三章 祖母(マギー)の後悔(おもかげ)

 少しだけ祖母マギーの事を思い出してみよう。

 まだ元気だった頃のマギー――マーガレット・エヴァンスの話だ。


 決して裕福な家ではなく当時から貧乏な家だったと母から聞いている。私の母は三人姉妹の末っ子で姉が二人いるが既に全員が所帯を持っている。昔から贅沢とは無縁だったらしいが食事だけはきっちりとした物を食べていて母も私も舌は相当に肥えている。


 実際に私の母も味にはかなりうるさくて料理も色々とこだわりがある。かく言う私も料理の味に関してだけは結構うるさいが私の興味は料理よりも王女様に関する事で殆ど費やされてしまっている。その為に世間では相当な変わり者と言われる。今もまだ働く女と言えば料理屋か水商売が主流だから仕方ない。これも全部マギーのお陰だと言うべきだろう。


 母が幼い頃の祖母、マギーは決して優しいだけの女性では無かったそうだ。とても落ち着いた人だったが子供の様に無邪気な処があったらしい。私が知るマギーは本当に優しかったからそうじゃないと言われても信じられない。これは私が娘ではなくて孫娘だからじゃないかと母から笑って言われた事がある。


 マギーが何処で生まれ何処で育ったのかは一切知られていない。だけど王女の相手として選ばれた位だからそれなりの家に生まれた令嬢だったんじゃないかと今になって思う。


 貴族は主に男性の姓で受け継がれるからエヴァンスと言う姓しか知らない私にはそれ以上の事は分からない。特にマギーの出自に関しては一切不明だ。恐らく私の母や伯母達はそれすらも知らない話だろう。私も特にこの件については話すつもりも無い。

 今の私や母達には恐らく祖父ロジャーの実家『ハワード』の姓が家名となるのかも知れないけれどマギーこと『マーガレット・エヴァンス』に関しては本当に何も分からない。


 祖母の話を一番聞いていたのは実は私だけだ。特に詳しく聞かせて貰ったのが王女様のお話。ルーシア・フィオメナ・グリゼルマ王女殿下の生きてきた物語だ。母親からはルーシア姫の名前は全く聞いた事が無いと聞いている。但し母や伯母達は『悪姫童話』についても一切聞いた事がないそうだ。だからある程度限られた範囲で出た物語だと推測出来る。


 ロジャーとマギー、そして三人の娘はこの家で暮らし育った。母が幼い頃はロジャーも元気でよく狩りで獣を獲ってきていたらしい。この家には菜園もあって苺や野菜も育てていたそうだ。家のすぐ裏には井戸が掘られていて今も使える。少し歩けば綺麗な小川もあって川魚も捕れる。食料には事欠く事がない、まさに天然の食料庫の中で暮らしていた。


 それに周囲は樹々に囲まれていて他の民家なんて一切無い。人里を訪れるだけでも一苦労で非常に辺鄙な土地だ。大人の早い足なら片道三刻(一時間半)もあれば充分だが幼い私を預けに行くのは大変で来る途中頻繁に休憩をした記憶がある。そして長い時間、祖母の元に預けられた。だから私は母親よりも祖母と一緒に過ごした時間の方が多分長い。


 リーゼン王国の臨時統治以降、グリゼルマ共和国にも学校と言う教育機関が導入された。

 そこで子供達は様々な事を学ぶ事になって伯母達や母は学校に通う事となった。そんな少女達がこんな山奥から通うのはさぞかし大変だっただろう。すぐに部屋を借りてここに戻って来る事は少なくなった。歳を重ねる毎にその足はどんどんと遠のいていった。

 私が預けられたのはきっと共働きが大きな理由だろう。だから私も祖母の元で暮らした思い出の方が多い。当時は鶏や山羊も飼っていて珍しかったし私も毎日が楽しかった。

 何せ町中では余り見掛けない動物がいるし美味しい物も沢山ある。裏には王女の丘があって花畑まで揃っている。私にとってここは特別な場所で幸せな子供時代の思い出だ。


 そして私が初等学舎に上がる歳になるまではずっとマギーに色々教えて貰っていた。

 マギーは家事に関しては一通り全て自分でこなしてしまう。針仕事から料理まで全てだ。

 それだけなら女なら割と当然だが、しかしマギーの場合は一体誰から教わったのかどれも完成度が妙に高い。服飾から料理に至るまで仕込みが相当大変な筈なのに日常的にこなしていた。何をするにしてもそれだけで店が開けそうな位に手間暇を掛けていた。


 昔私が初等学舎に上がる頃、母が子供時代に着ていた服を着せて貰った事がある。それが恐ろしく出来が良い。周囲の子供達から私だけが浮いて見える位に完成度が高かった。

 私も詳しくないが服の縫製方法自体が違ったらしい。そもそも今ある服飾とも大きく違っていて型取りから完成まで完全に別物だ。貧乏人なのに裕福な家の子供に見られた位だ。

 流石に気不味くて余り着る事は出来なかったけれど。


 過去にそういった専門職をしていたのかと言うとそうでもない。しかし私が生まれて以降マギーは目を悪くしてしまった。それまで手間暇掛かった針仕事はしなくなったそうだ。

 その分精密さを必要としない仕事では手を抜かない。例えば料理の様な物では相変わらずで、特にマギーは食べ物に関しては絶対に手を抜いたりはしなかった。

 私は好き嫌いが無かったし『食べ物は人が生きる為にとても大切よ』とマギーに教えられて育った。だからフルーツパイは本当に珍しくて大好物になった。考えてみれば、だからこそ母達、自分の娘達には作ってやる事を考えなかったのかも知れない。


 マギーの作る料理は少し懐かしい風味の物が多い。これはどの家庭にでもある懐かしいとは少し違う。下味の付け方や香草が練り込んであったりと手間暇が掛かっている。それは今の一般家庭では殆どされていない調理法らしく不思議な良い香りや風味がある。

 今回知る事となったフルーツパイのレシピも普通とはかなり違う。フルーツを砂糖に漬ける段階から違っていて自家製の果実酒まで使っている。それで同じになる訳がない。


 考えてみればマギーは王女様に料理を振る舞っていた訳だから幼い頃の私は恐ろしく良い物を食べていたのだろう。それもきっと革命より以前にあった貴族が作る料理で今はもう失われてしまった製法なのかも知れない。そう考えると私は相当恵まれていた。


 亭主であるロジャーは若い頃から寡黙だったらしいが穏やかな人だったそうだ。口調も丁寧で怒鳴る事は無く酷く落ち着いた物静かな感じだったらしい。けれど母達姉妹が幼い頃から遊技盤をよく弄っていて一人で遊んでいる事が多かったそうだ。


 祖父が倒れた時も遊技盤を弄っていた時だったそうだ。丁度私が母親に連れられて訪れた時にはマギーは一人でロジャーを看ていたらしい。当時母親が祖母に凄い剣幕で怒っているのを見て思わずマギーを庇ってしまい、それでしっかりと抱かれた憶えがある。


 私が大きくなってから聞いた話では祖父はマギーに一言だけ言って眠りについたそうだ。

 それはただ一言『あの子には伝えておくから君はのんびりして来なさい』とだけ。祖母と一緒に世話をしていた母が聞いていたが良く分からなかったそうだ。そもそも母は『あの子』が誰を差しているのかが分からない。


 だけど今の私には良く分かる。あの子とは『ルーシア姫』だ。幼い頃から聞いてきた昔語りで聞いたお姫様。マギーとロジャーの共通の、とても大切な『お友達』だ。


 ロジャーはマギーより五つ年上で二人の馴れ初めについても全く知らない。けれどこうして手記を読む限り王女との出会いが二人の出会いだったのだろう。確かマギーとルーシア姫は同い年だと書かれていた筈だ。手記にはマギーがルーシア姫と初めて出会ったのが八つの頃で一三歳の王女が処刑されるまでの間ずっと一緒に過ごしてきたのだろう。


 三人が共に過ごしたのは僅か五、六年。それから六〇年近くの間二人は寄り添ってきた。

 途中でロジャーは先に旅立つ事になってしまったけれど。

 そして残されたマギーも今は既に眠りについた。全ては暗闇の中に消えてしまった。


 その中で彷徨う様に私はマギーの残した手記だけを灯火に歩いている。歴史的な真実や価値を感じるからと言うのも嘘じゃない。だけど何より大好きだったマギーと憧れていた王女様の事をもっと知りたい。そんなまるで少女の様な思いが私の本音で求める事だった。


 だけど――次に私が目にしたのはこれまでの物とは明らかに違っていた。

 他の手記と同様に古びているが、書かれている内容も趣が異なっている。それに書かれた文字が少し震えていて、書き殴られた様に乱暴な物だったのだ。

 私はそれを少し動揺しながら目を通した。




○マギーの手記・その五


 夢を、見た。革命の前の、一度だけルウと喧嘩した時の夢。


 あの時私は本当にあの子の事が心配だったし、生きて欲しいと願った。だからあの子を逃がそうとロジャーと相談して準備もしていたわ。その為に私自身が命を落としても構わないと、本当にそう考えていた。


 私の両親は家と共に燃え尽きてしまってもう何も無かった。そんな私でも……ルウ、あの子だけは必要だと言ってくれたから。あの時の私にはもう、あの子しか居なかったのよ。


 あの子の傍らだけが私の居られるところ。

 あの子だけが私のすべて。


 だけどあの子は、そんな私を『莫迦ね』と言って叱った。あの時、どうして分かってくれないのかと酷い事を言ってしまった。

 謝りたかったけれど、私は結局あの子に謝る事が出来なかった。私は結局、あの子に何もしてあげられなかった。


 ルウが国や人を守りたかった様に、私は貴女を守りたかったの。利用されない為にあなたを閉じ込めた陛下や国なんてどうでも良かった。私は王の娘じゃなくて、たった一人の大切なお友達を守りたかっただけなの。あなたがあんな風に寂しく笑っていたのは、全部諦めていたからなのね。ロジャーと遊技盤をした頃の様に最後まで諦めて欲しくなかった。

 


 革命の前――その記された内容に私は息を飲んだ。王女が処刑される直前の話、だ。


 それまでの穏やかで優しかった空気がない。激しい後悔が滲んでいる。まるで言葉に出来ない悲しみを無理矢理文字に書き起こして紙片に刻みつけたみたいだった。

 私が見た事のない、私の知らないマギーがいる。

 胸の中で焼ける様な重い何かが詰まった感覚がある。辿々しく、書き殴った様な文字が悲鳴を堪えて耐えている感情を錯覚させる。文字にこんな力があるだなんて知らなかった。

 そんな内容から目を離せないまま、私は妙に冷えた頭で色々と考えていた。


 マギーの両親は火災で家もろとも焼け落ちた。そう言えばマギーは火を見るのが嫌いで怖がっていた筈だ。いや、『怖がる』と言うのは少し違うかも知れない。と言うのも料理をする時は避けてはいなかったからだ。実際にオーブンでパイを焼くのは平気だった。

 どちらかと言えば揺らめく光を避けていた感じだ。例えば暖炉に火が灯ってもマギーは近づこうとはしなかったし照らされる室内にも入ろうとはしなかった。そして扉を開いたまま寝室に閉じこもってしまうから幼かった私も一緒にベッドに潜り込んで昔話をねだった物だ。尋ねた事はなかったが幼い頃から私はなんとなく察していた。


 この家のリビングにはとても小さいが暖炉がある。この辺りは雪が降り積もる事も無いから慎ましやかな物だがそれでもマギーは暖炉に近寄ろうとしなかった。いつも火を灯していたのはロジャーだがそんな祖父も眠りについてしまった。きっと寒いから灯した訳ではなく、幼い私が風邪をひかない様に気を使ってくれていたのだろう。


 火は女にとって特に日常的に触れる物だ。暖を取る火、料理の火、そして明かりの火。

 マギーが特に避けたのは大きな火とそれに伴う光だ。例えば暗がりを照らすランタンの火には怯えなかったし料理の火も平気だったが暖炉の火だけは避けていた様だ。

 だから私がこの家で最初に覚えた手伝いは火を扱う事だった。と言っても火種はいつも残してあったから小さな薪をくべて取っておいた乾いた松かさに火を移すだけだ。

 手記を見るとマギーの両親、私の曾祖父母は火事で亡くなった様だがあの怯え方はそれが原因と思えない。もしかすると王女や革命と関係があるのかも知れない。


 そしてマギーとロジャー、それにルーシア姫の三人は革命がある事を前もって気付いている様にも読める。マギーとロジャーは王女を逃がす算段を整えようとしているのに王女がそれを拒絶していたみたいだった。それは一体どうしてなのか。

 例え王族とはいえ当時十三歳の少女が残っても何も出来る事はない。それに逃亡の準備はマギーだけではなく将軍の息子であるロジャーが関わっていた。となればルーシア姫が頷きさえすれば脱出は成功していた筈だ。それを拒否する理由が分からなかった。


 手記の上では実際にどんなやり取りがあったのかまでは書かれていない。だから王女にどんな事情があって何故選択したのか推測すら出来ない。どうしてルーシア姫は生き残る道を捨てたのだろう。きっとその理由はこの中に記された一言に含まれている気がする。

『国や人を守りたかった様に』と言うマギーの一言だ。

 恐らくマギーはこの時、王女が逃亡を拒否した理由を知ったからそう感じた筈だ。

 だけど国や民衆を守る為に逃げる訳にはいかなかったと言うのが良く分からない。酷い言い方になるけれど一三歳の姫君が一人いた処で革命は止められる筈が無い。


 それにルーシア姫は自分を殺すだろう民衆達を守る為に命を捨てなければならなかった理由があったとでも言うのだろうか。王女には国を動かせる権力は無い。もしそんな権力を持っていれば当然記録や歴史にもしっかりと残るだろうしハワード将軍の様に歴史の表舞台にもその名前が頻繁に登場している筈だ。

 何よりも権力を持つ立場なら周囲には必ず人が集まる。もしルーシア姫がそんな立場なら周囲は絶対に放っては置かない。担ぎ上げられていなければおかしい。先に読んだ手記に書かれている『寂しい王女』と言う部分だって意味が通らなくなってしまう。

 そして更に謎なのが『利用されない為に王女を閉じ込めた』と言う下りだ。閉じ込めると言うのが『幽閉されていた』と言う意味だとすれば更に話はややこしくなってくる。


 幽閉された王族を救い出して新たなな王とするのは歴史でも幾つかあるけれど、それは大抵の場合『対立する貴族』達が起こした革命であって庶民が起こした物ではない。でももし王女に誰かから接触があったとすれば『無い』とは断言出来ない。もしルーシア姫が幽閉された王女だとすれば接触出来る人間なんて限られるし、マギーやロジャーもそれを利用して助けられる方法を考えた筈だ。


 でも、それでも私としてはルーシア姫が幽閉された姫君だとは思いたくは無かった。

 グリゼルマ王国は一七代国王の時に革命で潰えた王国だ。それまでに五百年以上の歴史を持っていて様々な考え方を持つ王が現れた。そんな中でも一七代国王は温和で争いを好まない人物だったと言われている。そんな人が自分の娘を幽閉なんてするだろうか。

 まさか今言われているのは間違いで実は酷い王だったのだろうか。だけど事情が分からないからこれも何とも言えない。書かれている事と現在知られている事で食い違いがある。

 だけどもしルーシア姫が幽閉されたのだとすると現在分かっている状況の全てに辻褄が合ってしまう。幽閉された王女なんて存在自体が隠蔽されて然るべきだ。それが表に出る事は徹底して避けただろうし肖像画だって残される事は無い。遺品だってまともに残される事は無いだろう。結局王女自身は『処刑された』と言う事以外に何も分かっていない。


 皮肉な事に処刑された事実が彼女の存在を白日の下に晒してしまった。そして民衆から見れば幽閉されていようが王族は王族で革命の対象になってしまう。王族として扱われなかった姫君が今度は倒すべき存在として民衆から注目されてしまった。

 幽閉されていたからこそ最後に発見されて見せしめに処刑された。けれどマギーが話してくれた王女様は悲劇の姫君じゃなかった。祖母が私に話してくれた物語は悲劇じゃない。

 本当に可哀想なだけならきっとマギーは話してくれなかったと思う。例え幸せでいて欲しかった願いだとしても祖母は自分を誤魔化す人間じゃないし絶対に私に嘘はつかない。


 幼い頃に私が知る物語は嘘だと周囲から言われ続けた。それでも信じ続けていられたのは祖母の話に嘘や誤魔化しが一つも無かったからだ。良くある子ども騙しの、嘘臭い不思議な逸話が祖母の昔語りにはなかった。舞台は殆どが王女様の部屋だったし登場人物もルーシア姫と遊技盤の先生であるロジャー、そしてマギーの三人しかいない。それでも都合良く綺麗な話だけじゃなかった。だからこそ私はどんなに同じ年頃の子供達に何と言われようと必ず言い返す事が出来た。


 落ちた首は飛ばないし笑わない。だからそれはルーシア姫じゃない。実際に生きていた優しくて賢い王女様は祖母の大切なお友達だったのだと。


 けれど言えば言う程私は孤立していった。マギーが私に話してくれた王女様はきっと『可哀想な人』では無い筈だ。どうにもならない事を諦めて消えて行く様な、そんな如何にもか弱く儚い人でもない。それに悲劇に酔いしれて死を選ぶ人でも無かった。


 私が聞いてきたルーシア姫なら最後まで諦めたりしない筈だし、きっと何か目的があって彼女はマギーやロジャーの願いに応えられなかったに違いない。

 それが何なのか今の私にはまだ想像もつかないけれど、彼女は祖母の話を聞く限り理路整然と考えを貫いた筈なのだ。だから私もそんな彼女に憧れて司書管理官の道を選んだ。


 けれど更に読み進めて私は打ちのめされる事になる。それは私にとって衝撃だった。


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