕はそれをして彼女を責める事が出来なかった。おそらく、ユリには愛情の受容体のようなものが、無い。子供の頃にもらっていて当然のものがまるで無かった彼女には、愛を理解する事が出来ないのだ。それはどんなに寂しいことだろう。そう思うと僕の心は凍りつき、それから“僕の愛も彼女にとって無意味なのだろうか”と、悲しくなった。




その日、いつものようにファミレスから僕の家に上がり込んだユリは、酷く疲れている様子だった。季節はもう夏だ。世界中に響き渡っているように、窓を閉めても部屋の中に届く蝉の声。ゆるくゆるく首を絞めるような湿り気と、空気の暑さ。それらがじんわりと僕たちの体力を奪っていく。僕の部屋のエアコンは、寿命を終えたのにまだ生き続けさせられている生き物のように、苦しそうに唸りながら、そのくせ何も出来ていなかった。


「ファミレス、長かったから疲れた?」


僕は優しくユリに声を掛ける。ユリは布団に包まり、枕に押しつけた頬をずりずり動かして、やっと僕を見た。その顔は、力なく笑っている。寂しそうに。僕はその時、久しぶりにユリを愛しく思った。


「うん…ちょっと…」


そう言いながらユリは、何も映さなくなってしまった目を元に戻す。ずりずりと、また頬と髪が枕をこすった。横向きに寝転んで前を向いているユリは、おそらく僕の手の届かない所に居る。僕はそんな彼女にうっすらと、「ついていけない」と思っている。


“でも、もし今のユリが思っている願いを聞いてあげられたら、僕は彼女に許してもらえるかもしれない。”僕はふと、そう思って、ユリをもう一度見る。ユリはもう僕を見てはくれなかった。


「ねえ、ユリ…」


返事が返ってくるか不安だった。でも僕は次の言葉を言ってみて、それから考えようと思っていた。ユリはやっぱりじっと黙っていて、それはまるで僕の声が聴こえていないかのようだ。宙に浮くユリの瞳は、泣いていた。


「僕に、何か出来ることはないのかな、君に」


僕がそう言った時も、ユリは身じろぎもしなかった。ぐったりと力を抜いている彼女の体は、まるで今にも、沼に落ちるように布団の中までずぶずぶと沈み込んでいきそうに見えた。もし今のユリにじっと見つめられたら、僕もそこに取り込まれてしまうだろうと思った。それは怖かった。でも、僕だって元から沼の中を落ちて落ちて行く途中を生きていたんだから、きっとどうなっても今と大して変わらないだろう。それなのに、怖い。


僕は、ユリの闇が自分のものよりももっと深く大きく、そして広い事を、肌で感じ取っていた。彼女の作り笑いは僕の前でも変わらない事、そしてどんなに距離が縮み、一つになろうとしてさえ、僕の気持ちが伝わっていない事、彼女が僕といても安心してくれない事…。そして、それらを変えてあげられなかった僕に、彼女が復讐として冷たく当たる事…。これらをすべて司っているのは、「決して開かれない心」だ。


“ユリはおそらく、まだ誰にも心を開いた事が無い。だからこそ、僕と居ても苦しがるし、悲しく感じるんだろう。だから僕に出来る事などあるはずがない。でも、たった一つだけならある。それは、彼女の闇の中に落ちて行く事だ。それが彼女のためになるはずはないし、僕にも何も良い事は起きない。でも、もし彼女の孤独を癒す方法があるなら、自分から望んで彼女の闇に取り込まれ、その中で息絶えればいい。彼女が感じている苦痛を僕も被れば、多分、ユリは安心してくれる。“自分一人で苦しんでいるわけではない”と思ってほっとしてくれる。”僕はそこまで考えて、ぞっとした。“でも、彼女はそれだけは求めないだろう。心を交わすことはしてくれないんだから…。”僕は悲しいようなほっとしたような気持ちだった。たった一つの道を、彼女は選ばない。僕はそれを望むわけではないけど、“君の力になりたい”という気持ちだけは伝えたかったんだ。


その時、ユリがぽそりと囁いた。


「何も誓わないで」


その小さな声は、僕にまた困惑をもたらした。僕は、「何か出来ることはないか」と聞いたのに、彼女はそれに対する返事とは思えない言葉を返してきた。そして僕には、なんとなく感じた雰囲気だけが残った。“私に関わらないで”。多分そういう意味だろうと思う。「なぜ?もういい加減、僕にちょっと心を開いてくれるくらいいいじゃないか!」僕はそう叫びたかった。でも、それをしても何も変わらず、ユリを傷つけるだけだという事は分かっていたから、何も言わなかったけど、もう限界かもしれなかった。







翌朝、僕たちは短い話をした。まだ七時だというのに朝の光はうるさいくらいに部屋中に反射して、外はとっくに暑くなっていた。僕の部屋もだんだんと蒸されていく中、僕はようやく辿り着いた結論を口にしようと思った。


「ユリ」


彼女は窓にもたれて、外を見ていた。そうしながらユリが何を考えているのかは、いまだに分からないままだ。僕は迷った。いや、言いたくなかった。でもそれと同時に、“もう我慢がならない!このままでは死んでしまう!”と、心の中で僕はもがいていた。昨晩の、“ユリの沼”に足を取られたままで。そうやって心には嵐が吹いているというのに、その朝は美しかった。ユリは気だるそうに窓枠に二の腕を任せて頬杖をつき、窓の外を向いている。彼女の頬を風が撫でると、柔らかい髪がふわっと巻き上がった。濡れている大きな目は万華鏡のように幾度も光を変えて、みずみずしい肌は出会った頃と同じように薄桃色に透き通っている。そんなユリを見ていると、とても不思議な気分になった。彼女はいつ死んでもおかしくないほど追い詰められているというのに、今が盛りとばかりに美しいままだ。それで僕は、彼女が燃やしている命の炎があまりに強く、その分だけ彼女の残りの日々が使い捨てられていくような、そんな不安を感じた。


「なあに」


ユリの声は間延びした、ゆったりとしたものだった。僕はじりじりと恐怖が押し寄せるのを感じた。“僕の次の一言ですべてが終わる。それで僕たちは別れ別れだ。でももう仕方ない。僕に出来る事は無い。恋の終わりに一度身を切られたら、解放されるんだ。”そう思った時、僕は安堵した気がする。“この世界に僕たちしか存在しない日も、これで最後だ。”カサカサの自分の唇を一度舌で湿してから、僕は話し始めた。


「僕たち…このままだと、多分、「一緒に死のうか」って言い出すと思う」


ユリは振り向いた。彼女の瞳には驚きと、そして肯定の意志があった。


「そう…だね」


「だから…別れよっか」


こんなに気軽に話せることでは無かった。命を懸けて愛したはずなのに、まるで子供の遊びのように、僕たちの恋は終わった。ユリは悲しそうな顔をしていたけど、大人しく「うん」とだけ一度頷き、僕の部屋から一人で帰った。僕はがらんどうの目をしたままのユリを見送り、玄関の扉を閉めた。






その後僕たちがどうなったかなんて、話しても仕方がない。ユリから何度か連絡があったし、“もう一度一緒になりたい”なんてことも言われたけど、僕はもう戻る気は無かった。もう傷つきたくも苦しみたくもないし、あんな無力感を感じるのも嫌だ。だから僕は電話に出なくなり、僕の留守にユリがポストに入れたらしい手紙も、みんな捨てた。



君は今でも美しいだろう。でも、君が僕に何をしたか、どれだけ僕を拒否したか、それなのに甘えたか、それを僕は覚えていたから、君と別れてしばらくの間は、歪んだ胸の底を痛めずには君を思い出す事が出来なかった。酷く落ち込んだ晩もあった。“もう少し堪えていたら彼女と幸せになれたかもしれないのに”と、自分を責めながら酒を飲んだ事もあった。でも、あれ以上僕に出来ることは無かったんだ。僕だって、今でも孤独から解放されずに、使い古した体をギシギシいわせて街を歩くのだから。“悪かった”とは思っている。でもそれもお互い様だとも思う。僕たちを大人同士として考えるならそうだ。それに、あのまま一緒に居れば、どうせ二人とも死んだだろう。僕たちは二人とも孤独で、その孤独を恋で埋めようとした。でも、ユリと僕は欲しがる気持ち以外は何も持たずに、それを愛だと思い込んでいたから、わがままにお互いを傷つけるだけになってしまったんだ。そんな関係を放っておけば、傷つけ合うのに離れる事の出来ない苦しみから、「もはや常世の幸福に縋るしか無い」という結論を出していただろう。





ある晴れた冬の昼、僕はユリの事をふと、鮮明に思い出した。その時僕は、“昔は「体に神様が住んでいるんじゃないか」ってくらいに元気だったよなあ”と考えていて、そのイメージから、なぜかユリの姿が思い出された。それは笑い転げて元気に喋っている時のユリで、子供のようになんでも素直に話した、恋の初め頃だった。少し寂しくは思ったけど、僕はそれほど傷つかずに、それを思い浮かべる事が出来るようになっていた。“あれから何年経ったかな”と考えても、僕はもう月日を勘定する事さえ出来ず、十年前だったか十五年前だったかも分からなかった。


“ユリ、僕は君ほど好きだった子は居ないんだ。これは本当だよ。本当だったんだ。僕はもう君との愛に苦しめられてはいないけど、失ったわけじゃない。たまにはこうして思い出を手に取って、素晴らしかった時を眺めているんだよ。一生分の恋をね。”


時が過ぎていく中、僕の目の上を、思い出の彼女があははと笑って、悪戯に通り過ぎていった。






おわり

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さよならを言うために 桐生甘太郎 @lesucre

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