四章 革命(れきし)の真実(うそ)

 私が読んだ祖母の手記は比較的穏やかな内容で紙片自体も傷みが少なかった。先ほど読んだ五枚目ですら過去の夢を見て激しく後悔しているが言葉はしっかりしていた。


 だけど次の物に手を伸ばした処で私は止まってしまった。と言うのも次に読もうとした物は明らかにこれまでの物とは違う。それまでの物は紙の保存具合も似ていたし大きさも同じくらいだったが束の上にあるのは紙質自体が違っている様に見えた。


 古い物だが傷み具合も相当に酷い。茶色っぽく変色してしまっていて文字の判読も少し厳しい。今までと違って誰の物か分からない乱暴な文字だ。辛うじて読み取れる程度で相当に酷い状態だった。


 しかしそれでも手記に束ねられていたからこれも他の物と同じくマギー自身が書いた物だろう。私は紙を破いてしまわない様にそっと大切に扱いながら紙面に目を走らせた。


○マギーの手記・その六


 あの子はどうして笑ったの?

 どうして皆、笑ってあの子を殺せるの?

 今でも分からない。

 皆、死ねばいい。

 悲しい。

 寂しい。

 逢いたい。

 頭がおかしくなりそう。

 あの子は何故私に生きろと言ったの?

 死にたい。

 死んであの子の処に今すぐ行きたい。

 ロジャー先生、どうして私は生きなければいけないの?



 それは小さな紙片の上に書かれていた。とても短い内容で短い片言の羅列が書き殴られている。何とか苦労して読み取ったものの、私は胸の奥を掴まれた気分になった。目の前が暗くなった錯覚に陥ると同時に紙片を持つ手が震える。


 これまでは特に覚悟も何もなく、ただ単純に祖母の手記を懐かしく思って読んで来た。

 人の心を垣間見るのなら、踏み込むのならそれなりの覚悟をすべきだったのだと今更になって思い知らされる。特にこれは祖母マギーの書いた『処刑された王女』に関する思い出が書かれた手記であってどんなに幸せで楽しい時間があったとしても最後には必ず破綻すると分かっている。そんな結末を迎える思い出が悲劇でない筈が無いのだ。


――分かっていた筈なのに、なんて私は考え無しなんだろう……。


 だけどそんな風に後悔してももうさっきまで感じていた幸せや懐かしさは戻って来ない。

 幸せの終焉――私が知る幸せな物語の本当の結末がそこにあった。それもまるでマギーの悲鳴が聞こえるかの様に。私は凍りついたままその紙片を胸に抱えて目を強く瞑った。


 きっとこれは本当の絶望だ。マギーの中に今まで隠されて来た物だ。

 これまでに読んだ内容を思えば分かる。本当に大切な物を失って絶望しか残らなかった。

 いや、絶望どころかきっと本当に何も残らなかったに違いない。

 私は祖母との優しく楽しい時間を、『私の思い出』を重ねて見ていた。だけどこれは私が触れてはいけないマギーの思い出の断片だ。実際に大切な友人と過ごして来て最後には離別するしか出来なかったマーガレット・エヴァンスと言う少女の。

 それを思うだけで私は辛くて仕方無かった。


――ねえ、マギー……マギーはずっと、こんな思いを胸に隠していたの? こんな辛い思いを胸にしまって、子供だった私に笑って話してくれていたの? ――。


 私はすぐ目の前にあるベッドの木枠に視線を向けた。けれどもうそこにはあの優しくて穏やかに話してくれた祖母はいない。最後に会えなかった祖母の姿はもう残っていない。

 それが辛くて、ただ悲しくて。私はもうそれ以上読み続ける事なんて出来なかった。



 翌日の昼過ぎ、私は街にある司書院にやってきていた。


 昨日、あれから結局私は祖母の手記を読み進める事は出来なかった。祖父母の家の戸締まりだけするとその日の内に街へ逃げる様に戻ってしまった。ただひたすらマギーに申し訳ない気持ちしかなかった。辛くて悲しくて、そして怖かったのだ。

 マギーは私の事を大好きだと良く言ってくれた。勿論私もマギーの事は大好きだったしその気持ちは今でも全く変わっていない。


 私はもっと早くに気付くべきだった。あの物語の結末を知っていたのだから。

 マギーがあんな狂おしい思いを胸に秘めたまま幼い私に語りかけて一緒になって笑ってくれていたのだと思うとそれだけで自分が許せなくなってしまう。

 大切な友達が処刑されて、その幸せだった頃の思い出を語り続ける――それはきっと拷問の様に終わる事の無い苦痛ばかりを祖母に与え続けたに違いない。孫娘にせがまれて話すしか無かったのかも知れない。けれど幼い私は何度も繰り返して王女様の話をせがんだ。

 知らなかったとはいえ私はなんて酷い子供だったんだろう。そう思うとこれまで幸せな思い出だと思っていた物が反転する。考えるだけで気がおかしくなってしまいそうだった。


 私はマギーの事が今でも大好きだ。尊敬もしているし愛している。そんな祖母を悲しませたく無い。だけど幸せな話をする度にマギーの心は蝕み続けたのかも知れない。莫迦で世間知らずの孫娘が処刑された古い友人に憧れるのを見て傷付いていたかも知れないのだ。


 そして私はそのまま司書管理官としての道を選んでしまった。私の勝手な思い込みで祖母の中にある触れてはいけない傷を抉る道を。

 私はもう、本当にこれからどうしたら良いのか分からなくなってしまっていた。


 それなのに私はマギーの手記を持ってきてしまった。この十数枚の紙片の上にマギーが残した思いがあるのかと思うと棚の中にしまっては置けなかった。見て見ぬ振りなんて出来ない。だけどどうすればいいのかももう本当に分からない。


――果たして私は司書管理官としてこのまま働いて良いのだろうか。


 大好きな祖母の大切な友人、私が憧れるルーシア姫を調べて『悪姫童話』の汚名を雪ぐ為に私はこの道を選んだ。だけどそれは同時に大切な物を傷付ける行為かも知れない。

 そんな自問自答を続ける内に私は新しい勤め先へとやって来てしまっていた。



 まるで夢遊病患者の様におぼつかない足取りで彷徨う私を見て職員達が怪訝な顔をする。

 だけど私には配慮出来るだけの余裕が無い。そのまま無言になる職員達の脇を通り抜けて廊下を歩いていくと、新任当初に出頭する予定だった院内の研究室の前に辿り着いた。

 その部屋の前には見覚えのある人が丁度扉に手を掛ける処だった。

「――エヴァンス、か? なんだ、まだ来る頃合ではなかろうに……」

 だけど私は何も答える事が出来ない。その男性の前まで歩いていくと立ち止まる。

「お前……何だ、何があった? まるでこの世の終わりを迎えた様な面をして……?」

 それで私の顔を正面から見るとその男性はぎょっとした顔に変わった。


 この男性はマルコルフ教授と言う。愛称はマルコらしいが誰もが『教授』と呼んでいた。

 教授は私が学術院生だった頃に懇意にしていた研究室の室長だった人で、ルーシア姫とその童話について何度となく相談に乗って貰った恩のある人だ。

 禿げ上がった頭とでっぷりした体格の教授はこれでも元リーゼン王国の騎士の家系でグリゼルマ王国を統合して独立を認めた国に今も所属している人だ。だけど研究者肌が過ぎて相手が例え母国であろうと便宜を図ろうとしない。己の信念に賭けて真実を追求して母国が損失を被る事になったとしても構わずに突き進めてしまう気性の人だった。

 実際に過去、リーゼン王国の立場を落とした実績まで持っている相当な食わせ者だ。

 元々司書院の研究室長で私の進路にも大きく影響を与えた傑物だった。


 だけど……厳しい人だと分かっていても良く知った顔を見た所為だろう。気が緩んでしまって私は思わず涙を浮かべてしまう。そんな私を見るなり教授はうんざりした表情になって口をへの字に結んだまま研究室の扉を開いて中へと促した。


「……泣くのは別に構わんのだがな? それが私の所為だと思われてしまっては大層困るのだよ。昔の様にくだらん話を聞いてやるからさっさと入りたまえ」


 素っ気なく突き放した態度は私が学生だった頃から変わっていない。けれどその変に優しくなくて同情的でもない態度が今の私にはとても心地良かった。



 部屋に入ってテーブル前のソファーに腰掛けると奥から教授がカップを手にしながら戻ってきた。面倒臭そうに私の前に一つ置くと正面に腰掛けて自分のカップを啜り始める。

 どうやら私は相当酷い顔をしていたらしい。普段なら絶対に他人にお茶を淹れて出してくれる様な人ではないのにわざわざ私の為に準備して淹れてくれたらしい。

 それでカップを手に取って口を付けると熱い液体が空腹の胃に心地よく染み込んで来る。

 そう言えば昨日、あれから何も考えられず食事も食べていなかった事を思い出す。そうしてカップの中身を全て喉に流し込んでテーブルの上に戻した処で教授が口を開いた。


「――で? 今度はまた、どんな問題を抱えて来たのかね? お前の事だ、まさか糞下らぬ色恋沙汰でようやっと遅い春を迎えた、等と言う報告でもあるまいよ?」

 そう言って教授は皮肉っぽく口の端を歪めながら笑った。

 相変わらず罵倒混じりの酷い言葉だが昔と全く変わっていない。それでこんなに安心出来るとは思っていなかった。学術院時代は散々聞かされてうんざりした物だったのに。

 それで兎も角私はここまでの細かい経緯を教授に最初から説明する事になった。その上で全てを話した後に祖母の手記を鞄から取り出すと教授の顔色が変わる。そのまま少し考え込んで黙ってしまう。そしてやがて教授はゆっくりと口を開いた。


「……エヴァンス。どうやらお前は又、とんでもない物を引き当てて来た様だな?」

 それだけ言うと教授はテーブルの上に置いた手記を眺めた。だけどその癖に手を付けようとはしない。その理由が分からず思わず尋ねると教授は忌々しそうな顔付きに変わる。


「そうだな。そりゃあ今すぐにでも読ませて貰いたい処だ。だがお前はまだ祖母君の手記に全て目を通してはおらんのだろう? こんな思いが宿る物は先ず親しい者が読んだ後と相場が決まっておる。他人が先に読むなぞ言語道断。就任前だが真っ先に私の元にやって来たのは僥倖だ。例え泣き出す程辛くても全てに目を通して貰う。精々覚悟したまえよ」

 教授は私の問いにそう答えると物騒な目をしながらも喜色の浮かんだ顔を見せた。


 それはつまり私に司書管理官としての仕事を全うしろ、と言う業務命令だった。私自身もうどうすれば良いか分からなくなっていたから行動の指針を示して貰えるのは非常に有難い事ではある。確かに助かる――助かるのだけれど。

 私は感謝しながらも内心頭を抱えてしまっていた。


――ああ、そうだ。教授はこう言う人だった……。


 どうして忘れてしまっていたんだろう。

 今度は教授の性格について失念していた自分に頭を抱える事となった。救いを求めて彷徨っていた筈なのに気が付くと悪魔の巣窟に迷い込んでしまっていた。


 だけど……教授は頼れる優しい悪魔だ。マギーの次くらいには尊敬出来るし信用だってしている。口は悪い癖に本当に困っている人間は見捨てられない。それが教授と言う人だ。

 こうなってしまった以上私も観念して取り組むしかない。

 そんな覚悟の様な、開き直りの気分になりながら読み終えた分を教授に差し出した。


 私が働く予定だった司書院とは元々リーゼン王国の管轄下にあった軍事組織だ。今では王国の管轄から外れて純粋な意味での研究機関になっている。主に各国の文化や伝承を蓄積して分類、研究、管理保全を行う事が大きな目的だ。元が軍事組織だったと言うだけあって戦争目的の情報収集機関だと言う印象が強かったが実際は違うらしい。これは教授曰く『争いを避けて仲良くする為に知る必要があるのだよ』と言う事なのだそうだ。

 実際に現在は一般人にも情報は開放されて休みには街の子供達も大勢訪れる名所になっている。収集した知識や伝承は分け隔てなく還元されて教育にも大きな成果を上げている。

 司書管理官は司書院に集まる膨大な知識――国の歴史だけでなく口頭伝承も収集している。これは例えばおとぎ話や童話と言った物から民話や伝説に至るまで、記録されていない親から子へ受け継がれる記憶と言葉で語られる物の総称だ。そんな物まで管理している。

 それらを基本的に書物に落とし込む訳だけど、最近では物品の保全も行っているらしい。


 私は『ルーシア姫』について調べる為と世間で流布される『悪姫童話』に関して真相を知りたい一心からこの道へ進む事を選んだ。司書院は既にリーゼン王国軍の管理下から離れているから軍属とは違う。でなければ私の様な女の身で所属なんて出来る訳が無い。

 しかし軍属では無いものの元々の職員がそのまま従事している事もあってリーゼン王国とは繋がりを持っているからグリゼルマだけでなくリーゼンの知識まで調べられる。


 けれどそんな『知識の源泉』と呼ばれる場所でもルーシア姫に関する記録だけは見つけられなかった。八方塞がりになって特に進展も無い処へ私が手記を携えてやってきた訳だ。

 それこそ火の中へ羽虫が飛び込んでいくかの様に。


 そして知らない事を調べる為の情熱で言えば恐らく教授は最高の人材だろう。その日の内から私は教授と二人、研究室で顔を突き合わせてマギーの手記を読み進める事になった。


 例えそれが辛い事だとしても一人きりで読むよりかは遥かに気分は楽になった。



○マギーの手記・その七


 あの子が好きだった処に、小さくなったあの子を埋めた。

 部屋の窓から遠く見えていた、一度も行く事が出来なかった丘。

 酷くなっていくあなたを休ませてあげる様にと先生が言ったから。


 だけど髪の毛を一房だけ分けて貰った。

 ごめんね、綺麗な髪だったのに。

 でも、せめて一緒じゃないと私、もう嫌なの。

 ロジャー先生が私から離れようとしない。

 鬱陶しい、放っておいてほしい。



「――どうもお前はこの件に思い入れが強すぎる。共感や同情では目的を見失うぞ?」


 手記を読む勇気が無くて躊躇していると教授がそんな事を言ってきた。その声にハッとして顔を上げるとペンを手にしながら教授がじっと私を見つめている。けれどそんな簡単に割り切れる事じゃない。そんな事が出来るなら私はこんなに悩んではいないんだから。


 この紙片には敬愛する祖母の若かりし頃の思いが書き綴られている。そう思うだけで気が重くなっていく。良く知っている筈だったマギーの全く知らない部分が見えてしまう。

 そう思うと怖くて手が出せない。もしこの後に私に話した事を後悔しているとでも書かれていればきっと私は立ち直れなくなってしまうと思う。それくらいに怖い事だった。

 けれどそんな私の泣き言を聞いてマルコルフ教授は呆れた顔に変わる。


「……そりゃあこれはお前に伝えるために書かれておらんからな。恐らく祖母君は自分に向き合って心を整理する為に書いたんだろうさ。始末出来ん思いは自分にぶつけるしか無いからな。手記とはそういう物だ。我々はそういう思いを目にする事が多いし、同情ではなくきちんと書き手の思いを見極めた上で受け止める覚悟がないとならんのさ」


――同情ではなく、きちんと思いを受け止める覚悟――。

 それを聞いて私は半ば絶望しながら項垂れた。つまり心を鬼にしてでも私は内容を読み解かなければならないという事だ。その為には私の感情や思いなんて関係無い。ただ真実だけを見極めてマギーがどんな風に考えて書いたのかだけを突き止める。それを実行する為には自分が人間である事を諦めた覚悟が必要なのだろう。

 けれど私がそう漏らした嘆息を聞いて教授は今度は呆れではなく冷たい目を向けてきた。


「お前は莫迦か? 思いを受け止めるのは思いだけだ。だが幾ら祖母君に共感や同情したとしてもお前は祖母君ではない。私はその『分かった振り』を辞めろと言っている」

 突き刺さる教授の容赦の無い言葉に私は黙ってしまう。俯いた私を見て素直に聞いていると思ったのだろう。教授はフンと鼻を鳴らすと声の調子を落として静かに続けた。


「……大体お前は歴史研究家ではなかろう? 我々は歴史の真実を突き止める為にこの仕事をしているのではない。人が残そうとした物を歪みなく残す。お前のそれはただの感想であって祖母君の意図した物とは違う。大体エヴァンス……お前があの学術院で最後までやる覚悟があると言ったから推薦してやったのに、もしや違っていたのかね?」


 それだけ言うと教授は再び鼻を鳴らして手元の手記に視線を落とした。読みながら真新しい紙を取り出してその上に何やら書いている。けれど私は教授が最後に言った言葉の意味が良く分からなくて落ち込んでいるのも忘れて目をしばたたかせていた。


 私が学術院の生徒だった頃に――そんな大層な事を言った覚えが無い。あの頃は兎に角必死で王女様の情報を集めようとしていた。マルコルフ教授は学術院の中では良くも悪くも有名で司書院の研究室からわざわざ招いたのに余りにも厳しく口が悪かった為に生徒達は怖がって近寄ろうとしなかった。いわゆる曰く付きの講師だった。


 ルーシア姫と悪姫童話の情報に飢えていた私は学術院中にある研究室をあちこち訪ねては追い出される事を繰り返していた。学術院の生徒は大抵一つの研究室に属するけれど私は欲しい情報を得られず、結果何処にも所属せずひたすら構内を彷徨っていた。

 そうして全ての研究室を回り尽くした時にやっと教授の噂を思い出して訪ねてみたのだ。

 そして紙束で埋まった室内で今の様になにやら書いていた教授に恐れ知らずだった私は乗り込んで行って何か知らないかと尋ねた。けれど残念ながら教授も何も知らなかった。


 だけど悪姫童話と私が知る真実の王女様の姿について熱く語っているとその内教授は面白そうな顔になって『分からぬなら調べれば良い』と言った。童話の地域分布状況や物語の成立時期等を調べて私は駆け回り、教授はリーゼン王国にまで問い合わせをしてくれた。

 そうやって気がつくと私はマルコルフ教授の正式な研究室生になっていたのだ。当然必死だったからそんな大それた事を言った記憶なんてまるで思い浮かばない。

 だけどそれで首を傾げる私を見て教授は顔を上げると嫌そうな顔に変わった。


「……何だ、黙り込んで。エヴァンス、お前もしや覚えておらんのか? お前は私の処へ来て最初に何をすると言った? あんな生ぬるいお遊戯をしている学術院の学生如きに耳を傾けたりなぞする物か。まさかお前はそんな事を私がする人間だと今更言うまいな?」


 そして溜息をつくと再び手記と紙を見比べて筆記の続きを始める。インク壺にペン先を浸しては書くのを繰り返している。どうやら手記の複写を同時にしている様だった。

 そんな光景を前に私は教授に言われた事を懸命になって思い出そうとしていた。

 確か私が初めて訪れた時に『祖母の昔語りが嘘でないと証明する』と言った筈だ。その思いは今でも変わらない。あの頃はまだ学術院に上がったばかりで夢と希望を持っていた。

 それで私が恐る恐る尋ねると教授は手を止めてじっと私の目を見た。その目は猛獣の様に獰猛な光が浮かんでいる。


「……ふん、それはお前の動機だ。それでお前はそれでどんな結果を出すと言った?」

 それで私はその後に何と言ったのかを思い出していた。


――私は『悪姫童話』を否定する。絶対に王女を悪者にしたおとぎ話を消してやる――と。

 それが恐らく祖母マギーの『お友達』の汚名を雪ぐ唯一の方法だから。きっとマギーだってそう願っていると思ったし私自身が絶対に許せない事だったから。

 そして私がそう答えると教授はペンを走らせながら愉しそうに口元を綻ばせた。どうやら私の回答に満足したらしく、いつもの様にニヤリと笑う。


「――民間伝承、特に『おとぎ話』とは民衆や家族の間で語り継がれる強固な物だ。普通そんな物を『否定』なぞ考えたりはしない。そう言う伝承はその地域で生きる人々に根差して根底を成す物だ。嘘臭いのに疑問を持たず真実だと思うのはそういう事だ。それを絶対に消すなぞ言う愉快な奴が他に何処にいる? 特にルーシア姫に纏わる物語はこの国にとっては革命と関係して禁忌に触れる。だから恐怖を煽るのだよ。他国出身者ならまだしもその土地出身者が否定するなぞ異端もいい処だ。しかももういない死者の名誉の為にたった一人で糾弾し覆す覚悟が出来る奴だぞ? そんな気骨のある者は司書院に所属するにふさわしい。たかが学生の身でありながらそう吠えたから私はお前を引っ張る事にした」


 教授が言ったのは私にとって有り難い反面、驚愕する事実だった。

 引っ張った、と言うのはつまり私がここで働く事になったのは教授の差し金と言う事だ。

 実は学術院の中では教授とまともに話が出来るのは私しかいなかったのだ。正しく言うと私以外の誰にも教授はまともに応対しようとしなかった。それで私は卒業するまでの間、学術院内で変人扱いされた経緯がある。勿論あちこちの研究室に飛び込んでは他の教授達と激しく論戦を繰り返していた所為もあるけれど、それよりもマルコルフ教授の研究室に所属する変わり者の生徒と言う陰口の方が多かった。お陰で他の学生からちょっかいを出される事もなかったし煩わしい恋愛的苦悩を抱える事はなかったけれど、それが教授に目を付けられていた事が原因だと言われると何とも複雑な心境になってくる。

 結果的に司書管理官には成れたけれど感謝すべきなのか嘆くべきなのか、それが問題だ。

 そうやって何とも言えない顔になっていると教授は満足そうな笑みを浮かべた。


「――更にな。お前は祖母君の手記と言うきっかけまで掴んで実際にここまでやって来たではないか。他には誰も、リーゼンが誇る知識の源泉たる司書院ですら辿り着けなかった快挙だぞ? 私の目に狂いはなかったと言う事だ。着任早々お前は重要な第一歩を踏み出せた訳だからな。胸を張るが良いエヴァンス。お前は充分過ぎる程に職務に忠実だぞ?」


 それだけ言うと教授は再び真面目な顔になってペンを走らせ始める。そこまで言われてやっと教授が私を励まそうとしてくれていた事に気がついた。

 何と言うか本当に不器用な人だ。相手を励ますのに悪態をつかないと出来ないだなんて。

 だけどお陰でかなり気分はマシになった。一体何の為に何をしようとしているのかを思い出せた。私は祖母マギーが喜んで安心出来る様にしたい。その為にはルーシア姫の身の潔白を絶対に証明しなければならない。そしてあの『悪姫童話』を覆さなければそれ自体絶対に出来ない。教授が言った通りにおとぎ話は根強く今でも人々の中に残っている。


 大好きなマギーの『お友達』をこれ以上『邪悪な姫君』として扱わせる訳にはいかない。

 私も祖母と王女様が二人共同じ位に大好きだし、その為にこの道を選んだのだから。



 恐らくマギーの手記には私にしか理解出来ない要素が数多く含まれている。それは幼い頃からずっと一緒にいて一番多く昔話を聞かされていた私だからこそ分かる事だ。

 教授の言う『親しい者が最初に目を通す』と言うのもきっとこう言う事だ。例えば母親は祖父の遺言にあった『あの子』が誰を指すのか分からない。マギーも眠りについた今となっては既に私以外『あの子』がルーシア姫を指す事なんて絶対に分からない筈だ。

 マギーとロジャーが言う『あの子』とは二人が守りたかった少女だ。守れずに激しい後悔を抱く原因となった少女だ。祖母が最期まで『大切なお友達』と言ったあの少女だ。


 そしてそこから私だけにしか理解出来ない一節がある。

 それは『小さくなったあの子』と言う部分で、それが今も行方不明なルーシア姫の首を指していると気付いた時、私は思わず身震いに両腕を抱きしめていた。

 私の思い出やマギーに教えられた事が次々に繋がっていく。祖母は王女の首を埋葬したのだ。何処に? 決まっている。祖母が『王女の丘』と呼んだ、あの家の裏の花畑だ。

 その片隅には祖父ロジャーの墓標が、そして今では祖母マギーの墓標も並んでいる。

 あの幼い頃に遊んだ美しい花畑には今も、祖父母と共にルーシア姫が眠っているのだ。


 余りに綺麗に繋がり過ぎて私は再び震える手でマギーの手記を取った。

 祖父母の言う『あの子』はルーシア姫しかいない。その王女が小さくなったのは揶揄や詩的表現ではなく、本当に王女が小さくなってしまった事を指している。きっと直接的な言い方はマギーの心が拒絶したのだろう。そして『酷くなっていくあなた』とは首が腐敗していく事に違いない。だからロジャーはマギーに『休ませる』と言った。

 革命で王女が処刑された直後から首が見つからず騒ぎになったそうだ。それから王女の落とされた首は今も所在不明で、あの『悪姫童話』の成立にも恐らく関与している。

 そして『王女の丘』とは『王女の首が眠る丘』と言う意味だったのだ。私は単に美しい花が咲き乱れる、王女様を偲ぶのに相応しい庭と言う意味としか思っていなかった。

 そしてあの花畑からは遠くグリゼルマ共和国の首都が見える。元々王宮としてあった城は内装だけ変えて、今では議員達が利用する議会場で国賓を迎える建物も兼ねている。

 私と花畑で遊んでいる時、マギーはよく裏庭に一本だけある樹を見上げていた。それがいつも不思議だった。懐かしそうに、優しい目をしてじっと見つめていたから。

 つまり……あの樹は王女の墓標で、あの家は傍で王女の眠りを守る為の城だったのだ。


 きっと二人はルーシア姫の首を処刑直後に取り返して逃げた。どうやってそれを成し遂げたのかまでは分からないが恐らく、二人はそれをやり遂げたのだ。

 普通、断頭台で処刑された後は首が腐るまで晒され続ける。子供も面白がって石を投げたりするから損傷が酷くなる。そんな事を『お友達』のマギーが許せる筈がない。

 王女と同じく十三歳だったマギーが仲の良かった友達の生首を抱えて逃げるだなんて気が狂いそうになってもおかしくない。いや、普通なら気が触れて然るべきなのだ。

 そして王女が好きだった丘――恐らく五つ目の手記にあった通り、王女は城を出る事すら許されなかったに違いない。だから遠く見えるあの丘に行ってみたいと生前言っていたのだろう。綺麗だとかそう言う為でなく、自分が知る限りで一番遠い場所まで。

 そして落とされた首は時間を経て腐り始めてしまう。十三歳のマギーが抱えられる程に小さくなった王女と共にマギーの心も一緒に朽ちて壊れてしまう。だから一緒にいた若いロジャーは『王女を休ませてあげよう』と言ったに違いない。きっと穴を掘って埋めたのもロジャーだ。もし私が同じ状況なら大切な友達を土の中に埋める事なんて出来ない。


 恐らくロジャーは半ば無理矢理に王女の首を埋葬したに違いない。手記の終わりの方でマギーはロジャーに対して少なからず憎しみを抱いている。それでもそうしないとマギーの精神が保たなかっただろう。いつ後追いをしてもおかしくない状態だっただろうから。

 ロジャーにとってルーシア姫とマギーはどちらも大切だった筈だ。だけどきっと軍人の家系だったロジャーは生きているマギーを優先する。放っておくと後追いしかねないからロジャーはマギーの傍を離れられなかった。もし目を離した隙にマギーが自害でもすればそれこそ取り返しがつかない。それくらい当時のマギーは危険な精神状態だったのだろう。

 そしてそれがマギーの立ち直るきっかけになった。心が潰れて死んだ様に生きるマギーがロジャーに怒りを覚えたのだから。きっと祖父は、確かに祖母を救ったのだ。


 だけど何て事だ。私が遊んでいたあの花畑に王女の首が眠っているだなんて。

 道理でロジャーもマギーもあの花畑に葬られる事を望んだ訳だ。生涯寄り添って生きた二人は命が尽きた後も大切な『お友達』と同じ場所で一緒に眠る事を望んだ。ロジャーが眠りにつく時にそれを望み、マギーが眠る時に『あの人の隣に葬って』と母に頼んだ。

 それは夫婦なら当然の話だし母も疑問には思わなかっただろう。二人はあの季節の花々が咲き乱れる場所――まるで夢の様なところでずっと大切なお友達と眠る事を望んだ。

 今もあの家の裏で三人は一緒に眠っている。大きな一本の樹の隣に二人の墓標が並んでいる。それを良かったと思う反面、辛くて仕方がない。


 母が昔、言っていた。山奥過ぎるし二人も老いているから一緒に街で暮らそうと言ったけれど祖父母はあの家を離れようとしなかったと。そして最後まで人の暮らす処には姿を現す事もなく二人共あの家で亡くなった。その語られなかった理由が痛い程良く分かる。

 私にとってあの家は幸せの思い出しか無かったけれどマギーとロジャーにとってはそうじゃなかった。きっとあの家は二人にとって大切な女の子を守る為のお城だった。

 そんな王女様の眠る傍で私は王女様の生きていた頃の話を聞かせて貰った。寂しくてもまだ幸せだった頃のルーシア姫と、マギーとロジャーの三人が過ごした物語を。


 俯いてぼろぼろ涙をこぼす私に気付いて教授は絶句する。私もどうしてこんなに涙がこぼれるのか良く分からなかった。良かったと思う反面辛くて仕方がない。悲しいと思うが祖父母は幸せに眠りにつけた事を本心から良かったと思っている。なのに涙が止まらない。

 反応出来ず教授は呆然と私を見ている。それで私は手記を読んで気付いた事について話した。王女の首の所在については少し迷ったものの、包み隠さず正直に全てを話した。

 流石にそれを聞いて教授の顔色が変わる。ルーシア姫の首の所在については歴史的な大きな謎の一つとして今も学者達が論戦を繰り広げている。その結果ルーシア姫と言う王女の存在について否定的な意見を述べる学者もいる。そんな状況だからこそ『悪姫童話』はより一層根を張る事となる。首の所在がはっきりすれば恐らく大変な騒ぎになるだろう。

 だけど私はそれを望んでいない。穏やかに眠る王女の首を掘り起こす様な墓場荒らしをして欲しくない。そんな事は祖父母だって絶対に許しはしないだろう。

 そんな私の杞憂に気付いたのか、教授は静かに口を開いた。


「……お前が心配する様な事にはならん。それと、泣くなとは言わんが……もう少しこう、スマートには行かん物かね。本気で泣かれるとやり辛くて敵わんのだが……」

 言い難そうにそう言うとマルコルフ教授は上着のポケットからハンカチーフを取り出して突き出してくる。いつもの様に悪態混じりだが教授の声はとても優しい。私だって何故涙が出るのか分からなかったけれど、きっとこれは大好きな三人の事を思ったからだ。

 私は大好きなマギーの昔語りを聞いて育った。だから王女様は私にとって友人も同然だ。

 大好きな人と、大好きな友人の為にこぼれる涙はきっと間違っていない。

 何よりもまだ、私には彼らの為に出来る事があるのが嬉しかった。

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