誤呼

御調

誤呼

 依子よりこは辟易していた。ただでさえ職場の飲み会というのは憂鬱な時間だというのに、今日は輪を掛けて酷い。

「はーい、皆さん注目!こちらが着任早々に伝説をかましちゃった、期待の新人クンでーす!」

 明るい声で場を取り仕切る石井いしい依子よりことは対照的に、社交的で気が利き、人間を相手取った振る舞いに長けた男だ。そのような人間が組織には必要だと依子よりこも理解しているし、事実その能力を買われて彼は新人教育係に抜擢されたと聞く。しかし依子よりこにとっては、必要以上に張りのある声も、新人の些細なミスを「伝説」などと大仰に喧伝する感性も、全てが軽薄に感じられてしまうのだった。

「伝説って…新人君、何かやらかしたの?」

 訊ねられて、依子よりこは嫌々ながら応える。

「別に。課長の事を『お母さん』って呼び間違えただけ」

「あはは、なんだ。でもまあ、笑い取れたら打ち解けやすいし、良かったかもね」

 そうだね、と相槌を打ちながら依子よりこは、そうはならないだろうと半ば確信していた。配属されて間もないことを差し引いても新人の彼はオドオドとして頼りない印象で、教育係の石井いしいとは正反対の、つまりは依子よりこによく似たタイプに思えた。少なくともミスを笑われ、恥を広められて、これは周囲と打ち解ける好機だなどと前向きに捉える人間には見えなかった。依子よりこは不憫な後輩に、同情と同族嫌悪の入り混じった目を向ける。

「新人クンさ、もしかして小学校の時も先生のこと『お母さん』とか呼んじゃった?」

「ってか、課長なら『お父さん』のほうが合ってるよね」

「明日課長に言ってみようよ、絶対ウケるって」

 石井いしいやその周囲は未だに話題を続けている。本気で新人のためにやっているのか、単に面白くてやっているのか。当の新人は曖昧に笑いながら応えているが、依子よりこは彼の内心を想像して気が滅入る。助け舟を出してやるべきだろうか、しかしそれほどの間柄だろうか。余計なお世話ではないだろうか。


 逡巡していると、ダン、と机を叩く音がした。驚いてそちらに顔を向ける。

「やめましょうよ、そういうの」

 声を発したのは坂下さかしただった。あまり大きな声で意見を主張するタイプではないと思っていたので、依子よりこは意外に思った。当の坂下さかしたも自分の声の大きさに驚いているように見えた。辺りが静まり返り皆の注目が集まるなか、坂下さかしたはしばらく口ごもっていたが、言葉を続けた。

「あ、すんません、机叩いたりして…。でもイジリとか、よくないっすよ」

 徐々にトーンダウンし後半は殆ど聞き取れない声量だったが、場の熱を冷ますには十分だった。石井いしいを含め、茶化して楽しんでいた面々はバツの悪そうな顔で何か言葉を探しているようだったが、誰も動くことの無いまま数秒が流れた。

「あ、えっと、すんません…俺、帰ります。これ、会計」

「ちょっと、坂下さかしたさん!」

 誰かが呼び止めようとしたが、坂下さかしたは振り返ることも無く店を出てしまった。残された面々は顔を見合わせながらどうすべきかと迷っていた。依子よりこも暫くそうしていたが、意を決し、同僚らの驚く声を尻目に坂下さかしたの後を追った。

 店を出て見渡すと坂下さかしたはまだ見える範囲にいた。急いで後を追い、その背中に声を掛ける。坂下さかしたはギョッとした顔をしていたが、話を聞く気はあるようだ。依子よりこの息が整うまで黙って待っていてくれた。

「…ええと、落ち着きましたか」

「…うん、坂下さかしたくん。ありがとう、ちゃんと言ってくれて」

「え?」

石井いしいの新人イジリ、私も止めなきゃって思ってた」

 坂下さかしたは無言だった。何か考えている様子だったが、依子よりこの方に向き直った。

「聞いてほしいことがあります。よかったら飲み直しませんか」


 坂下さかしたが提案したのは小さな居酒屋だった。少人数の客が多くBGMも控えめな店内は騒々しくはなく、会話に支障は無かった。席に着き適当な飲み物を注文をする。坂下さかしたはかなり長いあいだ切り出しづらそうにしていたが、一度深く息を吸うと、ゆっくり語り出した。

「正直に言うと、新人君を助けたとかそういうのじゃないんすよ」

 依子よりこはその発言をある程度予想していた。依子よりこ自身も新人イジリという行為には、道徳心や同情の念よりも軽薄な人間が好き勝手に振舞う不愉快さを強く覚えていたからだ。そしてそこに冷や水を浴びせてやれたことにスッキリとしていた。先刻の坂下さかしたへの礼も、体裁上は道義を通した事への謝意を示したが、実のところ後ろ暗いいわば復讐心を満たしてくれたことへの感謝が大きかった。おそらく坂下さかしたもその後ろ暗さを打ち明けてくれようとしているのだと合点した依子よりこは「わかるよ」と相槌を入れかけたが、続く坂下さかしたの言葉は予想外だった。

「小学生の時に、いたんすよ。同じように先生の事『お母さん』って呼んじゃった奴が。周りもずっとからかってて、間違えられた先生も面白がって授業の時に『みんなのママですよー』なんて言ったりして。まあ間違えた本人も笑ってたんで、良いかって思ってたんすけど」

 先ほどまで言い淀んでいたのが嘘のような早口だった。その様はまるで、嫌なものを早く吐き出したがっているようにも感じられた。

「思ってた、けど?」

「…自殺したんすよ」

 依子よりこは悪い方に展開するだろうと身構えはていたが、予想以上にショックが大きかった。悪意の薄いからかいでも、本人が平気そうに見えても、死に追い込まれるほどに人を追い詰めることはあるのだと知識では理解している。しかし実際に生身の身体にその実例をぶつけられると重く響く。

 坂下さかしたはそんな経験を持つからこそあの場で声を上げたのか。依子よりこの中に反省と後悔が膨らんだ。自分はからかわれる人間の立場に立った気で、結局は石井いしい達への苛立ちを募らせていただけだった。真にやられる側の立場で行動した坂下さかしたとは雲泥の差だ。先ほどまでの自分が恥ずかしい。

坂下さかしたくんはその自殺した子の事を…」

「違います!」

 強く遮られて依子よりこは驚く。思わず坂下さかしたの顔を見ると、目に恐怖の色が混じっていた。心なしか手も震えているようだった。坂下さかしたは噛み締めるように一語ずつ区切って、続ける。

「自殺したのは、先生のほうです」

「え?」

「最初は普通だったんです。それがボーっとしたりいきなり怒ったりすることが増えて。綺麗な先生だったんですけど、そのうち服や髪も乱れてきて、自習時間って言うんですかね、授業ナシの時間も増えて。『ママですよー』なんて自分で言ってたのに、最後のほうはもう『ママって呼ぶな!』って怒鳴ったり」

 最後のほう、という表現に依子よりこは寒気を覚えた。

「ある朝、登校したら黒板に『私はお母さんじゃない』ってびっしり書かれてて」

 凄絶な光景を想像して言葉を失う。その恐怖を振り払うように、依子よりこ坂下さかしたの言葉を遮って言う。

「死体が教室にあったってわけではないんだよね」

「ええ。後から他の先生が来て転勤だって説明してました。でも子供心にそれは嘘だって分かりましたよ。何年か後に親に聞いたら、やっぱり自殺だったそうです」

 いつの間にか届いてたビールのグラスが結露し、テーブルに小さな水溜まりを作っていた。依子よりこの顎から垂れた汗が一滴、水溜まりを少し広げる。依子よりこは深く息を吸い、吐き、何とか言葉を絞り出す。

「…でもその話と今日のは」

 無関係だよね、と目で訴える。それは分析というよりも希望だった。

「そうかもしれないです。いや、そう考えるのが普通だと思います。ただ」

「ただ?」

「あの朝、黒板を見て、笑ってたんすよ。最初に呼び間違えたヤツ」

 寒気が再び背筋に走る。そんな様子などお構いなしに坂下さかしたはさらに追い打ちをかける。

「その顔が、さっきの新人の奴にそっくりで」

 そこまで言ってようやく依子よりこの様子に気付いた坂下さかしたは「いえ、忘れてください」と言葉を繋げたが、鳥肌が治まることはなかった。一口も口をつけていないビールだが、飲む気などとうに失せていた。

「…そんなわけで、俺はただ怖くなって逃げただけなんです。すいません、付き合わせちゃって」

 坂下は砕けた調子で言う。わざと明るく見せているのが分かる。

「いいよ、私も嫌で逃げてきただけだし」

 取り繕うように依子も笑顔を返す。冷静に考えれば今何が起こっているわけでもなく、特別悪い事態に陥っているというわけでもない。そう思わなければ。飲み会を途中で抜け出したのは皆の不興を買ったかもしれないが、それも些末なことだ。

 と、そこで振動音がした。テーブルの上でスマートフォンが震えたようだ。見れば坂下さかしたにも着信があったようで、ポケットからスマートフォンを取り出すところだった。メッセンジャーアプリを立ち上げると、職場グループに新着の通知が来ている。

坂下さかしたさん、依子よりこさん、まだ近くにいらっしゃいますか?』

『今からでも合流して飲み直しませんか』

『みんなあのあと反省して、今は盛り上がってます』

 石井いしいをはじめ数名からメッセージが来ていた。依子よりこにもう戻る気は無かったので無視しようかと思ったが、返事だけでもしておくべきかと思い直した。断る言い訳を考えながら入力を開始したその時、さらにメッセージが追加された。

『早く戻ってきて、お母さん!笑』

 依子よりこ坂下さかしたと目を合わせる。しばらく見つめ合った後、どちらからともなく画面に目を戻し、差出人の名を確認する。


 彼は今、どんな顔でこのメッセージを打ったのだろう。

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誤呼 御調 @triarbor

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