2 鉄砲塚さんと私【鳳凰編】

 四月も終わりに近付き、日も長くなりつつあるとはいえ、さすがにもうすっかり暗くなってしまった中、私はようやく我が家へと辿り着いた。二時間近く歩いていた疲労で、本当ならすぐにでもベッドに倒れ込みたい所だけど、そうも言ってられない。とりあえず着替えて、彼女のマンションにまた戻らなきゃ。

 家の門をくぐり、玄関のドアを静かに開ける。それにしても遅くなっちゃった……お母さん、怒ってるだろうな……うう、また出掛けるって言い出しにくい……。

 恐る恐る、ただいま、と小さく言った私の声に、奥のリビングからお母さんが顔を出す。


「ちょっと史緒!随分遅かったじゃないの!何してたの?」

「ごめん、お母さん……ちょっと部活の用事で……夕ご飯はいらないから。これからすぐまた出掛けなくちゃいけないし」

「出掛けるって……あのね、史緒、さっきから―――史緒ってば!」

「帰って来てから聞くから。本当にごめんね!」


 今捕まったら長いお説教が始まりそうだったので、お母さんの私を呼び止める声を適当に受け流し、二階の自室へと向かって玄関脇の階段を上った。

 ……とりあえず、もう一度戻るとして、何を持って行けばいいんだろう……等ととりとめもないことを考えながら「ふみお☆」というプレートの掛かった自分の部屋のドアノブを回す。………もう大分暖かいとはいえ、コートは持ってった方がいいかな。夜になったら急に冷え込むかも……それと帽子……もし清潤の先生方に見つかったら怒られそうだし……待てよ、だったらマスクとサングラスで完全に顔を隠して……って、バカだな、私。その出で立ちじゃまるっきり―――。

 と、ドアを開けるなり、無人で点いてる筈のない、電気の点いた私の部屋、クローゼットの前に、こちらに背を向けて踞る人影が目に入ってきた。


「へへへ、変質者―――!!!」


 私の声に、一度その人物はビクッ!!と全身を震わせた。

 良く見れば、清潤女学園のダークグリーンの襟とスカートのセーラー服。そして背中に伸びる赤みがかった茶色のロングヘア。頭の両脇に結ばれた、フルフル揺れる猫の耳みたいなツーサイドアップ。

 え、もしかしてこれって……?


「て、鉄砲塚さん!?な、何してるの!?」


 私の呼び掛けに、私が誰よりも会いたかった彼女―――鉄砲塚沙弥さんはゆっくり振り返った。

 四日ぶりに見た鉄砲塚さんは何も変わっていない……当たり前だけど、それが嬉しくて、私は彼女をまじまじと見つめる。大きくて吊り気味の瞳、すっと通った鼻梁、肉厚のぷっくりとした唇に綺麗な流線を描く首筋、豊満な胸に、手にはコアラのプリントされた可愛らしいデザインのピンクの布切れ……アレ?

 ……って……何で私のパンツを握り締めてるの!!

 それを見た途端に、途方も無い脱力感に襲われる……あ、あんなに心配してたのに……!この子ときたら全く……!!


「……ちょっと……本当に何してるのよ……」

「ブチョー、変質者はヒドイですよ。あたしはただ、こないだやり残してた下着のチェックを―――」

「否定できる立場じゃないでしょ!!!」


 円妙寺さんは鉄砲塚さんが傷ついて落ち込んでる、みたいに言ってたけど、何も変わってないじゃないの!!散々心配させておいて……!!うう……段々逆に腹が立って来たわ……!!

 はああああ、と一度大きく息を吐いて、私は鉄砲塚さんの後ろをスタスタと横切り、部屋の壁際にあるベッドの上に鞄と彼女の原稿を置くと、やや乱暴に腰を下ろした。それから眉間に皺を寄せ、可能な限り険しい表情を浮かべると、座った私の右隣をポンポン、と叩いて、合図を送る。


「……とにかく、ここに座りなさい……」

「え?でもぱんつのチェックがまだ……」

「いいから座りなさ――――い!!!!」


 私の剣幕に、流石の鉄砲塚さんも恐れをなしたのか、名残惜しそうにパンツをクローゼットにしまい、大人しくベッドに座る私の隣へと腰掛けた。

 私は口も開かず、腕組みをして目を閉じるのみ……さあどうしてくれよう……。自分が伝えたかった想いもどこへやら、今の私は鉄砲塚さんをどう叱ってやるかで頭がいっぱいになっていた。

 憤怒の表情を浮かべた私に対して、鉄砲塚さんはらしくもなくおずおずと口を開く。


「……あの……ガッコ終わってブチョーを訪ねて来たんですケド、まだ帰ってないから、ってお母様に部屋に通されて……中々帰って来ないからタイクツしちゃって……」

「…………」

「あの……ブチョー、怒ってます?」

「………とりあえず、パンツの事は怒ってます……」


 私の返事に一瞬間を置いた後、鉄砲塚さんは小さな声でもう一度問い掛けてきた。


「……こないだの事も……怒ってます?」


 その問いにハッとして、答える代わりに目を開き、鉄砲塚さんの左の頬に右手を伸ばす。かつてその頬を叩いてしまった右手を。

 私の行動は、単純に思い切り叩いてしまったことを思い出して、鉄砲塚さんの頬に痣など残ってないかな、と確かめようとしたに過ぎなかったのだけど。もしかしたら、またぶたれるとでも思ったのだろうか、鉄砲塚さんは私の仕草に身を引き、ギュッと目を閉じて、歯を食いしばり、身体を強ばらせている。

 彼女が見せた反応に、私の心に衝撃が走る。……鉄砲塚さん、いつも通りにしか見えなかったけど……でも、やっぱり普段の彼女とは、違う。例えるなら、いじめられた野良猫のように、彼女は私に……怯えている。

 彼女の心には、まだ雨が降り続いているのだ……それを知った私は、気まずい思いで伸ばしかけた手を戻す。

 鉄砲塚さんは様子を窺うように、ゆっくりとその大きな目を開くと、私を疑って目を閉じたことを恥じるかのように、不自然な、ぎこちない笑みを浮かべた。


「ア、アハハ……ブチョーが手を伸ばしたから……ちょっとビックリしちゃって……」

「…………」


 私が彼女をこんなにも傷つけてしまったのだという事が、今更のように心に重く伸し掛ってきて……引っ込めた右手を……後悔を噛み締めるように、固く握る。

 けど、私がここで挫ける訳にはいかない。私は彼女に笑顔を取り戻すと、円妙寺さんに……ううん、自分自身に誓ったのだから。

 ベッドの上に置かれた、鉄砲塚さんの原稿に左手を伸ばす……そう、この『片恋』に誓ったんだから。

 私の動きに気が付いたのか、鉄砲塚さんの目が、私の左手の先にある原稿へと向けられた。それが何か分かったようで、彼女の大きな目が更に大きく見開かれる。


「あ!!ブチョー、それ……なんで持って……?」

「……あ、うん。これね、実は部室に……」


 説明しようとした私の目が、今度は大きく見開かれる番だった……ついでに言うと、あまりの衝撃に、あんぐりと大きく口も開かれたんだけどね。

 何故なら、信じられない、としか言いようがないんだけど……私の目の前で、あの鉄砲塚さんが……厚顔無恥、情欲過多、破廉恥上等な、あの鉄砲塚沙弥さんが、だ。

 耳まで真っ赤にして、両手で顔を被っていたから―――。

 えっと……これって恥ずかしがってるんだよ……ね?確かこの子、私のベッドに下着姿で潜り込んで来た時もここまでの反応は見せてなかった筈だけど……。

 ま、まあとにかく、話がこの原稿に向いたのは好都合だったわ。


「つか……ブチョー……それ……読みました?」

「うん……読ませてもらったわ。それでね―――」


 私の言葉を遮り、彼女は顔を被ったまま、キャーッ!!と叫んでそのままベッドに仰向けに倒れた。そのまま両足を上下にバタバタと動かし、左右に身体をゴロゴロと転がす。

 な、何急に?な、何があったっていうの!?


「ど、どうしたの!?鉄砲塚さん!?」

「あああ……そっかあ……読んじゃったんですね………」


 はあ、と観念したかのように溜息をついて、鉄砲塚さんは顔を被っていた手でそのまま両頬を挟み込む。

 そこに浮かんでいたのは、今までに見たことのない表情で……変な言い方かも知れないけど、鉄砲塚沙弥っていう『女の子』の顔だった。―――今まで鉄砲塚さんの事を、グラビアモデルみたいだ、とか、美人だ、って思ったことはあったけど……私はこの時、初めてこの子の事を、可愛い、って思ったからそう感じたのかもしれない。

 そう意識した途端に、私の胸が、ドキッ!と高鳴る。ななな何よ、今の……?


「ホッペタ熱い……ここまで恥ずかしいの……あたし生まれて初めてなんですケド……」


 私はベッドに置かれている、鉄砲塚さんが中学生時代に書いたというその作品を手にとった。

 ……あなたが普段書いてる原稿の方がよっぽど恥ずかしいと思うわよ。私は今までの鉄砲塚さんの書いた作品の中で、一番良かったけど……やらしいシーンもなかったしね。

 それに何より、登場人物の―――これを書いた鉄砲塚さんの気持ちが、痛いくらいに私の心に伝わってきたし。




『片恋』―――その物語は、主人公『あたし』の視点で綴られる、彼女の初恋の、そして片思いの物語。私小説、って言ってもいいかな。

 中学三年生である主人公が、春夏秋冬の季節ごとに発行されている文芸誌を求め、友人と連れ立ってとある高校へと出かける。そこで『あたし』が、ヒロインである『彼女』の書いた作品に触れた事から物語は始まっていく。

 鉄砲塚さんはベッドから身体を起こすと、淡々と語りだした。


「……去年の春でした。チョード一年前なんですケド……あたしが『文章のサンコーに!』って言うリョーコと一緒に、清潤女子文芸部の……百合部の季刊誌をもらいに行ったのは」


 『彼女』が書いた作品は……今まで過激な作品ばかり読んできた『あたし』の目には、素朴だけど、斬新に見えて……何より、今までに触れた事のない優しさが感じられた。

 その作品を読んだその日から―――『あたし』は会った事のない、『彼女』の事を想い慕うようになっていく。


「あたしは……自分で言うのも何なんですケド、ケッコー器用な方だと思うんです。どんな文章でも、それなりには書けるって自負してます。文章以外でも、スポーツだって勉強だってそうなんですケド」

「それなりって……あれだけの引き出しと腕を持っててそう言われると……わ、私の立場が無いんだけど……」

「ケド―――絶対に書けないって思う文章もあるんですよ、ブチョー」


 そう言った鉄砲塚さんの口ぶりが淋しそうだったのは、恐らく私の気のせいではなかっただろう。


「あたしは、子供の頃から一人で家に居た事が多かったせいかな……優しくて温かい話が、書けないんです」


 『彼女』の書いた物語は、その人柄が伝わるように、温もりがあって、まるで童話のようだった、と作中の『あたし』の台詞にもあったっけ。

 そして『あたし』は、秋を心待ちにするようになる。秋になれば、学園祭があるはずだから。そこできっと、『あたし』は『彼女』に出会える筈だ。夏の季刊誌を読みながら、『あたし』は待つ。話したことも、会ったことも、見た事すらない『彼女』に出会う、その時を夢見て。

 やがて訪れる秋――――『あたし』は待ちわびた学園祭で、初めて『彼女』を目にする。何故だか分らないけど、周囲の人間に聞かずとも、すぐに『彼女』が誰だか分った。『あたし』が思っていた通り、ちょっぴり子供っぽかったから。


「色んな意味で酷いんだけど……確かに私は子供っぽいし、そのせいか書いてる作品もメルヘンぽいって言われるけど……」

「それだけじゃないですよ。初めて見たブチョーは……書いてる作品のまま、優しくて、温かそうでしたモン」

「私は別にそんな――――」


 言いかけて、再び右手を握り締める。そうだ。私はそんな優しい人間じゃない。だってあなたを傷つけたんだから。

 そして、『あたし』はそこで憧れの『彼女』に出会うと同時に―――『彼女』にもまた想い人がいた事を思い知らされる。『彼女』の、幼い外見とは裏腹に、意思の強さを感じさせるその一途で真摯な瞳は、常にその人を追い、結構目立つ存在である筈の『あたし』の方に向く事はなかった。

 傷心とともに寒い季節がやってくる……でも『あたし』は諦めず、冬の季刊誌を読みながら、心に一つの決意を刻み込む。

 『あたし』も、『彼女』と同じ高校に行って文芸部に入ろう!『彼女』が『あたし』に、文章を通じて温かさをくれたのなら……『あたし』もまた、文章で『彼女』に想いを伝えよう!


「コザカシーとは自分でも思うんですケド……でも、『彼女』があたしに与えてくれたように、あたしもまた……『彼女』に……ブチョーに対してそうしなきゃ……フェアじゃない、って思ったんです」

「……変なとこで意地っ張りなんだね……鉄砲塚さんって」


 今なら、この子がどうしてあそこまで白峯先輩を敵視してたか分かる。そして私が先輩に彼女の作品を読ませた時にあそこまで怒ってたのかも―――想い人へのラブレターを、その恋敵に読まれたら、そりゃあ、ね。

 それから、彼女が何で白峯先輩に―――私に真実を告げるように迫ったのかも。


「………あたし、白峯センパイはキライです」


 私の考えを読んだかの様に、鉄砲塚さんはそうポツリと呟いた。


「そう?でも、なんだか白峯先輩は鉄砲塚さんの事、何となく気に入ってたみたいだけど?」

「ジョーダンじゃないです!!つかあたし―――」


 そこで一瞬言葉を切って、鉄砲塚さんは私の方へ気遣わしげな視線を寄越す。


「あたし―――姉が一昨年の清潤の卒業生だったから……聞いてました。白峯センパイの心には、もう……」

「ん……そうだったんだね……」


 だからあの時、鉄砲塚さんは、私の想いを断ち切ろうとしてくれたんだよね……。そう思って、ちょっとだけ哀しい気分になりながらも、私は彼女に笑って見せた。

 涙は……別れの時と同じように、またしても不思議と出はしなかった。それに、鈍いって常日頃皆に散々言われる私にも、それくらいは分かってたもの―――白峯先輩の書かれた作品も、鉄砲塚さんとは違う意味で、あの少女に捧げられたものだったんだ、って事が。

 もしかしたら、だけど……白峯先輩と鉄砲塚さんって、どこか似てるのかもしれない。外見も性格も、それこそ「氷と炎」みたいに違うのにね。同属嫌悪ってやつかな?まあそんな事言ったらまた鉄砲塚さんは嫌がりそうだけど。


「ケド……計算違いだったのは……ブチョーがちっともあたしの作品を読んでくれない事でした」


 鉄砲塚さんは失望したように肩を落すと、チラッと、今度は呆れたような視線を送り付けてくる。


「あのねえ……大体、読ませようと思うならもう少し、そ、その……や、やらしい描写を少なくするとかあるでしょ?」

「あたしはああいうのが得意分野なんです。だったらそれでショーブするのはトーゼンじゃないですかあ。ブチョーだっていっつも手を繋ぐか繋がないかって話を書くでしょ?それと似たようなモンですよ」


 ちょ、ちょっと、私のポリシーをあなたの、や、やらしいのと一緒にしないでよ!!前にも話したと思うけど、私的には手を繋ぐという行為は百合の真髄であり、信頼しあった者同士、互いの心を繋ぐってもの凄く重要な意味合いがあって……!!

 ううん、それだけじゃなく、私にとってその行為は、神聖な儀式と言い換えてもいいくらいで……手と手を繋ぐ事で、二人の絆も固く結ばれるっていう意味も含まれている。だからこそ毎回それを最後に持ってくるようにしてるのよ?

 お、大袈裟に思われるかもしれないけど、心から大切に想う特別な人としか手は繋がないって、私自身、密かに決めてるんだから!!

 再びここで持論を展開してやろうか、と居住いを正した私を他所に、鉄砲塚さんは、やれやれ、という風に肩を竦めると頭を掻いて。


「……最も、読んでくれても気が付くのに時間掛かったみたいですケド……ブチョー、ドンカン過ぎます」

「鈍感過ぎって……そりゃあんな抽象的な人物描写じゃ気が付かないわよ!?」

「そのものズバリじゃカッコワルイじゃないですかあ。リョーコ風に言うと、ブスイ、ですよ。無粋」


 こうして物語は、季節が再びの春を迎えつつある中、『あたし』が『彼女』の在学する高校に合格したところで終わる。

 ……違うな。『片恋』という物語は終わるけど、ずっと続いているんだ。今、私達がいるこの瞬間まで、ずっと―――タイトル通り、『片恋』のままに。

 鉄砲塚さんは、私の手から原稿を取り上げて、その胸に大事そうに抱いた。


「これは奥の手、だったんです。……もしどうしても、ブチョーが読んでも、気がついてもくれない時はって……実際切羽詰まってましたケド。舞台も身近なガッコにしたり、色々工夫したのに……」

「……そうか、それであの時『まだ』って……」


 『甘美に染まる放課後』を、私が最初に読まなかった時、鉄砲塚さんは確かにそう呟いていた筈だ。「これでも、まだダメなんだ」って……あの時、これを読ませることを決意したんだね。

 ずっとこうして私を想ってくれていた、彼女のその時のもどかしい気持ちが伝わったかのようで、チクッと胸が痛む。

 ……ごめんね、鉄砲塚さん。

 それともう一つ、謝らなきゃ。


「あー、まだホッペタ熱いんですケド……リョーコにそれ読ませた時だって、ここまで恥ずかしくなんてならなかったから、ダイジョーブかな、ってタカを括ってたの……に……?」


 握り締めていた右手を開き、ゆっくりと彼女に向かって再び伸ばす。

 その動きに、鉄砲塚さんは少したじろいだけど、私は彼女の瞳をじっと見つめ、声を出さずに『だいじょうぶ』と口を動かした。捨てられている子猫に話しかけるように、優しく。


「……鉄砲塚さん……その……ほっぺ……痛かったよね?」


 開いた掌で、出来るだけそっと、羽毛が触れるように彼女の熱くなった頬を撫でる。

 鉄砲塚さんは安心したようにちょっぴり微笑んで、私の手の甲に自分の左手を重ねてきた。


「……全然ヘーキです。あれくらい、痛くもなんとも無かったです」

「嘘……だって……鉄砲塚さん泣いて……」

「ブチョーのビンタより、佐久間センパイのジャンピングニーの方が遥かに痛かったですモン。あたしも負けじとドロップキックで応戦しましたケド」

「え……!?あ、葵とそんな闘いを繰り広げてたの……!?」


 技名を言われてもピンと来ないけど……と、とにかく凄そうだという事だけは伝わってくるわ……。果恵は何してたんだろう?レフェリー?

 鉄砲塚さんの左手が、頬に当てられた私の右手を包み込むように静かに握り、そのまま彼女の胸へと誘導する。掌に押し当てられた胸の柔らかさと、微かに伝わる彼女の鼓動。


「でもショージキ、佐久間センパイにされたどんなコトよりも、もっともっと、ずっとずーっと……」


 小首を傾げて、鉄砲塚さんは今度は寂しげに微笑んだ。


「……ブチョーにダイキライって言われた事の方が……痛かったです」


 その言葉を聞き終えた瞬間、私は思わず彼女の首に手を回し、自分の胸へと抱き締めていた。

 目に熱が集まるのが分かる……白峯先輩との別れの時にも泣かなかったのに……堰を切ったかの様に涙が湧き出てくる……まるであの時から溜めていたものを全て吐き出すみたいに……やだな、やっぱり私、泣き虫だ……。

 頬を伝い、涙が鉄砲塚さんの髪まで濡らしていく。最初は水滴の様に、やがては土砂降りの様に。

 彼女の茶色い髪が涙の溢れた箇所だけ濃い色へと変わっていく光景を、私は潤んだフィルター越しに見つめ続けた。


「……ごめ……ごめん…ね……鉄砲塚さん……ごめん………」

「……ブチョー……あたしの方こそ謝らなくちゃ……」


 鉄砲塚さんは顔を胸に抱き抱えられたまま、私の背中に手を回すと、子供をあやすようにして静かにさすってくれて……私の方が先輩なのに……部長なのに……みっともないって思うのに……。

 でも、止まらなくて、止められなくて。


「……鉄砲塚さんは……悪くないよ……ごめんね……私の為にしてくれ……たのに……ぅく……泣いちゃってるのも……ごめ…ん……」

「……好きなだけ泣いていいです。こうやってカノジョが泣き止むまで一緒にいてあげるのも……恋人としての大切なギムですモン」

「……ばかぁ……こんな時に……ふざけないでよぉ……」

「……ちっともふざけてないんですケド……つか、あたし今ウレシーんです」


 背中に回された鉄砲塚さんの手がさするのを止め、ぎゅっと私を抱き締め返してきた。


「―――ずっとあたしが心に思い描いてた通り、やっぱりブチョーは……優しくて、温かい人でした」


 鉄砲塚さんの心を濡らす涙まで、代わりに流し尽くそうとする様に、私の涙は更に勢いを増していった。




 どれくらい経ったのだろう。私が泣き止むのを待って、鉄砲塚さんが身体を起こした。そのまま傍に寄り添うようにして、私の眼鏡を外し、目尻の涙を指で拭ってくれる。

 私はといえば、涙は止まったものの、両手を腿に挟んで、肩を嗚咽に上下させて……鉄砲塚さんに泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、ずっと黙って俯いたままで。

 だ、駄目だなあ……私は鉄砲塚さんの涙を止める為に彼女に会う予定だったのに……これじゃあまるで逆だよね……円妙寺さんにあれだけ大見得切ったのに……。

 けど、ここからは―――彼女が提出した退部届けをしまってある制服の左胸ポケットの上から、決意を固めるように右手で握り締めると、私は真剣な表情で、右隣に座る彼女の顔を見上げた。


「あ、あのね、鉄砲塚さん……茶化さないで聞いて欲しいんだけど」

「?なんですか、改まって?」


 私は彼女の肩に両手を置き、下を向いて一度呼吸を整えた。

 それから―――……一言一言ゆっくりと、思いを込めるようにして、話し出す。


「――――文芸部辞めちゃ……やだよ、鉄砲塚さん……」


 声が震えてるのが自分でも分かる……や、やだな……なんか緊張してるのかな。

 それでも……ここで言葉を止める訳にはいかない。彼女に伝えたい事を伝えるまでは、絶対。

 ごめんなさい、って謝るだけじゃなくて。辞めないで、って引き止めるだけじゃなくて。

 私が心から、彼女に伝えたい想いを伝えるまでは―――。


「……ブチョー?辞めるって、あたし―――」

「………お願い、今は黙って最後まで聞いてて」


 鉄砲塚さんの不思議そうに問い掛けてくる声を、強めな口調で押さえ込み、私は言葉を紡いでいく。


「―――ね、鉄砲塚さん。これはね、我儘だって……自分でも分かってるの。あなたを傷付けて、追い詰めてしまったのは私なんだもの……」


 彼女の肩に置いた私の両手に力が入る。


「……だから、私にはあなたを引き止める権利なんて……本当は無くて……文芸部部長としても……そ、その……あなたの想い人としても……失格だな……って……思うんだけどね……」

「ブチョー……」


 気付けば、いつの間にか私の指は、鉄砲塚さんの肩にきつく食い込んでいた。

 痛いくらいだろうに、彼女は私の手を払いのけるでもなく、逆に、その上に胸の前で交差した自分の手を置き、勇気付けるように握ってくれる。


「……それでね……なんてあなたに言えばいいのか分からなくて……ずっと……悩んでた……でも分かったから……あなたの書いた『片恋』が気付かせてくれたから―――」


 鉄砲塚さんの手が、温かい。

 今の私にとっては、彼女が温かいって言ってくれた私の作品より、何倍も。

 顔を上げて、鉄砲塚さんの瞳を見つめる。彼女の普段猫を思わせるその大きな瞳は、今は愛しい幼子を見るように細められていて。


「―――私も、『あたし』と同じ気持ちなの……鉄砲塚さんは自分の書いた物を褒めたりしないけど―――」


 そこで言葉を切って、思い切るように目を閉じ、深呼吸。

 そしてもう一度、目を開け、彼女の瞳を見据える。


「私は―――ううん、私も、好き。あなたが私の作品を好きになってくれたみたいに、私もあなたの書いた物語全てが、大好き。だからずっと、ずーっと、書いてて欲しい、読ませて欲しい。いつまでも―――」


 肩に置いていた手を離し、鉄砲塚さんの腰に回して、抱き締める。

 彼女の肩に顎を乗せて、耳元で小さく囁くように、私はもう一つだけ付け足した。


「いつまでも……私の傍であなたの物語を作っていって欲しい……」

「…………」


 それが、私が鉄砲塚さんに伝えたかった、私の心からの、偽りない本当の想い。

 鉄砲塚さんもまた、無言で私の身体に手を回し、お互いの体温を更に感じ合おうとするように、強く強く抱き締め合う。

 でも、どんなに力を込めて抱き締め合っても、不思議と苦しくはなくて……心が優しくて、甘い気持ちで満たされていくのが自分でも分かる。

 そして……また私の胸が鼓動を早めている事も……。う……これ、き、気付かれてるよね……だって…その……む、胸の大きさがここまで違うのに、私にも鉄砲塚さんの心臓の音、しっかり伝わってるし……。

 そんな事を考えてたら、鉄砲塚さんが小声で尋ねてきた。


「………ところで……辞めるって何のコトですか?」


 え!!!???

 私は思わずバネ仕掛けの玩具みたいに、跳ね上がるようにして彼女から身体を離す。

 ててて、鉄砲塚さん……いいいい、今何て……!!??だだだ、だって退部届……!!??鉄砲塚沙弥って確かに……!!??わわわわ、私の知る限りでは、他にうちの部に鉄砲塚沙弥って人は居ないよね!!??


「黙ってなさいって言われたから黙って聞いてましたケド……?」

「ななな、何の話って……」

「つか、あたしの方もブチョーに伝えたいコトがあるんですケド……今日はそのタメに来たんです」


 伝えたい事……?鉄砲塚さんが私に……?


「……ブチョー、文芸部の部長を辞めて、作品を書くのまで辞めるなんて……言わないで下さい」

「は、はあ!?わ、私が!?て、鉄砲塚さん、何を―――」

「あたしも―――『片恋』に書いた通り、ブチョーの書く作品、大好きです。ずっとずっと読ませて欲しい……」


 そう言った鉄砲塚さんの唇が僅かに震えている――そうか、彼女もまた、私の事を心配して、引き止めようとしてくれてたんだ。

 それにしても……私、部長や執筆作業を辞める、とか言った覚えは全く無いんだけどなあ……た、確かにその……原稿は真っ白なままだから、そう誤解されてもしかたない部分もあるけどさ……。

 けれど、私がそんな拗ねたような事を考えているというのに、鉄砲塚さんの顔は真剣そのものだ……また胸がドキッとする。またしても普段見た事のない、彼女の顔―――私の事を、本当に想ってくれている、その表情。


「それにあたし……ブチョーが部長でなきゃ、ヤです……だって」

「……だって?」

「……だって……その……呼びにくいですモン」

「プッ……」


 その言葉と表情のギャップに、私は思わず吹き出してしまった。な、何よそれ……私に部長を辞めて欲しくない理由って……そこ?

 口を掌で押さえて、くすくすと笑い出してしまった私に、鉄砲塚さんは不機嫌そうに、咎める様な口調で言葉を掛けてくる。


「つか……笑うってヒドイっしょ……あたしこれでもマジメに言ってんですケド……」

「は……はは……ご、ごめんね……だって……」

「もういいです!!シリマセン!!」


 頬を膨らませ、むう、っとむくれてしまった彼女を抱き寄せ、その額に、笑いながらも私は自分の額をコツン、と合わせた。


「……お互いになんか変な勘違いしてたみたいだけど……けど、ありがとうね、鉄砲塚さん。うん、私辞めないよ。大丈夫」

「……あたしも辞めません。ブチョーが部長でいる限り……傍に居てくれる限り、ゼッタイ」


 そう誓い合い、互いに微笑みを交わして、身体を……その……ほんのちょっぴり、名残惜しく感じながらも……離す。断っておきますけど、あくまでも、ほんのほんの、ちょっぴり、ね。


「……何もかも同じ気持ち、だったんだね。私達」

「……ですね。さすが恋人ドーシです」

「ちょ……そ、それは……あのね、鉄砲塚さん。いい機会だから言っておきますけど、私達は単なる部長と部員の関係で―――」

「違いますよ……だって、ブチョーもあたしの作品好きになってくれたんですよね?キスの時も、大好きで何度も読み返したって言ってたし」

「う、そ、それがどうしたのよ……?」


 そこも同じですモン、と言って、鉄砲塚さんはニコッと笑った。


「あたしも、ブチョーの作品が大好きで、何度も何度も読み返して、それで何時の間にか……あなたの事を想うようになってたんです」


 それは、いつもの彼女の陽気で、猫っぽくて、円妙寺さんが太陽に例えた通りの―――屈託の無い、雨上がりを思わせる、晴れやかな笑顔。

 その笑顔に確信した。今、やっとここに彼女は―――鉄砲塚さんは復活したんだ。炎を纏って何度でも蘇り、優雅に羽ばたく不死鳥の様に。


「――――大好きです、ブチョー」


 私は無言で鉄砲塚さんの身体を突き放し、ベッドにうつぶせに倒れ込んだ―――真っ赤に火照ってる顔を彼女から隠すように。

 ―――初めて、鉄砲塚さんの口から出た、私に対しての……「好き」という言葉に、胸がまた……ドキドキと鼓動を早めている。

 けけ、けどこれはその、けけけけ、決してときめき的なものでは無くて……意表を突かれたからとか、そういう仰天的な意味合いの方が強かったりして……その、所謂……なんというか……少しだけ……ときめいた部分も……あるかも知れないけど……。

 それにしたって自信過剰過ぎるわよ……実体験に基づいてるか知らないけど……何でもお見通しみたいにさ……年下の癖に……ううう……。

 と、部屋に響く、ぐぐ~……という音……私はベッドから跳ね起きて、その音の出どころ……つまり……恥ずかしいけど……お、お腹を押さえた。こ、こんな時に!!空気読みなさいよ、私!!遠出したりして空腹なのは分かるけど!!

 鉄砲塚さんはといえば、雰囲気が台無しになったからか、苦笑いを浮かべながら私を眺めている。


「……ブチョーってホントにコドモみたいですね」

「う、うるさい!!しょ、しょうがないでしょ!?私だって色々あって大変だったんだから―――」

「おねーちゃーん!!お母さんがご飯どうするのってー!!お友達も食べてくのかって聞いてるけどー!」


 タイミングのいい事に、階下から聞こえてくる早苗の声。鉄砲塚さんはその声に、壁に掛かった時計に目を走らせると、ベッドから腰を上げた。


「つか、もうこんな時間なんですね。そろそろオイトマしないと……」

「あ、待って……鉄砲塚さん。あのね、良かったらだけど……ご飯、ううん、今日は家に泊まっていかない?帰っても一人なんでしょ?」


 鉄砲塚さんの制服の袖を引っ張って、彼女を引き止める。その台詞と行動に驚いてたのはほかならぬ私自身だったんだけど……こないだはあんなに嫌だったのにね。

 けど今は、もっともっともっと、彼女と話したい。他愛のない事でもなんでもいいから、鉄砲塚沙弥って女の子の事を、私の知らない彼女の顔を、知りたい。


「ホントーですか!?ウレシー!!」


 私の言葉に、鉄砲塚さんは文字通り、飛び上がって大喜び。なんだろ……ここまで無邪気に喜ばれると、誘ったこっちも嬉しくなってくるわね……。 ―――しかし、鉄砲塚さんは、そう考えてる私の気持ちも知らないように、握った手を口元に当てて、ウププププ、という変な笑いをしながら言った。


「……てコトはアレですよねー?一緒にお風呂入って、嬌声を上げつつ泡まみれの秘所をまさぐり合ったりー、ベッドでは獣欲の赴くままに恥蜜を貪るように舐め合ったりー、あ、それからそれから……」

「ちょ……!!」


 前言撤回……こ、この邪気の塊め……!!私が知りたいのはあなたの内面であって、け、決して肉体ではないというのに……!!

 太陽みたいな笑顔が戻ったと思ったらすぐこれなんだから……打たれ強いというかなんというか……全くあなたって子は……!!そんなとこまで不死鳥のように完全復活しなくていいのよ!!


「そんな事絶対にしないわよ!!お風呂も別!!布団も別です!!」

「えー……だってそれも恋人としてのギム……」

「それはもういいから!!大体――――」


 言いかけて、ついさっき、抱き合った時に感じた彼女の感触を思い出す。なんとなく、今日は……あの感触を隣に感じて寝るのも悪くない、かな……。

 心を甘く、優しく染め上げていくような、あの温もりを。


「……分かりました。譲歩して、同じベッドで寝ることだけは許可します」

「やったあ!!ブチョー、服は!?どこまでなら脱がせていいんですか!?脱ぐのは!?」

「脱がせるのも脱ぐのもダメ!!あとお触りも禁止です!!」


 そんなあ……と悲痛な落胆の声を上げ、がっくりと力なく床に崩れ落ちる鉄砲塚さん。そ、そこまでショックだったんだ……まあ同情の余地は無いけど……。

 むむ……やっぱり早計だったかな……。額を指で押さえて、軽く後悔してしまう。寝てる間に……とかないよね……?


「……ブチョー、なんとかなりません?一緒に同じ布団で過ごす初めての夜、ツマリ初夜なのに何もかも禁止って……これじゃナマゴロシですよ、生殺し」

「……しょ、初夜じゃないし、なんともなりません!!もう!もっと他にあるでしょ?触れあうにしたって、そういった事以外で!!」

「例えば何です?まるで思いつかないんですケド」


 思いつかないって……この子は本当に何て言えばいいか……今までだって、キスして、ベッドに裸同然で潜り込んで、その癖やっとここに来て初めて自分の口で告白して……。世の中には段取りってものがあるでしょうに……。

 まあそれも……鉄砲塚さんらしいかな。マイペースというか……滅茶苦茶で……いつだって私の予想の範疇外で。

 けど、そうね……普通だったら、告白の次は例えば―――――………。

 私は顔を上げると、照れ臭さを誤魔化すように微笑んで、鉄砲塚さんにこう告げた。


「その―――手を繋ぐくらいなら……いいかな?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る