第5話

 アパートに着くと、じゃあね、との一言だけで、悟くんは部屋に帰ろうとする。僕は、何故だか、このままにしておいてはいけない気がして、彼を呼び止めた。


 彼が振り返る。だが、話さなくてはという気持ちが先行して、何も内容を考えていなかった。微妙な沈黙の中、僕は必死に話題を探す。


 そうだ、あれがあった。僕は、悟くんに言う。

「スイカ、持っていかないか?」


 唐突な提案に、彼はキョトンとしている。


「スイカ。この前、親が送ってきてくれたんだ。一人で食べるには多すぎるから、持って帰ってもらおうと思って」

 この前とは、1週間前、両親にニート生活がバレる直前のことである。おそらく最後となった両親からの仕送りの中に、スイカが入っていたのだ。先に食べた親から、まだ甘くないとのメモが同封されていたため、熟すまで、ずっと野菜室に置いていた。そろそろ食べごろだろう。


 その時だった。彼が、「『すいか』ってなに?」と聞いてきたのだ。


「え? スイカだよ。丸くて、緑と黒のしましま模様がついてる果物。切ると赤いやつ」

 だが、彼は全く分かっていないようだった。まさか、スイカを見たことすらないのか!?

「わかった。じゃあ、今切って持ってくるから、ちょっと待ってて」

 百聞は一見にしかず、だ。説明するよりも、見せた方が早い。


 僕は悟くんを玄関で待たせ、台所に向かった。手を洗って、スイカと包丁を取り出す。その時、廊下から悟くんが走り出てきた。


「すいか、みせて!」

 待っていてと言ったはずなのだが……まあ、子供は好奇心の塊だからな。

「包丁使ってて危ないから、そこから入るなよー」

 そう言うと、スイカを悟くんに見せた。彼の頭よりも大きい。それを、彼は眺めた後、そっと指でつついた。そして一言。


「ふーん」


 どうやら、思っていたものとは違ったらしい。彼は、さもつまらないというような表情でリビングへ歩いていった。そうだ。子供は飽きるのも早いのだ。


「散らかってるから、転ばないようにな」


 そう言うと、僕はスイカをまな板に置いた。切ろうとした時、悟くんが聞いてきた。


「ねえ、このほん、なに?」

「どれ? 見せて」

「おもくて、もてない」

 仕方なく向かうと、彼は、本棚の六法全書を指差していた。


「ああ、それは、僕が勉強する本だよ」

「なにをべんきょうするの?」

 彼は興味に目を輝かせて聞いてくる。スイカにはすぐ飽きたのに、なんとも変わった子だ。


 僕は台所に戻りながら答える。

「法律って言ってね。えーっと、日本の決まりを勉強するんだよ」

 彼は少し黙って、何かを考え込んでいる。

 

 そのうちに、僕は再度スイカに向き直った。包丁を表面に突き立てる。その時、また彼が聞いてきた。


「なんで、『ほうりつ』をべんきょうしてるの?」

  

 サクッ。


 スイカが切れる音と同時に、彼の言葉が僕に切り込んできた。果肉の紅が、ゴロリ、とその色を現す。それにつられるように、褪せていた記憶が鮮やかに色づいていく。


 何で……? そういえば、ずっと忘れていた。何故、昔、弁護士になろうと思ったのかを。


 あれは……


「ねえ」

 悟くんが痺れを切らしてもう一度聞いてくる。僕は我に帰ると、その記憶を語った。


「昔、僕が中学生だったころ、好きな子がいたんだ」

「『すき』ってなあに?」

「ああ、うーん。一緒にいたいって思うことかな」

「ふーん。ままみたいなかんじかぁ」

「そう。だけど、その子は、みんなから嫌われていたんだ。特に女の子たちから。きっと、可愛くて、頭も良かったその子にどうにか勝ちたかったんだろうね。男子も、女子につられて、その子をいじめるようになった」


 そして……

 

 僕は、半分になったスイカの片方を、また切った。


 サクッ。


「だんだんといじめが酷くなっていった。僕はそれに耐えられなくて、いじめっ子たちに言おうとしたんだ。もうやめろって。でも、」


 サクッ。


「言えなかった。いじめっ子たちを言い負かす自信が無くて。僕がいじめられるんじゃないかと怖くて。僕はただ、見ているだけだった」


 サクッ。


「そんなある日、好きだった子が死んだ。自分で死んだ。僕は、悲しくて、悔しくて。自分の無力さを恨んだ。自分に勇気が無かったことは棚に上げて、力が、知識がなかったことのせいにしたんだ。その力、相手を言い負かす力を手に入れようとして、弁護士を目指した」


 サクッ。サクッ。サクッ。サクッ。


──そうして、いつしか僕は、自分に勇気がないことを本当に忘れてしまった。知識を、力を求めて、勉強した。だが、知識をいくら取り入れても、何も解決しなかった。だって、僕に足りないものは、勇気だったのだから。『勇気を持って、大切な人を守る』ことが本当の目的だったのかもしれない。それを、僕は、


 忘れていた。


 サクッ。サクッ。サクッ。カンッ。カンッ。


「……え、ねえ、ねえってば!」


 悟くんの呼び声にはっとした。彼は、いつの間にか僕の横に立っている。


「すいかじゃなくて、まないたをきってるよ」

 彼は僕を見上げて言う。

「えっ?」

 手元を見ると、スイカの片方が細切れになって、包丁がまな板を打っていた。


「ご、ごめん。すぐもう片方を切るね」

 悟くんが、また言った。

「ないてるよ」


 驚いて、手の甲で目を拭うと、液体が触れた。それは、頬にまで伝っている。

「あれ? 何でだろうな?」

 おどけたつもりだったが、涙は止まらない。むしろ、多くなった。子供に大人の涙は毒だ。そう思い、慌てて顔を背ける。だが、悲しみは容赦なく込み上げてきて、喉を詰まらせる。まるで、涙が感情のダムを壊してしまったかのようだ。


 止めどない流れに耐えきれなくなって、かがんだ。


なぜ今更、悲しいんだ。当時は自分のことしか考えていなかったくせに。今悲しんだって、もう遅いんだよ……。


 その時、背中にちいさな温もりが触れ、目の前に何かが差し出された。視線を上げると、歪む視界に悟くんがいた。タオルを差し出してくれたのだ。


 涙で表情が読み取れなかったが、『ないてもいいんだよ』そう言われている気がした。


 タオルを受け取り、目に押し当てた。声にならなかった泣き声が、喉を通って空気の音を奏でる。その音だけが、台所に響いていた。


 やっと涙が引いてきた。一体、どれほど長く泣いていたのだろうか。その間ずっと、悟くんは僕の側で、背中に手を当てて、見守ってくれていた。


「ごめん。不安にさせちゃったな」

 悟くんに謝ると、彼は手を僕の頭に乗せてきた。何事かと動揺する僕に構わず、なんと彼は、僕の頭を撫で始めたのだ。


「だいじょうぶ。きょう、ぼくがないちゃったとき、おにいちゃんもなでなでしてくれた。そのとき、すごくあったかくて、うれしかった。そのおかえし」


 そう言って彼は僕に笑いかけた。貼り付けたような笑顔ではなく、昼間見た笑顔でもない。母親のように柔らかい、陽の光に包み込まれるような笑顔だった。


 彼は強い。そう直感した。大人の剥き出しの感情に触れても、傷を受けることなく、それを抱擁する。いや、傷は受けているのかもしれない。ただ、それを表に出さないだけで。


 きっと、生まれた時から鋭い感情に触れてきたからだろう。怒り、憎しみ、悲しみ。それらを、時には言葉で、時には暴力で受け止めてきたのだ。


「ありがとう。じゃ、スイカ、食べようか?」


 僕がそう言うと、彼の笑みは、年相応の無邪気な形に戻り、うん、と頷いた。


 僕たちは、残っていたスイカのもう半分を切って、一切れずつ食べた。少し温くなっていたが、1週間置いておいただけあって、熟していて甘かった。


 彼が欲しがったので、残った分はサランラップに包んで持たせてやった。すると、彼は、「これで、ままもよろこんでくれるね!」と言うのであった。


 隣の部屋に彼が帰るのを見送り、僕もドアを閉めた。そして思った。


 悟くんは、確かに包容力が高い。相手の感情に触れても、平然としていられる。だが、それでも彼は人間だ。彼に虐待をするような大人が甘えて、感情をぶつけ続けていたら、彼の心はいずれ壊れてしまう。


 だが、その大人は彼の親だ。たとえどんなに酷い親でも、子供にとっては唯一無二の存在だ。それに、お母さんが虐待をしていると決まった訳ではない。


 僕は、どうするべきなんだ?


 答えが見つからないまま、水着を洗濯機に放り込み、ぼーっとシャワーを浴びた。


 そのままベッドに倒れて考え込んでいたが、プールでの疲れが出たのだろうか。いつのまにか、眠ってしまった。

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