第三章 「――――――――――――   香坂史緒」

1 いなくなった鉄砲塚さん、と私

 彼女が私の前に姿を現さなくなって、今日で四日目になる。

 あれだけ私の周りを神出鬼没で縦横無尽に跳梁跋扈していた彼女……そう、これぞ世に言う鍋島家の怪猫騒動、じゃなかった、鉄砲塚さんの事だ。

 元々猫っぽい彼女の事だから、きっと気まぐれ気ままにそのうち部室に顔を出すか、私の家に押しかけてくるかと思っていたのだが、そんな事も今のところ無く、至って平和。

 私もすっかり日常を取り戻し、文芸部の部長として辣腕を振るう毎日だ。やれ忙しいったらありゃしない。東にサボる葵がいれば叱咤し、西に真面目な果恵がいれば激励し、今日も今日とて季刊誌の編集。

 ああ、全く猫の手も借りたいくらいだわ……全くもう……もう何で……何で顔出さないのよ……猫っぽい癖に。来て欲しくない時は来る癖にさ。

 そんな事を考えながら、私はふと猫の手ならぬ自分の右手を見た。彼女を叩いてしまった、この手を。


「コラ!史緒!!サボってないでちゃんと手を動かせよ!!」


 机に頬杖をついて自分の手を眺めていた私に、葵の怒声が飛んでくる。く……想像では私に叱咤されてた分際で……!!次に想像するときは覚えてなさい!!などと考えるのも何やら悲しいものがあるので、私は渋々備品のノートパソコンを開いた。

 一日の授業を終え、放課後を迎えた清潤女子高等学園、文化棟四階。いつもの文芸部部室。私は部長用の机に座って、季刊誌についてのある事で頭を抱えているところ。

 同じく部室のソファに座って、私に偉そうに声を掛けた副部長の葵はといえば、他の作品の校正中。時は二十一世紀、デジタル全盛のこのご時世だというのに、手作業であれこれやっているのは由緒ある我が文芸部の古くからの習わし、って訳でもなくて、単にアナログ入稿の方が近所の印刷所さんでの印刷代が安いからだ。

 今日は四月二十四日、火曜日―――葵がピリピリしてるのは、大雑把な性格故に細かい作業が嫌い、というだけではなくて、いよいよ締め切りもギリギリまで迫ってるというのに、この期に及んでまだ上がらない原稿があるからだった。

 やれやれ、困ったものだわ。こういうところで人間の器が知れるのよね、やっぱり心に余裕を持たなきゃ、などと思いつつ、私は最初の一行もまだ書き出していない、モニター上の真っ白な自分の原稿を眺める。要するに、これが原因で頭を抱えてた訳で……うーむむむ……浮かばない……。

 最近色々あったから全然書いてなかったどころか、アイディアすら練ってなかった……まあ色々といっても主に鉄砲塚さん絡みなんだけどね。き、キスされたり、ベッドに潜り込まれたり、変なサンドイッチ食べさせられたり。

 それと―――彼女を泣かせてしまったり。

 あの後、ボロボロとその瞳から大粒の涙をこぼし、彼女は走り去ってしまった。

 私は……その後を追いかけることが出来なかった。自分のしてしまった事が信じられずに、ただ呆然と鉄砲塚さんの後ろ姿を見送るだけで。


「彼女を許してあげてくれ、香坂くん」


 別れ際、新幹線に乗り込みながら、気のせいか、いつもより柔らかな口調で白峯先輩はそう言った。


「許すも何も……私より白峯先輩にご迷惑を……」

「ああ、私の事は気にしないでいいよ。むしろ、なんだろうな、彼女には……」

「彼女には?」

「いや、長くなりそうだ。落ち着いたら君にはメールをするとしよう。早く鉄砲塚くんと仲直りできるように祈ってるよ」


 何やら思わせぶりなことを言いかけた白峯先輩と、傍らに佇む少女の二人を乗せて、新幹線は行ってしまった。もう私の手の届かない遠くへと。

 その最後尾の車両が、視界の遥か遠くに消え去るのを見届け、私は一人、乱暴な駐車をしてしまったせいでパンクした葵の自転車を引っ張って、学校へと戻った。

 ―――回想していた私を現在に引き戻すかのように、またしても葵の厳しい声が部室に響く


「ホラ、また手が止まってる!!」

「分かってるよ……ちぇ、こないだはあんなに優しかったのに…」

「あれは特別……大体、あんたに貸したせいで、あたしの自転車、パンクどころか傷だらけなんだからな!!しかも暴れまくる鉄砲塚を押さえ込んでたおかげで、あたしの身体まで生傷だらけだ!!」

「あ……ごめん……」

「ごめんで済むか!今度のお小遣いで修理代弁償するって話、忘れるなよ!?」

「うん……なんなら治療費も払うよ……痕が残っちゃったら大変だし……」


 それにしても……男兄弟に散々揉まれて生き抜いてきた葵を以てしても鉄砲塚さんを止められなかったなんて……。一体あの子はどんな環境で育って来たんだろう……。

 なんとなく野良猫と縄張り争いを繰り広げる鉄砲塚さんの姿を想像してしまう……。彼女のバイタリティなら、ボス猫にだってきっとすぐなれるよね。

 脱線してぼーっとしてる私に、葵が煮えたぎる感情を押し殺した様な、低い低い声で言った。


「……もし痕が残ったら、史緒に責任取って嫁にもらってもらうからな……!!」

「あ……そ、それもその……それだけは本当に……ごめん……です」

「真顔で拒否するなよ!今度はあたしの心が傷つくだろ!もういいから早く書け!!」


 叱られながらも、ああこの葵は紛れも無く本物なんだ、良かったような悪かったような、なんて思ってみたり。も少し優しいままでも良かったかな?

 学校へ戻った私を、果恵も葵も優しく慰めてくれた。二人が言うには、私がきっとボロボロ泣きながら帰ってくると思ってたんだって。

 果恵なんかは、もう心配してずっと泣きまくっていたらしく、五限目の授業に遅れて教室に入った時、私に飛びついてきそうなくらいだった。

 休み時間に教室に顔を出した葵も、目にうっすらと涙を溜めて、無言で私の頭をクシャクシャと撫でてくれて。

 けど、三人の中で一番弱虫で、子供扱いされてて、すぐに泣いてしまう、当の私はといえば、だ。

 不思議と泣いてはいなかった。

 あれだけ想い慕っていたはずの白峯先輩が遠くへと行ってしまったというのに。その事よりも、私の頭の中は別の事で一杯だった……ううん、今でも一杯なのだけど。

 パソコンのキーボードに指を乗せた自分の右手。その掌にはまだあの時の感触が残っている―――叩いた彼女の頬の感触が。


「……ね、葵……て……鉄砲塚さんの事なんだけど……」


 顔を上げ、ソファに座る葵に恐る恐る話を切り出す。そんな事より手を動かせ!!って怒られそうだからね。

 その予想に反して、葵は原稿をチェックしていた両手を止めると、無言でソファにもたれ掛かり、目を閉じて頭の後ろで組んだ。

 それが、話してもいい、の了承のサインだと思った私は、出来るだけ慎重に言葉を選び、ゆっくりと口を開く。


「そ、そのね……あれだけ頻繁に部室に来てたのに、それがぱったり止んじゃうなんて、も、もしかしたら何かあったんじゃ、って……し、心配だよね?」

「別に」


 こ、怖い……不機嫌そう……取り付く島もない、って感じだわ……。な、なんだか、いつ爆発するか分らない爆弾を相手にしてるような……。

 それでも決死の覚悟の爆発物処理班宜しく、私は彼女に食い下がる。さて……切るコードは青か赤か……!!


「ほ、ほら!な、なんか最近風邪が流行ってるらしいし、さ?き、気になるじゃない?だから様子を見てきてほし――――」

「馬鹿は風邪引かないだろ」

「う……じゃ、じゃあ車の事故に巻き込まれたとか……そ、それで怪我とかしちゃって入院……」

「ぶつけた車の方が心配だよ」

「うう……そ、それならい、いきなり超常的な百合力に目覚めて、日夜、悪の百合組織と伝説の鉱物『ユリハルコン』を巡り、熾烈な戦いを繰り広げて……」

「……今書いてるのがそんな原稿だったら書き直させるからな」


 ううう……青赤のみならず黄色いコードまで切ったのに……じゃあ次は……と考え込んでしまう。こ、これ以上ネタを思いつかない自分の引き出しの少なさが憎い……!

 私が自分の文章書きとしての才能についてまで思い悩み始めたというのに、葵はもうこの話は沢山、という風に肩を落とすと、大きく息を吐いた。


「……何にしても、だ。あたしは知らんよ、あんなトラブルメーカー」

「と、トラブルって!そ、そりゃあそんな事……あるけど……」

「大体さあ、そんなに気になるなら自分で一年のクラス見に行くか、あいつの家まで行きゃいーでしょ?」

「……そ、それはその……そうだけど……」


 それが出来たらこんなに悩んだりしてないよ……だって……あの子を傷付けちゃったのは……この私なんだし……。それにさ……。

 ―――何てあの子に言えばいいのか、全然分からなくて。

 叩いてごめん!だけじゃ違うと思うし、私は気にしてないからね、は嘘だし……いつもみたいに私にまとわりついてよ!はもう色々とおかしいし。

 右手の甲に彼女の泣き顔が重なる。あの私に対して傍若無人、常勝無敗、迷惑千万の鉄砲塚さんが泣くなんて……考えたことも無かったな。

 それでもきっと次の日には、キスの時みたいに、何食わぬ顔で陽気に私の前に現れてくれる筈って……そう心から願ってたけど。


「あのなあ……史緒は腹が立ってないのかよ?あいつに白峯先輩との最後の別れを邪魔されたんだよ?」


 一応、葵にもあの時の話はしてある。最も、鉄砲塚さんを私が叩く原因になってしまった発言は、その……濁して伝えたけど。

 葵の方も、気弱な私が手を上げるなんてよっぽどの事があってだろう、と理解してくれたようで、その発言についてはそれ以上は言及してはこなかった。


「邪魔……うん、それはそうだけど……」

「あたしはもう話を聞いてただけで腹が立つね。どんだけ好き勝手やるつもりだよ、あいつ」

「好き勝手って……ま、まあその……私も好き勝手色々……そ、その……パンツで遊ばれたりした部分もあるんだけど……で、でもね……」

「とにかく、あたしは知らん!以上、この話は終わり。いいね!?」


 ドン!とテーブルを握った手で叩いて、一方的に話を打ち切ると、再び葵は原稿の校正作業へと戻る。

 こうはっきりと断言されてしまったら、私もこれ以上葵に相談することも出来ず、溜息をつきつつ、再びノートパソコンに向かった。


「ただいまぁ。美術部の子にお願いしてた挿し絵のサンプル、もらって来たわよ」


 部室の気まずい静寂を破るようにドアが開き、胸に大きめな茶封筒を抱えた果恵が姿を現す。

 あ!そ、そうだ!葵が駄目でも、きっと果恵なら私の相談に乗ってくれる筈!だって文芸部の聖母だもんね!!

 私は椅子から立ち上がると、机を回り込んで、入口に立つ果恵へと救いを求めるようにして縋り付いた。


「ね!果恵!!ちょっと私の話を聞いてほしんだけど――――」

「あらあら、なあに?史緒ちゃんってば甘えちゃって。わたしで良ければ何でも聞くわよ?」

「さっすが果恵!!あのね、実は――――」

「―――ただし、沙弥ちゃんの事以外なら、ね」


 彼女はにこやかな笑顔を浮かべながらも、私の話を牽制する。か、果恵までそんな事言うの……?

 そのままずるずると床に崩れ落ちる私を尻目に、果恵は葵の向かい側のソファへと腰を下ろして、ふう、と疲れた様に自分の肩を揉んだ。


「言っときますけど、わたしだって沙弥ちゃんについては怒ってるんだからね?わたし達の大事な史緒ちゃんを振り回して」

「振り回しって……そ、そりゃその……私も確かに振り回されて……無理やり朝から、ち…恥辱的な仕打ちを受けた部分もあるんだけど……で、でも―――」

「……だけど、どうしても史緒ちゃんが気になるっていうのなら、一つだけ、情報があります」

「!!じょ、情報って、て、鉄砲塚さんの!?」


 急いで果恵の横へと回り込み、お菓子をせがむ子供のように、床に膝立ちして彼女の制服の二の腕の部分を両手で引っ張る。

 果恵は、そんな私の様子を見て、ちょっぴり悲しそうに眉を曇らせると、制服の胸ポケットから、小さく折りたたまれた一枚の紙を取り出した。

 それを私に手渡して、期待を裏切った事を詫びるような、重たい口調で彼女は言った。


「………史緒ちゃんにって。さっきそこで会った一年生の子がね、沙弥ちゃんに頼まれたんだって」

「鉄砲塚さんに?なんだろ、自分で持って来ればいいのに………?」


 言いながら私はその紙を広げる……鉄砲塚さんの事だからな……もしこれが彼女の方は捺印してある婚姻届だってビックリしない覚悟をしとかなきゃね。

 パッと開くと、目に飛び込んでくる、鉄砲塚沙弥の名前と拇印。ホラね、やっぱり。それにしても、鉄砲塚さんって結構達筆なんだ。でもこの流麗な文字は、何か彼女のイメージと違う……今までプリントアウトした原稿しか見たことがなかったから、意外に感じてしまってるのかな……完璧超人なのは分かってるけど……なんかこの文字には違和感が……??

 けど、視線を移したその署名の上には、婚姻届どころか、私の予想を遥かに越える衝撃的な事が書いてあった。


「―――退部届………!?」


 嘘……何で……?そ、そりゃ、どうして鉄砲塚さんみたいな子がこの部にいるんだろう、って何度も疑問に思った事はあったけど……でも……突然……!

 ううん、本当は分かっている。彼女にこれを書かせてしまったのは、私だという事が……私が彼女を傷付けてしまったのが原因だという事が。


「本人はよっぽどここに顔を出したくなかったんでしょうね……」

「ふーん、ま、良かったんじゃないのか?あいつなら運動部でも引く手あまた、ってとこだろうし」


 すぐ傍に居るはずなのに、今の私には葵と果恵の声がどこか遠くの方から聞こえてくるみたいに感じて……ただそのまま、ぺたん、と床に尻餅をついたように座って、手にした退部届を見つめ続ける。

 ……どうしよう……どうしたらいいんだろう……私……彼女になんて言えば………。


「おい、史緒!もう鉄砲塚の事はいいだろ?席に戻って原稿書けって!!」

「そうね、もう締切りまで時間もあまり無いんだし……まさか部長の作品が未掲載って訳にいかないものねぇ」

「……なんで……何で二人ともそんな風に言えるの……?割り切れるの……?鉄砲塚さん……辞めちゃうんだよ……?引き止めようとか……思わないの……?」


 二人の言葉に、私は思わず小さく言い返していた。

 その言葉を優しくたしなめるかのように、果恵が私の頭にそっと手を置く。


「だって、これは私達の関与する問題ではないもの。これはね、部長として……ううん、史緒ちゃん個人として、一人でどうにかしなくちゃいけない事」

「……どうにかって……どうも出来ないよ……だってこうなったのは私が原因で……」

「ああもう!!まどろっこしいんだよ、あんたは!!」


 葵は焦れたように言って立ち上がると、グイッと私の襟元を掴み、思い切り引っ張った。


「こないだの威勢はどこ行ったんだよ!?鉄砲塚を止めたきゃ自分で止めな!白峯先輩と違って、あいつはどっか遠くに行く訳じゃないんだから!!」

「だって……だって……私はあの子になんて言ったらいいのか……分からないし……」

「そんな事くらい自分の頭で考えろよ!!何かあるだろ?あいつに心から伝えたい事くらいは!!」

「……伝えたい………事……?」


 私が彼女に、鉄砲塚さんに心から伝えたい事……。

 考えを巡らす私の襟を、呆れたように突き放し、葵はドスドスと足音も荒くドアへと向かうと、果恵へと振り返った。


「もういい!果恵、史緒は放っておいて何か買いに行こう!イライラしたらお腹が減った!!」

「あら、葵ったら。こないだまでダイエット中、とか言ってた癖に。まあいいわ、あまり過保護過ぎても史緒ちゃんの為にならないし」


 葵の台詞に付き従うように、私を置いて果恵もソファから立ち上がると、ドアを出て行く。


「それじゃちょっと出てくるわね、史緒ちゃん。一人でゆっくり考えてみてね?」

「そんな暇ないだろ、果恵。史緒!自分の原稿が進まないなら、せめて他の原稿の校正チェックぐらいしときなよ!?」


 葵はそう言ってテーブルの上の紙の束を指差し、バタン!!と苛立ちをぶつけるように激しい音を立ててドアを閉めた。

 一人部室に取り残された私は、のろのろと床から立ち上がり、ソファへと腰を下ろし天井を仰ぐと、退部届を片手に目を閉じる。

 鉄砲塚さんに伝えたい事―――葵の言葉を噛み締める。私が彼女に伝えたい、伝えなくちゃいけない事って、何?

 ……頬をぶってしまった事を謝るだけじゃなくて、文芸部を辞めないでってだけじゃなくて、本当に心から伝えたい事って……。

 考えがまとまらず、答えを見つけようとするように開いた私の目に、テーブルの上に重ねてあった、それぞれきちんと綴じられた原稿の束が映る。

 そうだ……せめてチェックしとけって葵に言われたっけ。考えながらでも、少しくらいは―――。

 そう思って、一番上に置かれた作品に手を伸ばし、ふ、と違和感を感じた……あれ?集めた原稿の中に、こんなタイトルあったかな?

 疑問を浮かべながらも、ある事に気がつき、私は慌てたようにその原稿を手に取って、一心不乱に読み進める。

 ―――その作品の表紙には、見たこともないタイトルと、小さく作者の名前が記されていた。


 『片恋   鉄砲塚沙弥』




 清潤女子学園を出て、私の家からはまるで反対方向に、川を挟んで徒歩40分弱程。小高い丘の上に建てられた瀟洒なマンション群。

 そろそろ日没も近くなり、徐々に薄暗さを増す中で、私は一人、部員名簿を頼りにして、鉄砲塚さんの住むマンションを探して歩いていた。

 葵と果恵、二人の帰りを待たずに、自分の作業も放ったらかしで部室を後にして来ちゃったから、あとで葵にまた叱られるだろうな、と頭の隅で考えつつも、キョロキョロと当たりを見回しつつ進んでいく。

 それにしても、鉄砲塚さんって、こんな遠いとこから私を迎えに来てたの?……電車に乗らない分まだ良かったけど……ここから私の家まで歩いたら一時間弱はかかるわよ?幾らあの子が健脚とはいえ……。

 ……でも、今なら分かる気がする。きっと、それでもあの子は私に会いたかったんだよね。

 鉄砲塚さんの書いた原稿を胸元にギュッと抱き締めて、とりあえず彼女の住んでいるであろうマンションの名前を探す。確かここら辺の筈なんだけどな……。

 と、私の目に、立ち並ぶマンションの中でも一際大きく、高級そうな立派な白い建物が飛込んできた。


「げ……じょ、冗談でしょ……?」


 ……美人で頭も良くてスポーツ万能、で、住んでるのがここって……家賃いくらするのよ!?な、なんかもう羨望とか嫉妬を通り越して呆れるしか……。

 アーチ状のゲートの横にある建物の名前を確認する。や、やっぱりここで間違い無いけど……ちらっと覗いたら……何?この敷地の広さ!私の家が駐車場だけで何十軒も建ちそうな……しかも駐車場に止めてある車もどれもこれも見たことないような高級そうなのばかりだし……外車と思しき物も何台か見受けられる……。

 うーん……家が離れてるせいもあってか、S市内にこんな高級マンションがあったなんて知らなかった……庶民派の私には縁がないもんね……。な、なんか気後れするなあ……。

 そ、そんな事言ってる場合じゃないんだ!雰囲気に飲まれてどうするのよ、史緒!!で、でも今更ながらに、鉄砲塚さんと携帯アドレス交換しなかった事が悔やまれるな……四六時中連絡、というか一方的なラブコールが来そうだったから……。部員名簿の住所録には電話番号までは載ってないし……何とか呼び出せないかな……は、入りにくい……。は!!もう飲まれてる!!

 荷物を地面に置いて、両手で一度頬っぺたをピシャン!と叩いて気合いを入れると、私は魔王の潜むラストダンジョンに挑まんとする勇者の覚悟で、表情も固く敷地内へと一歩足を踏み入れた。……傍から見たら何事かと思われるよね……要はただ部活の後輩の家を訪ねてやって来ただけなんだけし。

 それにしてもなあ……よく分からないけど、こんな立派なマンションなんだから、多分オートロックだったり、受付に管理人さんとか居たりするよね……むむむ……勝手が分らない……やっぱりどうにかして鉄砲塚さんに連絡入れてから来た方が良かったかなあ?


「……やっといらっしゃいましたか……少々待ちくたびれました……香坂部長……」


 唐突に掛けられたその台詞にビクッと身体を震わせると、私は声のした背後へと振り返った。

 ゲートのすぐ横、夕日で陰となった、建物と同じような純白の壁に腕組みをして寄りかかる、小さな小さな一人の少女のシルエット。

 そうだ、忘れてた!この子がいたんだっけ。どうしてここにいるか分からないけど、助かったわ―――。


「あ!ちょうど良かった、円妙寺さん。あのね、鉄砲塚さんの連絡先を―――」

「…………」


 私の言葉を無視して、無言で彼女は私へと敵意に満ちた視線を送ってくる……な、何!?葵ですら中ボスにしか感じられないような、こ、この迫力……!!魔王どころか、クリア後の隠しダンジョンに潜む真のラスボスみたいな風格は!?

 ちょ、ちょっと待って!!わ、私、あなたに何かした―――!?

 怯えてしまって言葉にならない私の問いに答えるように、細い目を更に細め、重々しく円妙字さんは口を開く。


「……言った筈です……あの子を……沙弥を悲しませた者は……誰であろうと許しはしないと……」


 その小さな体から、途方も無い威圧感を私に向かって放ちながら、彼女は私へと足を踏み出した。

 円妙寺さんから発せられるその圧力に、思わず私の全身が総毛立ち、彼女の歩幅の分だけ後退する。くく……私の方が年上だし、円妙寺さんは文芸部で唯一私より背の低い相手だというのに……!!


「……沙弥は私の太陽……その太陽を曇らせ……あまつさえ雨を降らせるなんて……」


 殺気、って言っていいんだろうな……を纏いながらも、哀しそうに、円明寺さんはそう言った。


「……かくなる上は……部長には然るべき報いを……受けてもらわねばなりません……」

「ししし然るべきむむむ報いってななな何!!??ぼぼぼ暴力は―――」


 あまりの恐怖に歯の根も合わないままで彼女に尋ねる。い、言っときますけど、私はこれでも、多少乱暴な扱いを受けるくらいは葵で慣れてるんだから―――!!ま、まあ実際に叩かれた事はそうないし、そんな事威張れたもんじゃないんだけど!!

 私の問い掛けに、円妙寺さんは三日月の様に唇の両端を持ち上げて、酷薄そうな笑みを浮かべる。


「……暴力……では…ありません……ただ……」


 手品のように、いつの間にか彼女の手に現れていた物に気がつき、私はゴクリ、と喉を鳴らした。そそそ、『それ』って……まさか……。


「……香坂部長には……女としてこの世に生を受けた事を……後悔する程の目に会っていただきますが………」


 『それ』は彼女の両手で左右に引っ張られ、薄い胸元でピシッ!と冷たく渇いた音を立てた。

 あ、ああ……そ、そうか……円妙寺さんといえば『それ』だったのよね……。ここに来て、私は彼女の書いた作品の事を思い出す。

 瞬きすら忘れて、私は『それ』に―――円妙寺さんの手にした、な、『縄』に目を奪われてしまっていた。

 で、でも、そんなのいっつも持ち歩いてるの……?だとしたら、割と厳しいって言われてる、清潤女子学園の持ち物検査によくも引っかからなかったものだわ……とか脱線してる余裕はなさそう!!


「まままま、待って!!いくら何でもさすがにそれは――――、というか、それ暴力じゃない!!」

「……暴力では無く……調教……それに痛いのは最初だけで……どちらかといえば快楽……」

「そ、そりゃその筋の人にはそうかもしれないけど!!わ、私にはそういう趣味は――――!!」

「……体験してみなければ分かりませんよ?……いずれにせよ部長は……常に責めを欲さずにはいられない肉体になり……性の無間地獄へと堕ちゆく運命……」


 ひいいいいい!!え、円妙寺さん、目が本気だ!!

 ま、まずいわ!!こ、このままだとなんだかよく分らないやらしい身体へと、つ、作り変えられてしまう!!

 けど、とりあえず逃げなきゃ、と踵を返そうとした私の耳に、円妙寺さんの呟きが飛び込んできた。


「……沙弥が泣いてるのを見たのは……私も初めてでした……」


 その言葉に、逃げようとしていた私の足が動きを止める。

 ……親友の円妙寺さんでも、鉄砲塚さんの涙を見た事……無かったんだ。


「……ですから……その何倍も…何十倍も……香坂部長に泣き叫んでもらわなければ……私の気が収まりません……」

「―――それで彼女の……鉄砲塚さんの降らせてる雨は―――止むの?」


 そう問いかけて、私は円妙寺さんに向き直った。

 私の様子が変わったのが円妙寺さんにも伝わったのだろうか、彼女は少し不思議そうな表情を浮かべた。


「……お逃げにならないんですか?……最も……逃げ切れるとも思えませんけど……」

「そうね……本当は凄く怖くて、今にも逃げ出したかったんだけど。でもね、思い出したから」


 本当はまだ足は震えてるし、円妙寺さんの静かな怒気に気圧されて、今すぐにでも腰を抜かして泣き出しそう。

 でも、逃げる訳にも、ここでへたり込む訳にもいかない。

 何故なら。

 円妙寺さんの昏い怒りに燃える瞳を真っ向から見つめ返す。


「……私は、鉄砲塚さんの涙を止める為に来たのよ」


 胸にした、鉄砲塚さんの原稿を握る手に力を込める。おそらくは、以前に鉄砲塚さんが私に読ませようとしていた、中学時代に書いたという彼女の処女作を。どうしてこれが部室に有ったのかは分からないけど……。

 私にだって正直言うと、鉄砲塚さんの涙を止められる自信なんてない。でも、一つだけ分かるのは、彼女にもしもう一度笑顔を取り戻せるとしたら、それは私だけにしか出来ないって事だ。

 ぶってしまったのが私だから謝らなきゃ、という事だけじゃなくて。部長だから彼女を引き止めなくちゃ、という事だけでもなくて。


「―――心から彼女に伝えたい気持ちを伝える為に、来たの」


 『片恋』―――これを読んで、その答えを見つける事が出来たから。


「……沙弥本人が……どうあっても香坂部長に会いたくない……と言ったとしても……?」


 円妙寺さんが、その幼い外見に似つかわしくない、地の底から響くような、低く、凄みの効いた声で言った。

 私は彼女のその台詞に、ゆっくりと左右に首を振る。


「それは嘘だよ、円妙寺さん。あの子は……鉄砲塚さんは、絶対にそんな事言わない」


 というよりむしろ、今だってきっと、あの子は私に会いたくて、猫の耳みたいなツーサイドアップを震わせながらうずうずしてる。

 散々迷惑かけられたりしたけど、ね。けど、今までの事だって悪気があった訳じゃなくて、全部彼女の、全力の、全身全霊の愛情表現だったって、今ならそう思えるから。

 それだけは私が自信を持って言える、鉄砲塚さんに対しての、私なりの唯一の、そして絶大な信頼。

 私の言葉に、ほんの少しだけ、円妙寺さんの目に灯る怒りが和らいだように見えたのは、気のせいだっただろうか?


「……そう……そうですね……沙弥は何があったとしても……それだけは……言わないでしょう……」

「……うん。だからね、お願い。鉄砲塚さんの連絡先を教えてほし―――」

「……一つだけ……お聞きします……」

「え?な、何?」

「……仮に会ったとして……もう沙弥を傷つけたりはしないと……約束できますか?」

「約束します。もうあなたの親友を―――」


 言葉を切って、私は優しく微笑みを浮かべる。


「―――私にとっても大切な人を、傷付けたりしないって」


 彼女の体から迸っていた威圧感が、す、と引いた。

 私の前に立っているのは、もうただの小さな女の子で、文芸部の後輩。そして私と同じように鉄砲塚さんの事を案じてる、彼女の優しい親友。

 円妙寺了子さんは、小さく小さく、笑った。


「……少しだけ……安心しました……」

「良かった……じゃあ早速だけど、鉄砲塚さんの連絡先を―――」

「……申し訳ありませんが……私は沙弥の電話番号など……知りません……」

「え!?」


 何?どういう事!?だって親友なんじゃないの!?


「い、家じゃなくて、携帯の電話番号も知らないの??アドレス交換とか―――」

「……我が円妙寺家では……携帯などという無粋な文明の利器を持つ事を……良しとしませんので……」


 あー……なんかすごい説得力……円妙寺さんの家ってどういう感じか分からないけど、イメージ的に井戸とかあっても不思議じゃなさそうだもんね……。で、毎夜毎夜皿を数える声とか聞こえてきたり……は言い過ぎかな。

 そうなると……円妙寺さんに一緒に鉄砲塚さんの家に行ってもらうしかないかな……管理人さんやらオートロックやら何かあっても、彼女なら何度か来てて詳しそうだし……。

 そう提案しようと私が口を開きかけたところで、円妙寺さんは右手の人差し指を立てて、言葉を続けた。


「……そして……ここでもう一つ……残念なお知らせがあるのです……」


 円妙寺さんはマンションを見上げ、その手をそのまま動かすと、一室を指差した。

 私も彼女の視線につられて上を見る……と、夕暮時で、ベランダ越しに明かりの点き始めた部屋の窓の中に、ポツンと一部屋だけ明かりの灯っていない箇所があるのに気が付く。


「?あの部屋がどうかしたの?」

「……あそこは沙弥の家です……そして部長はご存知ないかもしれませんが……沙弥は一人暮らしなのです……」

「え!?こ、こんな立派なマンションに!?」

「……あの子のご両親はお仕事で海外に行ってらっしゃいますので……ただ一人の姉妹であるお姉様は東京の大学に通ってらっしゃいますし……」

「そ、そうなの……大変なのね。それで?」

「……それで……沙弥の部屋の明かりが点いてないという事は……どういう事だかお分かりですか?……」


 んー、とこめかみに人差し指を当て一瞬考えて、ある考えに思い至る。あ、ひょっとして……まさか……?


「……要するに……沙弥はまだ帰って来ていないという事なのです……」


 ちょ……ちょっと!それを先に言ってよ!!さっきまでのあなたとのやり取りは一体なんだったっていうの!?

 ……と文句の一つも言いたいものの、また妙な威圧感を出されたら怖いので何も言えない……うう……部長の威厳は一体どこ行ったんだろう……。

 まるで私の気持ちを読んだかの様に、円妙寺さんは袖に半分隠れた掌を口元に当て、クスクス、と忍び笑いを漏らした。


「……お気の毒ですが……お帰り下さいませ……」

「か、帰れって……じゃ、じゃあせめて、あの子の行きそうなとこくらいは教えてくれても―――」

「……さあ……?……皆目見当も付きませんね……いつ帰ってくるかも分かりませんし……」

「お願い!どこでもいいから!一箇所くらい―――」


 そう言いかけた時、一陣の強い風が吹いて、思わず私は目を閉じてしまった。な、何よ、急に?ビル風ってやつかな?


「……私の話は終わりました……それではこれにて……」

「そんな!!円妙寺さん待って―――って……あれ?」


 再び目を開いた時、そこにはもう彼女の姿は無く―――ど、どういう事!?あ、あの子本当に妖怪変化か何かの化身なんじゃないの!?

うう、こ、怖い……と私は肩を抱いて震えてしまう。それから、鉄砲塚さんについての一切の手掛かりを無くしてしまった事を思い出し、抱いている肩を失望にがっかりと落とした。

 取りあえず円妙寺さんの言う通り、家に戻るしかないかな……もう暗くなってきてるし……それで後で改めて、お母さんに断って自転車でここまで来てみようか……鉄砲塚さんの行きそうな場所に全く心当たりが無い以上、そうするしか……。

そう考えて、トボトボと道を戻り始めた私の脳裏に、何か妙に引っかかる事があった。



 ???何だろう……さっきの円妙寺さんとの会話の中に、おかしなとこがあったような……???


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る