6話 美しい季節





「えっと…その…」


目の前には、とびきりのおめかしをしてきたのだろうユリが居る。僕は体が震えるほど嬉しい気持ちを隠すため、全身に力を込めて座っていた。「ハーベスト」のマスターはこちらを見ずに僕のコーヒーカップを洗っている。


「よろしくお願いします」


そう言ってユリがぺこりと頭を下げた。顔を上げたとき、彼女は恥ずかしくて堪らなさそうに真っ赤になっていた。伏し目がちで、ちらっとこちらを見たユリの大きな目は、このとき僕のものになったのだろうか。






“返事するから、会おう”というユリからのメッセージが届いたのは、家庭教師として教えに行っている子供の家に居たときだった。僕はそれで慌ててその子の家から飛び出しそうになる自分の体をイメージしてしまい、はっと辺りを見渡したのを覚えている。


「せんせい、どしたの?」


「あ、ああ、なんでもないよ。終わったかい?」


「…わかんない」


「そう。どこがわからない?ちゃんと言えるかな?そこからやってみよう」


僕はそのまま指導に戻って子供に勉強を教えていたけど、頭の中ではユリがいろいろな恰好をして僕の前に現れる想像しかしなかった。そのときの想像でユリは、「最後になるから、顔を見ておきたくて」と言ってレモン色のワンピースで僕の気持ちを退けたり、もしくはモスグリーンのジャケットで「今日から、お付き合いお願いします」と言ったりした。





ユリはいつか着ていた赤いチェックのワンピースで僕の前に座っていた。“ハーベストにしようよ。その方がいい”とユリは珍しく自分の希望を言って二人でここに来た。席に就いた初めのうちは、ユリは何も喋らずにもじもじとしていたり、そばを通ったマスターに水を頼んでいたりしたけど、やることもなくなって空白の時間が長くなると、どこか怪訝そうに僕を見て、こう喋り出した。


「“変だな”って思ったの。あのとき。だってあのレストランで文ちゃんから告白されたとき…私、“やっと来た”って思った。でもね、私、文ちゃんのことを好きで、特別待ってたってわけじゃなかった。だからちょっと自分の気持ちがわからなくて…」


テーブルに頬杖をついて、コーヒーカップの取っ手の細工をなぞるユリ。


「動揺してたよね。そういう理由だったんだ」


僕もそのとき“変だな”と思っていたけど、“変なところなんかない。君のそばにずっと僕が居た理由として思い当たるのは、普通は「恋をしている」ことくらいしかないんだから。”とも考えていた。多分、ユリは僕を純粋に信頼し、友情を持って迎えてくれていたから、僕みたいなおじさんが彼女の近くに居る不自然さは気にしていなかったんだろう。でも、心のどこかでは気づいていた。その気づきは今までの彼女には必要なかったから、知らないでいられたんだろう。


“まったく。どこまで純粋なんだろうな。”僕はそう思ってほとほと呆れたいような、もっと好きになったような、僕が彼女を守りたいような、そんな気持ちだった。でもまだユリは決定的なことは言っていない。そこでユリはちょっと気まずそうな顔をしてから、僕に答えを求めるような瞳を向けた。彼女が僕を見つめ、見上げている。


「多分ね、私、もう好きなんだと思う。でも、どうしたらいいかわからなくて…だって、元々好きじゃなかった人によ?一度告白されただけで「はいそうですか」って付き合うのって、不誠実でしょ?だから、その…でも、断れない。それで困ってるの」


そう言ってユリは、底の底まで全部白状してしまった。そして、あまつさえその決断を僕に委ねようとさえしているようだ。“おいおいこんなに上手い具合に運ぶか?”と、僕はちょっと不気味だったし、なんでもかんでも話してしまっても恥ずかしいとも思わないユリに驚いていた。どうやらユリは、「今こそ誰よりも誠実でいなければ」と思っているらしい。僕の告白は、一世一代の、隅田川に飛び込むか清水寺から飛び降りるかのものだった。ユリはそれをしっかり受け止めてくれていたようだ。それは多分ユリにとっては「相手から渡されたもの」に対するいつもの努力なんだろうけど、嬉しかった。


「それは君の決めることだけど、僕は君がなんと言っても受け入れる覚悟はあるよ。それに、死にもしないし。僕が死ぬのはもっと先だけど、我慢が出来なくなっちゃったのさ、ごめん」


“この台詞の半分は嘘だ”と僕はきちんと分かっていた。でも、その上で嘘を吐いた。僕は多分ユリが居なくなったら、いつも幻の彼女を追いかける生涯を送るだろう。“でも、それでもかまわない。そのために生きるのだ。”僕の気持ちはもう決まっていた。


ユリはしばらく横を向いていて、肘をついた手で口を押えて考え込んでいたけど、やがて僕に頭を下げたというわけだ。





僕たちは晴れて恋人同士となったけど、僕には次の罪悪感が襲ってきた。“彼女のお父さんになんと言い訳をするんだ?”というものだった。


ユリを懸命に守り育ててきた父親の前に僕が姿を現して、「お付き合いさせて頂いてます」なんて抜かしてみろ。どやされるくらいで済めばいいが、ユリも叱られるかもしれないし、僕たちは絶対に引き離されるだろう。だから僕はユリに、「お父さんとはまだ会えないかな。こんなに年が離れてたら、そうそう認めてもらえないからね」と言った。それは、怯えを隠すだけの言い訳だった。





ユリを僕の家に呼んだ日は、雨が降っていた。ユリは「傘、嫌いなの」と言って、びしょ濡れで待ち合わせ場所に現れた。僕はびっくりしてしまって慌てて彼女を自分の傘まで引っ張って、じっとり重くなったジャケットを脱がせた。僕はその日仕事の終わりが遅く、ユリを迎えに行ってもう一度家に戻っていたら、帰宅が12時近くなってしまうのが分かっていた。でもユリが「文ちゃんの家で今日会いたい」と言うので、バス停と、待ち合わせ場所としてその近くのコンビニを指定していた。“彼女のことを思うなら、もっと余裕のある日を選ぶべきだ”と思ったけど、ユリが電話で泣きそうな声を出して、「ごめんね、今日どうしても…」と言うのだ。別の日を選ぶなんて選択肢は僕には無かった。





僕は何も無くて寂れた自分の家にユリを招くのは気が進まなかったけど、直しようもないししょうがないと思って玄関の扉を開ける。奥の間に彼女を通してから、「ほんとになんにもないけど、とりあえず濡れた服を着替えなきゃ。僕の服貸すよ」と言った。ユリはちょっと赤くなってきょときょととしてから、「うん、じゃあ、頼む…」とつぶやいた。


「それにしても、ごめんね。駅前まで迎えに行けばよかった」


「いいよ。その代わり、お風呂貸して」


「うん。もちろん。体を温めないとね」


僕はタンスから、サイズに困らなさそうな大きめのTシャツと、スウェットパンツを選び出した。僕自身は男性で痩せっぽちなので、ユリの体型に合いそうなものというと、それくらいしか無かった。僕は年甲斐もなくどこか気恥ずかしくなりながら、それをユリに渡す。


「ありがと。あ、これなら入りそう」


「うん」


すると、ユリは渡した服を持って、急に寝室の方に行って襖を閉めた。僕はどうしたんだろうと思って、襖のこちら側から声を掛ける。


「え、ユリちゃん?どうしたの?」


僕はなんとなく、彼女をずっと「ちゃん付け」で呼んでいた。なんだか、彼女に心を開いてもらえてからの方が良いような気がしていたのだ。そう、彼女はまだ僕にすべてを任せてはくれないような。


襖の向こうから、小さな声が聴こえてきた。


「貸してもらった服に着替えるから、開けないでね」


「うん…」





それから僕たちは湯船に湯を張るまでの間に、台所で遅い夕食を作った。「急な話だったから、今家にこれしかなくて…」と言い訳をすると、ユリは「ラーメン好きだもん、大丈夫!」と元気に返事をしてくれた。それから二人で肩を並べて袋麺を一緒に茹でて、スープを丼ぶりに溶かし、一緒にすすった。


「うん!これ美味しい!そっち味噌だっけ?ちょっとちょうだい!」


ユリは楽しそうに、美味しそうに、即席めんを食べてくれた。僕はちょっと情けない気分だったけど、せめて彼女が楽しんでくれているならと、ほっとした。


「うふふ、いいよ。醤油もひと口もらえる?」


丼ぶりを交換してひと口だけ食べ合って、にっこりと微笑み合う。幸せだった。本当に幸せだった。他には何も言いたい言葉は無かった。僕の大きなTシャツをユリが着ると袖口がゆったりとだぶついて、彼女はどんぶりの中身に最後まで目を輝かせて、「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせた。わけもなく僕たちは微笑み合い、小さなことで大笑いした。


“ユリは今、僕だけを必要として僕だけを見つめていてくれるのかな。”そう思うと僕の心臓は、今にも死んでしまうかのようにとめどなく高鳴った。




それから僕たちは闇夜の中で、お互いを許し合った。この話は誰にもしたくない。僕だけの秘密にしておきたい。ただ、一つ言うとするなら、“このときが永遠に終わらないで欲しい”と、僕は願っていた。





ユリはそうやってときどき僕の家に来ては、夜を共に過ごした。そのとき僕は、幸福と、それから罪悪感とのどちらもに焦がされながら、それらをいっしょくたにした喜びに癒された。


そしてそうやって二、三度僕の家を訪れてかあ、ユリにとってと僕にとっての、「二人の道」が始まったと思う。ある晩、ユリは服を着てから僕の布団に包まって、ぼんやりと目を虚ろにさせていた。僕はユリが入っている布団の間にテーブルを挟んでユリに向かって、煙草を吸っていた。少し前まで和やかに微笑んでいたユリの目は、だんだんとろりとろりと溶けていき、憂鬱な闇の底を映すような黒色に変わっていった。そして今、彼女は本当の暗闇の中で目を開けているように、まるで何も映していないかのような目をしていた。僕はその移り変わりを見て、ユリが開いた扉の先にある闇の深さ、大きさに圧倒されながらも、“やっと見せてくれるのかな”と思って、ユリの言葉を心待ちにしていた。


「ねえ…私さ…困ってることがあるんだ」


ユリは独り言のようにそう話す。“僕は多分ユリに答えを与えてやることは出来ず、それでも答えてあげられないことを彼女に謝らなきゃいけないんだろうな。”と思っていた。ユリがこの先に何を言ったとしても否定することは許されないし、答えてあげられなかったら僕の方が悪いのだ。多分そうだと僕は思っていた。


「困ってることって?」


僕はラッキーストライクの吸い口に口をつけて吸い込み、薄曇りの空のようになった煙い部屋の中にまた灰色の煙を吐いた。ユリはどこも見ていないし、おそらく僕が目の前に居ることも考えていない。いや、考えているつもりだろうけど、彼女は気づいていない。


「うん…内容はわからない…でもね、ずっと困ってるの…それが怖いの」


そのとき、ふっと僕の中で、雲った部屋の煙が晴れるようなイメージが生まれた。“内容がわからない悩みが怖い”。それは僕も持っている感覚だ。それがユリと同質のものかはわからないけど、僕だって同じ言葉で説明できるものを持っている。でも僕はこの考えをユリと共有することを恐れた。もしそうしてしまったら、僕たちは互いを理解しようとせずに、同一人物を扱うように互いを扱ってしまうのではないか?“無鉄砲なユリなら、そうしてしまってもおかしくはないかもしれない”。


僕がしばらく言葉に惑っていると、ユリは虚ろになっていた目を尖らせて、やっと僕を見た。“ああ、ここからか”と僕は思った。ここから僕たちの、「分かり合えない旅」が始まるのかもしれない。


「文ちゃんってそういうのないの?」


まるでユリはそれが信じられないというように語調に怒りを滲ませながらも、ただちょっとゴキゲンナナメになっただけだった。枕に乗せた頭を持ち上げただけで、布団からはみ出させた手を軽く握っているだけのユリは、もうすぐ二十三歳だと言うのに、十四歳のときに出会ったときと大して変わらず、美しく、あどけない。そんな少女のような彼女が抱えている闇は、拒まれただけでこちらに襲い掛かるだろう。その幼さと純粋さゆえに、彼女は同意以外を受け入れることが出来ないのだ。母親に今日あったことを話すように。


僕はそこまで理解しているだろうと自分で踏んでおきながら、彼女に同意を与えた先が底なしの沼だと分かるから、進むことを「勇気」とは見られなかった。


「うーん、あるけど…どうだろう、ユリちゃんと同じものかはわからないし」


“素直に答えてみたらどうなるだろう”と考えた。考えたはいいが、ユリは飽きたように僕から目を逸らし、「ふうん」と言って、どうやら退いてくれたようだった。“でも、ごまかしや先延ばしはいつまでもは通じないだろうな。”ということは分かっていた。僕は自分がユリに何を求められているのかなんて分からなかったのに、なぜかその答えをもう知っている気がしていた。“そしてそれはとてつもなく大きくて、僕なんかには用意出来ないものだろう。”それだけはすでにはっきりしていた。






僕はある日、食べ物の買い物を近所のスーパーでした。そのスーパーはアパートから歩いて二十分ほどのところにあるけど、僕は値段の安さから、「食料はここ」と決めて週末に通っていた。


もう八時半を回った頃に、えっちらおっちらと坂もない平坦な住宅街を走る。植木屋によって刈り込まれた木や草ぼうぼうになった庭が見え、それは街灯の灯りに照らされて輪郭だけ青白く浮かび上がっていた。生垣に街灯の光が過ぎるのを目で追うと、ときたまそれが瑞々しい椿の葉などによってきらりとナイフのように光る。そしてある角を曲がって国道に出ると、その角に店があった。スーパーの前に自転車を停めて、僕は中に入る。


その日、思わぬ人物に出くわした。依子だ。僕がいつものようにカゴを抱えて袋麺売り場に入ろうと通路を曲がったとき、依子が売り場の向こう側に見える通路を横切るのが見えたのだ。彼女は何かを探しているような目を宙に浮かせていたけど、それが急に僕を見つけて、依子の目は険しく厳しくなった。僕は彼女と過ごした、いや、自分を偽って過ごした日々を瞬間で思い出し、さっと悪寒が走る。


僕は依子から目を逸らすことは出来ず、依子もしばらく僕を睨んでいたけど、やがて「つまらないものを見た」というように目を逸らして、前を向いてついっと歩いて行ってしまった。それはほんの十秒も掛からない出来事だった。僕はほっと胸を撫でおろしたけど、依子を傷つけただけだったことで僕が得たのは「罪の意識」だけで、「後悔」ではなかったと分かった。“そうだ、僕は依子を見ていなかった。彼女を欲していたわけではなかった。僕の中で彼女は全くの「代わり」で、僕は依子に対してそんな扱いをしたことに罪の意識は抱いても、彼女を傷つけたことで僕の心も痛むようなことはなかった。愛していなかったのだから。”僕はまた自分を“卑怯者”と蔑んだ。




そのスーパーからの帰り道に、ふと思い出したように、ユリのことを考えた。


“そうだ。彼女は母親から拒否された過去を持っている。つまり、全くの肯定をおそらく受けていない。”突然僕はそのことに思い至った。それはおそらく僕が今までずっと、ユリと男女の仲になってからずっと頭の裏側でいつも考え続けてきたことで、今やっと答えが出たのだろう。そして僕は途方に暮れ、自分が間違っていなかったことを知った。


ユリが入院して僕が見舞いに行くとき、僕は“自分なんかで彼女の助けになるはずはないのに”と自分を責めながら病院に向かった。それは間違いではなかった。ユリは「すべてに対する許し」が欲しいのだ。僕はその闇の深さに足が竦む思いをしながら、カゴに乗せたスーパーバッグをガサガサと揺らして、誰も居ない夜の中に、自転車と一緒に吸い込まれて行った。





つづく

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