7話 迷路の中へ





ユリの様子はだんだん変わっていき、彼女はとうとうある日僕に打ち明けてくれた。その晩は二人で食事をしてから、僕の家にユリを上げた。


ファミレスでのユリは、別段変わった風もなく、ただ楽しそうに始終喋っていた。僕もそうだ。普段は「黙っていて何を考えているかわからない」と言われる僕だけど、それは“考えていることを悟られたくない”と思ってあまり喋らないからで、当然の結果だ。でも、ユリの前では自分そのままで居られた。それは僕にとってとても心強く、魂がのびのびと息をしているのを感じた。ユリと話すのはとても楽しかった。僕たちはファミレスだというのに、スレスレの政治議論までやっていた。


「だからさ、ヒトラーは確かにこの上ない悪人だったけど、ドイツの国力を取り戻したのは彼がやったヴェルサイユ条約での負債返済の撤廃だったのさ。それで、国民はみんな我を忘れた。でもその後の政治はもう酷いなんてものじゃない。極悪非道と言っていいものだよ」


「確かにね。もちろん国民の求めることをすれば為政者が支持されるのは仕方ないと思う。でも、新たに出されたものについて、国民だってもっと吟味する必要があったと思うよ」


「そうだね、それは言える。人心っていうのがいかに“いい塩梅に行けばいい”ってだけの、無責任なものかがわかるよ」


「でも、やっぱり言い出しっぺが一番悪いとは思うけど…」


僕たちはそんな、今更話しても仕方ないような、しかも口にするのも憚られるほど痛ましかった出来事についても語った。僕はこれをさせてもらえるのがとても楽だった。今までこんな話を友達に持ち出したら、「お前はなんて奴だ」と責められたし、僕がそれらを話す動機として、“純粋に過去の歴史の理解を深め合いたくてやっているつもりなのだ”と言っても、誰も信じてくれなかった。僕は、喋りたいことをいくらでも喋らせてくれるユリに感謝していた。でも、そこでユリがふっと真剣な目つきになり、ちょっとため息を吐いた。


「でもさ、こうやって話していても、これはただの羅列に過ぎないと思う」


「羅列?」


僕は初め、ユリの言った事の意味がよく分からなかった。


「だってさ、私たちは過去にあったことを喋っているだけで、何も「その時こうすれば防げたかもしれない、誰それがこう言えば止められたかもしれない、これから先に同じことを起こさないためにはどうすれば…」なんてことは話さないじゃん?」


僕はそこで、はたと気づいた。“確かにその通りだ。だからこれは議論ではない。”そして、“一体ユリはどんな女の子なのだろう?こんな風に気づくとは…。”と、彼女がどこか末恐ろしい存在のようにも感じた。


「そうだね、確かに羅列だ。でもね、議論っていうのはそうそう簡単にできることじゃない。やっぱり、難しいよね」


「うん。私もできない…」


そう言ってうつむいてしまったユリに、僕は「まあそんなに構えないで。僕たちは学者じゃないんだから」と言った。ユリは「そうだったね」と笑った。それから僕達はドリンクバーにも飽きてしまい、すぐ近くの僕の家に向かった。





いつも通り僕の部屋に着くと、その日のユリはちょっと決まり悪そうにしながら、「ちょっと疲れたから休ませて」と言ったきり、ぐったりと布団に体を横たえて、すぐに眠ってしまった。僕は少し面食らったけど、前に彼女が「うつ病になっていた」と言っていたのを覚えていたので、“休ませてあげないとな”と思った。僕も過去、少しは精神科通いをした事がないわけじゃない。そういう事は少しは知っていた。僕は眠り続ける彼女の顔を眺めたり、煙草を吸ったりして過ごした。


ところが、しばらくそうしていると、眠っているユリがだんだんと苦しそうな表情になり、少しずつ夢にうなされているのが分かるようになった。“悪い夢を見ているのかな。起こした方がいいかな。”と、僕は少し心配だった。そう思って手を出そうか迷っていたとき、ユリは寝言を言った。僕はその言葉に背筋が冷えた。ユリは苦しい息を継ぎながらこう言ったのだ。


「…ママ……」


僕はそのとき、ぞっとした。“ユリは母から虐待を受けていた。それなのに、ユリはまだ夢の中でそれを追体験しているか、母に愛されなかったことを悲しみ続けている…。”そのことに胸が引き裂かれそうになり、今すぐ彼女を揺り起こして強く抱きしめ、「忘れてくれ。頼むから忘れてくれ」と伝えたかった。でもそれはユリにとっては酷な要求だろうとも思った。「かけがえのない何かを失った痛みは、ついてまわる」。人はそう口を揃えて言う。“でも、それじゃユリが辛過ぎるし、結局それは叶うことでもない。いつか忘れてくれるまで、僕はユリを支えよう。”僕はそう決意して煙草をもみ消し、布団に近寄り、少しずつ呼吸を取り戻し始めたユリを起こした。


「ユリちゃん、ユリちゃん。もう四時だよ」


彼女が目を開けて、ぼんやりと僕を見つめた。まだ焦点の定まらない目は、ユリが見ていた夢の中から僕を見つめ返しているようだった。僕が微笑んで見せると、ユリはくしゃりと泣いた。そしてまだ力の入らないらしい腕で起き上がり、ユリは僕の胸に縋ることなく、涙を拭った。“本当は僕の胸に飛び込んで欲しい。でも、僕だって、今すぐ君を抱きしめてすべてを受け入れるのを怖がっているんだ。”そう思いながら、出来るだけ優しく彼女の事を見つめ続けた。ユリは涙が収まると、「夢を見た」と言って、その内容を話し始めた。


「夢はね、私とお母さんの夢。私はお母さんに追いかけられて必死に逃げてた。それはすごく怖いことのはずだけど、なんでかわからないけど、私、悲しくて悲しくて…そのうちにお母さんはぷいってどっかに行っちゃって…でも私は、怖くてお母さんが追いかけられなかった…もう会えないの。お母さんのことが怖くて仕方がないから。でも…」


僕はそこで、僕の知っているユリの真実らしきものを話そうかどうか、迷った。でも、彼女がまた泣いてしまうかもしれなくても、「わかってるよ」と言いたかった。


「君は、ほんとはお母さんと暮らしたいんだよね。なんとなくだけど、わかるよ」


そう言うとユリははっと顔を上げて、驚きと喜びの混じった目で僕を見つめた。そしてコクコクと頷くと。「そう、そうだよ」と言った。僕は、だんだんと僕とユリの間の壁が低くなって、今では顔を見合わせる事が出来るほどになったのが分かってきた。


「私は…お母さんが好きだった。自分に課された期待が誰にも果たせないものだってわかってても、お母さんに逆らえないのはただ怖いからで、愛情から“応えてあげたい”と思ってるわけじゃないのもわかってるけど…やっぱり、母親と離れるって、辛いよ…!」


ユリは顔をぐしゃぐしゃにして泣き、一生懸命目をこすった。僕はそのとき、やっと彼女を抱きしめることが出来た。“今なら僕は「守る」ことを許されているだろう”と思った。腕の中にあるユリの小さい肩は、小刻みに震えていた。


「ユリは、優しいね」


「そんなことない…私は、お母さんを捨てたの…」


僕はまた胸が痛んだ。子供は親に対して責任なんか無いのに、ユリはそれを思い込んで、“酷い母親から辛くも逃れて幸福へと歩み出した”とは思えず、“母親を置いてきたのだ”と、自分を責めている。それに、さっきからユリが母親のことを口にする言葉は、「現在進行形」だ。今も同じなのだろう。でも、僕に言える言葉はもう無かった。なぜなら、僕が思い描くユリの母と、ユリの心の中に居る母親は、きっと全然違う人だろうから…。





僕たちはそれから、しばらく会う暇が無かった。僕は仕事がちょうど立て込んでいて、ユリも部署移動の直後だった。ユリは、「覚えること多すぎ!」とSNSのメッセージで悲鳴を上げていた。そんなもんだから、僕は自分の誕生日をユリに伝え忘れていた。そこへ、思わぬ人物から僕のスマートフォンに着信があった。


「もしもし…?」


僕がその電話を取ったのは、“もう冷静になってくれただろうか”という期待があったからだ。電話は、東野からだった。“もう掛かってくることもないだろう”と思って僕は着信拒否リストから外して、そのままになっていたのだ。スマートフォンからメロディが鳴って画面を見たときにはドキッとしたけど、大して抵抗は無かった。東野と会わずに連絡も取らずに居てから、ゆうに八カ月は過ぎていた。


「よお…文ちゃん」


電話の向こうから聴こえてきたのは、幽霊が恨みがましく喋るような声だった。それで僕は“まだ落ち込んでいるんだな”と思って警戒したけど、東野は「話したいことがある」と言って、「会って話がしたい。酒の入らない場所で頼むよ」と言ってきた。東野があまりにも元気が無さそうだったので、僕は東野に店を指定してもらって、後日、東野の家の近所にあるファミレスに行くことにした。






東野はある昼下がり、真っ青な顔色とげっそりこけた頬、前よりもさらに痩せた体で、あちこちシワになったワイシャツとスラックスだけで店の前に現れた。僕は東野の背中を押して手伝ってやるように、二人で店に入った。


席に案内されても僕たちは一言も喋らず、僕は東野が口を切るのを待った。僕が何か聞いたところでそれは東野が打ち明けたい事とは限らないし、話したかったことを妨げるかもしれないと思っていたからだ。ファミレスのフライドポテトはさして手をつけられないままでテーブルの上を陣取り、僕たちはそれを見つめていた。不意に東野は背筋を正し、そして僕に深々と頭を下げた。僕は驚いて少し身を引いてしまう。


「ごめん文ちゃん!俺、あの頃どうかしてたんだ!許してくれ!」


東野が真剣に何かに取り合おうとするなんて、めったに無いことだ。僕はそれでびっくりしたままだったけど、早く東野を安心させないとと思って、「そうでもないさ。それに、よく覚えてないね…僕こそ、あんなことをしてごめん。友達として、良くなかったと思う」と答えた。僕がそう言うと東野は肘をついて両手を握り合わせ、それを眉間に押しつけてしばらく泣いていた。


「そんなことない…!文ちゃんがああしてくれなかったら、俺はもっと悲惨なことになってた…!」


どんな道のりを乗り越えて東野が元に戻ったかはわからなかった。東野はあまり話したがらなかったから。僕は「何があったの?」と聞いたけど、「言ったってくだらねえよ」とつまらなそうに吐き捨てて、それで終わりだった。その後は昔の話を東野が始め、「あいつのイカサマを見破ってやったときのあの顔がよぉ」だの、「文ちゃんは勉強出来たのにグレてたから、俺ぁ不思議だったんだよ」と東野が楽しそうに喋るのに付き合った。


それから僕は東野とまた飲み仲間として遊び歩くようになり、僕はある晩、東野と飲み屋に居たときに、ユリからの電話を受けた。






さびれた小料理屋は安酒とそれから地酒、あとはごく安いつまみがあって、テーブルは油やら酒でべとべとだ。東野は良い気持ちで酔っているようで、僕が電話が鳴っていることに気づいてポケットからスマートフォンを取り出しても、あまり気もつかずにぐいぐいとビールジョッキを煽っていた。


「ああもしもし。あ、ユリちゃん、今ね、ちょっと友達と外に居るんだ。うん、うん、ごめん。じゃあまた、うん。おやすみ」


僕は“そっか、ごめんね”とこちらを気遣って「おやすみ」を言ってくれたユリとちょっとだけ話して、電話を切った。すると、途中からずっとこちらを見ていたのか、東野がニヤニヤと笑っていた。


「なんだい、女か」


そう言ってから東野はビールを飲み干したことに気づいてカウンター奥を振り返り、「すんませーん!燗酒一本ー!」と叫んだ。そしてまたこちらに向くと体をぐっと前に倒し、下から僕を覗き込んで笑う。僕はそれが東野の悪ふざけだと分かっていたけど、ユリのことだけははっきりと言っておきたかった。「彼女とは半端な気持ちではない」と。


「少なくとも。お前が考えてるようなもんじゃないよ」


すると東野は驚いてから笑い、「本気かよ。もう年だろ?」と更に冷やかした。僕はそこで急に物思いに沈みそうになって、酒場の喧騒がぼんやりと淡くなるのが分かった。


「そうだ。しかも相手は二十三歳だ」


自分が自分を嘲笑う表情が僕には外から見えているような気分だった。僕はその後で、「へへっ」と笑った。東野は僕の言った事に驚いて言葉も出なかったようだ。さらにそのことで自分を責めている僕を心配するように、東野の顔はずっと優しく、そして心配そうになった。僕は下を向く。


「…大丈夫なのかよ、そんなんに本気になっちまって」


僕はちょっとだけ顔を上げて、ちらっと覗くように東野を見た。東野はまるで、僕の恋を自分が背負わされているかのように顔色を青くしている。僕はそれに笑って、「全然。多分無理」とだけ言った。





つづく

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