16.踏み込め、たとえ奈落でも



 億を超える勝負について、私の伯父である一色勘九朗は、かつてこんな風に語ってくれた。


「本来、金額の多寡で勝負の内容が変わるわけじゃない。麻雀で勝負をしたとして、百円を賭けたときと一億を賭けた時で、ルールや配牌が変わるわけじゃないからな。だから仮に億の金をかけたとしても、勝負の結果は互いの運と実力で決まる――」


 はずだ、と。

 伯父はくだらないと吐き捨てながら言う。


「現実は違う。百円と一億じゃ、勝負の内容は大きく変わる。特に札束が目の前にある場合、判断能力は確実に狂わされる。確率的な正しさは意味を持たなくなり、信じられないようなミスと不運が理不尽に襲ってくる。対戦相手以上に、プレッシャーという強敵が立ちふさがる」


 大金を賭けた勝負に限って、負けてしまうのはなぜか?

 全てを賭けた最後に限って、負けてしまうのはなぜか?


 それは、そもそもギャンブルというのは負けるものだからだ。


「ギャンブルで勝つためには、負けをコントロールする必要がある。常勝というのは不可能なんだ。長く続ければ続けるほど、確率的な壁が立ちふさがる。その中で、小さく負けて大きく勝つ。それを続ける奴が、勝ち越せるギャンブラーというものだ」


 しかし、億が掛かった勝負では、それが許されない。


 一度の負けが致命傷になる勝負。


 運否天賦が関わる勝負は、どんなに最適な行動を取ったとしても、悪い結果を引く確率が一定数存在する。故に、負けられない勝負をすればするほどに、どこかで致命的なババを引く瞬間を迎えることになる。


「億の勝負が怖いのは、その金額が人一人に背負えるものではないからだ。百万なら身一つになる覚悟があればなんとかなる。一千万なら破滅を覚悟すればいい。だが、一億という金額は大抵の場合、自分ひとりの問題ではなくなる。必ず周囲を巻き込むし、必然的に負けることの出来ない戦いになる」


 ああ、その通りだ。

 私は今、それを嫌というほど味わっている。


 なら、どうすればこの胃痛は止まると思いますか、伯父さん?


「そうだな。仮に億の勝負を平常心でやる方法があるとすれば――まあ、個人の資産が百億でもあれば良いんじゃないか? つまりそういうことだ。本質としては、負けたら取り返しがつかないから億の勝負は破滅する。それは、百万だろうと一千万だろうと、その当人の財布事情次第っつー、身も蓋もない話なんだが」


 本当に身も蓋もない話だ。

 私の伯父は大切なことをたくさん教えてくれたけれど、それは全部、致命的な状況を回避するためもので、都合のいい逆転やご都合主義の成功ではなかった。


「いいか、みーちゃん。ギャンブルは遊びでやるもんだ。負けられない勝負なんてもんは、するべきじゃあない」


 伯父やその関係者の男たちからは様々なギャンブルのイロハを教わったものだが、その中でも、私の中に一番根付いているのはこの教訓だ。


 ギャンブルを知ろうとするな。知ろうとすればするほど飲まれるだけだ。


 勝つことだけを考えると視野が狭くなる。

 負けが見えない時は、必ず死角に落とし穴がある。


 そして負けが濃厚になると、勝つことよりも楽になることを考えるようになる。

 先が見えない濃霧の中で、結果を求めて負けを望んでしまう。


「破滅はロマンだ」


 伯父はギャンブラーが身を滅ぼすことを否定しなかった。


「博奕に身を費やした人間は、必ず破滅願望を抱く。成功体験よりも失敗をより身近に感じる様になり、捨て身になることを何よりも潔いものと感じるようになる。なぜなら、それはすごく気分がいいからだ」


 古今東西、ありとあらゆる創作物において、ギャンブルは破滅とともに語られる。

 仮に成功しても、最後には必ず何かを失うことになる。

 それはもはや、お約束というものだ。


「スリルを楽しむお前は、そのうち自分から破滅に向かうだろう。それを否定はしない。さんざん好き勝手にやってきた俺がとやかく言うことじゃないからな。だからこれは、経験者からの忠告だ。みーちゃん。いや、みやび。負けられない勝負だけは絶対にするな」


 破滅するのなら、一人で堕ちろ。

 誰かを巻き込むような、負けられない勝負なんて、はじめからするもんじゃあないと――



※ ※ ※



「う、ぐ――ごぼ、おぇえええええええ!」


 嘔吐物がテーブルの上に撒き散らされる。


 昨日から飲み物以外は何も食べていないから、こぼれてくるのは胃液混じりの水分だけだ。胃酸の酸っぱい匂いが鼻を突き、喉元が灼けるような痛みが断続的に繰り返される。


 私はテーブルにしがみつくようにしてしゃがみこんでいた。必死で呼吸を整えながら立ち上がろうとするが、よろけて自分の嘔吐物に膝をつく。


(負けた、負けた、負けた負けた負けた――)


 三億五千万円。

 それは、限界だった。


 私が自分で用意したお金、六千万円。

 櫻庭さんから借りたお金、五千万円。

 黒井先生から借りたお金、四千万円。

 胡桃ちゃんに借りたお金、四千万円。

 環季ちゃんの父親のお金、一千万円。

 无影からの手打ちのお金、五千万円。

 赤津組に用意させたお金、一億円。


 合計――三億五千万円。


 足りなかった。


 ここまで、勝つための理屈を詰めてきた。難攻不落のカジノの女王を落とすために、理詰めで彼女の精神を切り崩し、正常な判断ができないように攻め立てた。

 けれど足りなかった。

 あと一歩の所まで来ているのを感じる。そのあと一歩、最後のピースが必要だ。


「ぐ、う、ぅうううううううう!」


 限界なのだ。


 もう、これ以上は無理なんだ。三億五千万。ここが、一色雅がかろうじて引き返せる分水嶺だ。櫻庭さんのお金は返せない金額じゃない。胡桃ちゃんと黒井先生には頭を下げてなんとか待ってもらおう。赤津組の一億は、そもそも借金じゃないってすっとぼけるしか無い。それでも、まだ私に利用価値があると思ってもらえれば、櫻庭さんが間に入ってくれるだろう。それに最悪、伯父に泣きつけばどうにかしてくれるという甘えもある。


 だから、ここが最後だ。

 これ以上は――限界なんだって、言ってるのに――!


「あ、ぁあ、ぁああああぁあああああ!!」


 やめた方が良い。


 そう、私の中の感情的な部分が叫ぶ。もう嫌だ、もう逃げたいと、泣きじゃくりながら懇願する。もうやめよう。負けてもいいじゃないかと、甘言を耳元でささやく。追い詰められた感情が、目の前に見える敗北へと飛びついてしまいたくなる。


「――は、ぁ。あ、ぁあ」


 臆病風を押さえつけながら、私の冷静な部分がテーブルを凝視する。


 嘔吐物がレイアウト上にかすかに散っている。かろうじて汚れるのを免れた札束が回収されていく。ポツポツと続く赤い血痕。その先には、正面に立っているルーレットディーラー。額から血を流して、髪を振り乱しながら血の気の引いた顔をしている。ほんともう、お互いにひどい顔をしている。年頃の娘が、鬼気迫った顔で何してんだろうね。


 

 あとは覚悟を決めるだけだ。


 ――辞めておけ。駄目だ。これ以上は本当に無理だ。櫻庭さんは確実に追い込みをかけてくる。伯父にだって頼れない。それどころか、周りの誰かすらも犠牲になる。これはそういう選択だ。だから限界なんだって。お前だって分かっているだろう。その先は破滅しか無い。自分だけじゃなく誰かも巻き込むような破滅。それでも、お前は――


 限界を――越えられるのか。


「う、ぅぐううううううううううう」


 獣のような唸り声を上げながら。

 私は服のポケットにしまった一枚の紙を取り出した。



 ■ ■ ■


 ――負けられない勝負なんて受けるべきじゃない。


 かつての伯父は、そう言った。


 けれども、人生は何が起こるかわからない。賭博に身を費やしていく以上、いつ負けることの出来ない勝負に片足を突っ込むことになるかわからない。現に伯父は、望むと望まざるにかかわらず、幾度となくそういった億の勝負に巻き込まれた。


 そんな時に、どうすれば良いのか。


『どうしても勝負をしなきゃいけない時。その時は――


 足踏みするのが、一番の悪手だと。

 その先が奈落だとしても――前のめりになって負けてみせろ。



 ※ ※ ※



 頭がぼんやりとする。


 額から流れる熱いものが、急激に熱を引いていく。反射的に額を拭って、環季はようやく自分が出血していることに気づいた。


 視界に違和感があると思ったら、伊達メガネが外れていた。レンズに度は入っていないのだが、裸眼で見る風景は普段よりもクリアに映った。


 一ノ瀬みやびが、嘔吐して崩れ落ちた。


 積まれた札束が払いのけられ、レイアウト上に嘔吐物が撒き散らされる。酸っぱい匂いが鼻をつき、急激に現実に引き戻される。


「は、――ぁ、は、は、は」


 どっと疲労感が全身を襲う。

 一種のゾーン状態から現実に戻り、肉体の疲労を自覚した。両足の力が抜けそうになり、環季はつんのめりながらかろうじてテーブルにしがみつく。


 勝った。

 勝った、勝った、勝った、勝った――


 手応えはあった。

 相手の資金に大打撃を与えたのを感じる。ヒットチャレンジルーレット、みやびの挑戦回数はあと一回残っているが、さすがにもう、資金の底をついただろう。


「やったぞ、勝ったんだ。環季!」


 新藤が喜んでいる。まるで自分で勝利を掴み取ったかのように、大げさに喜んでいる。


「はは! 見ろよ環季。あいつゲロ吐いてやがる。みっともねぇ。ぎゃはは!」


 その下品な笑い声に、やめた方が良いと言いたくなる。


 ギャンブルで負けた敗者を無邪気に笑えるのは、自分が賭けに参加していないからだ。当事者意識があれば、億の勝負で相手を笑うことなんて出来ない。お金という形でお互いの肉と骨を削っていくような感覚は、生々しい感触となって残っている。


 それに――敗者を追い詰めると、何をしでかすかわからない。

 命がけの戦いというのは、絶体絶命であればあるほど、最後のあがきが怖いのだから。


「――櫻庭さん!」


 顔を伏せたまま、みやびが大きな声を出した。


 テーブルに両手をついてかろうじて立っていたみやびは、ヨロヨロと赤いジャケットの胸ポケットに手を伸ばすと、一枚の紙を取り出した。


 それをテーブルに叩きつけながら、睨むように背後を見た。


「お願いします! ――!」

「承知しました」


 言葉とともに、櫻庭は足元にあったアタッシュケース二つを抱えて近づいてきた。彼はルーレット台までやってくると、みやびが置いた紙を手に取って開く。


「借用書、確かに受け取りました」


 櫻庭は借用書の中身を検めると、そのままアタッシュケースを持ち上げてテーブルに置く。

 そして、ケースのロックを解除して中を開いてみせた。


、融資いたしましょう」

「な――!」


 気を抜きかけていた精神に衝撃が走る。


 金額が頭に入ってこない。におくごせん、確かにそう言った。言葉は耳に入ってくるのに、意味を理解するのに時間がかかる。


「ふ、ふざけんな!」


 気が遠くなりそうになっていると、後ろから新藤が怒鳴りだした。


「今更資金の追加とか、認められるか!」

「お言葉ですが、新藤さん。はじめに私は確認いたしました。賭け金に上限はないと。他でもない、あなたの口から言質をとったのですよ」


 櫻庭の淡々とした言葉に、新藤はわずかに怯む。

 しかし、すぐに意気込んで文句を言った。


「だ、だからって、お前が貸すのはおかしいだろ。お前はこの勝負の立会人じゃねぇか! そんなやつが、一方の肩を持つようなことして良いと思ってんのか!」


 新藤の言葉に、櫻庭は冷めた目を向けながら小さく鼻を鳴らした。


「この借用書は、一週間前に取り交わしたものです。今日の勝負が始まる前に書かれたものを、今受け取り、融資金を手渡しただけのこと。今日の勝負とは何ら関係ない、私と一色さんの間で交わされた契約を履行しただけのものです。肩入れなど、とんでもない」

「そんな屁理屈――」

「それに、仮に肩入れをしたとして――


 前提をひっくり返すような櫻庭の言葉に、新藤は「は?」と呆気にとられたように言葉を失う。

 そんな彼を邪魔な雑草でも見るような目で見ながら、櫻庭は続ける。


「勘違いをしているようですが、私の仕事は、赤津組と无影の抗争を止めることです。そのために必要だからこの勝負をセッティングしただけで、勝負の過程などどうでも良いのです。むろん、立ち会いをする以上は公正を期すよう見守りますが、それ以外の部分で誰が何をしようと、知ったことではない。例え――勝負のあとで、あなたがどんな目にあおうと」

「……は? 何を、言って」

「まだわかりませんか。ならば、もっと直接的に言いましょうか」


 櫻庭は屠殺者のような冷めた目で見下しながら、乱暴な言葉で言った。


「ヤクザを舐めてるから痛い目を見るんだ、ガキが」


「――っ! 環季!」


 櫻庭の脅しに身を震わせながら、新藤は八つ当たりでもするように叫んだ。


「良いからやれ! 後一回だ。二億だろうがなんだろうが、知ったことか! 要はお前が外さなきゃ良いんだ。後一回で――そこのクソ女とヤクザ共にとどめを刺せ!」


 とどめを刺せ。

 その言葉に、環季は自分の右手を見下ろした。


 額を拭った時の血が汗で滲んでいる。散々ルーレットのボールを投げ込んできた右手は、かすかに震えていた。指先の感覚が鈍い。血が通っている感覚はあるのだが、血の巡りはいつもより緩慢で、まるで他人の手を眺めているような気分だった。


 後一回。

 あと――いっかいだって?


「うん、分かったよ、ケイちゃん」


 求められたんなら、やらなきゃ駄目だ。


 だってそれはダメ出しではなく、環季ならやれるという期待なのだ。どこかの謎の生き物のように、環季の行動一つ一つを否定するものではない。環季の技術を肯定するものだ。


 だから、やらなきゃ。

 不確定な未来なんかじゃなくて、確実な結果を叩き出さなきゃ――


 一度途切れた集中力をかき集めながら、環季は深呼吸をした、


 その時だった。


「ねえ、鯨波さん――」


 みやびがよく通る声で言った。


「これでもまだ、足りないかな?」


 いつの間にか、一ノ瀬みやびは立ち直っていた。



 ※ ※ ※


 一ノ瀬みやびは、椅子に座り直していた。


 さっきまで息も絶え絶えだったというのに、今はふてぶてしくテーブルに肘を付き、頬杖をついて不敵に笑っている。彼女が見ているのはテーブルの向かいにいる環季ではなく、後ろで観戦している鯨波だった。


 声をかけられた鯨波は「はは」とカラッとした笑いをあげた。


「五分にはなった、と言おうか。ま、そうだな。これは――


 そう言って。

 鯨波はテーブルに近づいてきながら、懐から長財布を取り出す。そして、札束ではなく紙切れを数枚取り出した。


「まずは、五千」


 言いながら、鯨波はその紙切れをテーブルに置く。


「も一つ重ねて、五千」


 その紙切れは、小切手だった。

 取引銀行、振出人、届出印――必要事項が全て揃った、現金と同等の価値を持つ有価証券。


「さらにもう一枚で五千――サービスで、もう一枚、五千」


 合計四枚。

 金額欄に『金伍千萬円也』と書かれた小切手を四枚、振り出した。


「悪いね、今邑ちゃん。勝ち目も見えたことだし、賭けに乗らせてもらうわ。二億。賭けるのは――アンタが外す方にだ」

「………っ」


 目の前に積まれた現金を見る。


 アタッシュケースの二億五千万。

 小切手の二億。

 合計で四億五千万――その金の圧力に、自然と呼吸が浅くなる。


「は――はは。馬鹿ですね。そんなことしたって、今邑は出目を外したりしないんですよ」


 内心の動揺をさとられないようにしようと、環季は無理やり笑ってみせる。


「今まで何を見てきたんですか、あなたたちは。一度だって今邑が外した所を見たことも無いくせに、そんな馬鹿みたいな大金を賭けるなんて。頭がおかしいんじゃないですか?」


 おかしいに決まってる。

 だって、あまりに現実味がない。


 なんでこの人たちは、一億や二億をあっさりと出してくるんだ。百万や一千万だって、本来だったら気の遠くなる金額なのだ。それなのに、環季の前に並んでいるのは目がくらみそうになるほどの札束の山だ。こんなの――正気じゃ居られない。


 懸命に現実を見据えようとする環季に、鯨波が言った。


「なあ、今邑ちゃん。大丈夫か?」

「大丈夫って、何が」

「だってアンタ――『』?」


 まるで面白いことでも言ったように、鯨波は露悪的な笑みを浮かべる。

 何がそんなに面白いのかわからないが、少なくとも環季は、図星をつかれてドッと冷や汗をかいた。


 そんな環季をよそに、みやびが呆れたように言った。


「ちょっと鯨波さん。この緊迫した所で漫画ネタとか、気が抜けるんでやめてくださいよ」

「何言ってんだ。こういう状況だからこそ真似したくなるんだろ」

「まあ、気持ちはわかりますけどね。でもせっかく言うなら、『あんた、背中が煤けてるぜ』って感じじゃないです? だって――」


 負けが見えてきてるんですから。

 みやびは頬杖を付いたまま、口角を歪めて環季を見つめ返す。


 彼女たちが何を言っているのかはわからないが、少なくとも、環季が追い詰められているのは確かだった。

 じっとりと粘つくような空気が足元から引きずり降ろそうと迫ってくる。足元の感覚が鈍くなり、それはやがて、全身に広がっていく。


 呼吸は浅く、意識は薄くなる。

 心臓の音がうるさい。どくどくと血液がめぐる音が耳元で響いている。指先がしびれ、視界が狭くなる。額からこぼれた血が口元に入り、鉄の味が口内に広がる。


 落ち着け、落ち着け、落ち着け。


 まるで酩酊したように前後不覚になる意識を、必死でかき集めていく。このままでは負ける。それだけは嫌だ。だってルーレットは環季にとって唯一無二なのだ。先の見えない人生の中で、唯一絶対のものとして信頼できる現実。人の感情や考えは分からないけど、ルーレットの結果だけは分かる。


 環季のルーレットは突然怒り出さないし、理不尽に裏切ったりしない。

 ルーレットだけが、環季の心の支えなのだ。


 なのに、視界に霧がかかる。

 濃霧が立ち込めて、一歩先が見えなくなる。


 ボールを握っても、震える左手でウィールに手を伸ばしても、霧は晴れない。


「何やってんだ、環季!」


 見通しが悪い中で、何も知らない男の怒鳴り声だけが聞こえる。


「ダラダラやってんじゃねぇぞ! まさか、手を抜こうってんじゃないだろうな! お前、そんなの許さねぇぞ。負けたら承知しな――」

「ケイちゃんは黙ってて!」


 環季は思わず怒鳴り声を上げた。

 うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさい!


「うるさいよ、みんなみんな、うるさい、うるさいうるさい! なんで黙っててくれないの。なんでそんなに責め立てるの! 今邑、なにかした? なんでこんなに今邑を苦しめるの。今邑、こんなに苦しいのに、なんで許してくれないの。今邑はただ、いつもどおりルーレットをしているだけなのに、なんでこんな思いをしなきゃいけないの。もう嫌なんだよこんなの! ねえ、なんでなのみやびちゃん!」


 環季は金切り声を上げながら、すがるようにみやびを睨んだ。


 苦しくて、辛くて痛くてうるさくて。

 それを与える、目の前の女が憎くて仕方がない!


「答えてよ、みやびちゃん! なんで今邑をいじめるの!」

「言いたいことはそれだけかな、環季ちゃん。だったら、早くボールを投げてよ」


 対するみやびは、冷静だった。

 不敵に笑みを浮かべたまま、彼女は淡々と、環季のことを促してくる。


「これは勝負なんだから、決着を付けないと。ほら早く。今更出来ないなんて言わないよね?」

「み、みやびちゃん……?」

「環季ちゃんは今まで、ルーレットで人を不幸にしてきたんだよ。だったら、その責任は取らないと。今更勝負を降りるなんて、そんなこと許されるわけないじゃない」


 何を言ってるの?

 環季が人を不幸にしたって、そんなこと――


「やってないだなんて言わせないよ、環季ちゃん。ギャンブルで相手を負けさせるってことはね、そういうことなんだよ。お金を奪うってことは、とても生々しくって暴力的なことなんだ。もしかして気づいてなかった? だとしたら甘かったね」

「い、今邑は、言われただけで――」

「言われたら人を殺しても良い、なんてことは無いよね」


 ゾッと、背筋に冷や汗をかく。

 体中の体温が急速に奪われていくようだった。指先のしびれが強くなる。自然と呼吸が浅くなり、視界が遠くなるのを感じる。


 震える環季に、みやびは不相応にニコリと笑った。


「でもね。私は環季ちゃんを責めてるんじゃないんだ。ただ、わかってほしいだけ」


 え、と吐息を漏らす環季に、みやびは優しく言い聞かせるように語りかける。


「ギャンブルってのは勝負の結果が全てなんだよ。環季ちゃんが勝ってきたのは正しいし、負けた方が全面的に悪い。両者合意の略奪行為のことをギャンブルっていうんだ。勝負のテーブルに付いた時点で、どんな結果も許される。ギャンブルなら、


 だから、早く投げな。

 みやびは笑ったまま、奈落の底に環季を誘う。


「そのルーレットで私を殺して見せてよ、環季ちゃん」

「あ、……ぁ、あぁああああああああああああああああああああああ!」


 環季は再び額をテーブルに叩きつけた。


 消えろ、消えろ、消えろ、消えろ。


 頭の中で淀む雑念。余計なことを考える感情。すがりたくなる甘え。耳を覆いたくなる雑言――全部消えてしまえ。霧が邪魔だ。こんなものがあったら、当たる未来が見えない。いらない、いらない、いらない。感情なんていらない。私がやることはボールを投げるだけのことなんだから、こんな余計な感情なんていらない!


 さっきはこれで消えてくれたのに。

 なのになんで、何度頭をぶつけても、この邪魔な感情は消えてくれない――!


「う、うぅ、うぅううううう」


 殺せだなんて。

 そんなこと言わないでよ、みやびちゃん。

 平気そうな顔で、そんな残酷なこと、言わないでよ……。


「みやび、ちゃん……」


 涙なのか血なのかわからないもので目が痛い。


 目元を乱暴に拭いながら環季は顔を上げる。平気な顔でひどい言葉を向けてくるみやびのことを、すがるように見上げた。


「あ……」


 ――そこに、推しの姿があった。


 平気そうな顔、じゃなかった。

 一ノ瀬みやびは顔面蒼白だった。頬杖をついているのは、それ以上体を支えられないからで、身体は小刻みに震えていた。不敵に見えた笑みは、痛々しいほどに引きつっていた。目元の隈は病的で、涙と嘔吐物にまみれた顔は見るに耐えないほど汚い。


 けれど、その姿はあまりに眩しかった。


「そんなの、ずるいよ」


 思い出す。

 五年前、父親に隠れて夜遊びをしていた頃。


 友だちに初めて連れて行かれたライブハウスで、同じものを見た。


 ジャージ姿でテーブルや椅子を運んで、設営を手伝っていた女性が居た。

 汗とホコリにまみれながら、彼女は歯を食いしばって重いものを運んでいた。スタッフに怒鳴られながら、懸命に搬入を手伝っていた。

 そんな泥臭い格好をしていた人が、一時間後にはきらびやかな衣装を着てステージ立っていた。


『一ノ瀬みやびです。今日はありがとう! 出来たら私のこと、覚えて帰ってね』


 トーク込みで五分ほどの出演時間しかなかったが、その姿は環季の目に焼き付いた。


 裏方で汗にまみれた表情。

 ステージで振りまく笑顔。

 舞台裏の苦労などおくびに出さず、キラキラと輝いて見せるその姿が、あまりにも眩しかった。


 そんな憧れのアイドルが、今、目の前に居た。


「ああ」


 理解した。

 それとともに、みやびの顔がよく見えた。


「みやびちゃんも――苦しいんですね」


 霧が晴れていく。

 その向こうで、一ノ瀬みやびが微笑んでいる。


「うん。環季ちゃんもそうでしょ?」


 そうだよ。

 わたし、ずっと苦しかったよ。


 ボロボロと涙が溢れる。きっと今、自分はひどい顔をしている。髪は掻き乱れ、目は血走り、顔は血と涙でぐしゃぐしゃだ。こんな姿で推しの前に立っているなんて恥ずかしい。


 環季は右手に持ったボールに目を落とす。


 霧は晴れたけど、ボールが落ちる位置は見えなかった。あまりにも紛れが多すぎる。それは、ウィールに手を伸ばしても同じだった。


 いつもだったら、先が見えないことが怖くて仕方がなかった。

 望んだポケットにボールを落とすために、綱渡りを繰り返してきた。薄氷を踏む思いで、ボールを投げてきた。些細な現象も見逃さず、あらゆるものを考慮して、神経をすり減らしながらルーレットを回してきた。


 でも今は――その全てを放棄する。


「ギャンブルは結果が全てって言いましたよね、みやびちゃん」

「うん。言った」

「なら、良いです。殺されても」


 環季はウィールを回し、ボールを投げ入れる。


 スピンアウト。

 ボールがトラックを回る十数秒。周囲の人間たちが固唾を飲んで見守る中、環季は憑き物が落ちたような顔でニコリとみやびに笑いかけた。


 やがて、ボールは一つのポケットに落ちる。


 その結果を見て、周囲が沸き立つ。

 動揺と歓声。後ろで恋人という関係だった男が喚いているが、もう聞こえない。求められる必要がなくなったのだから、未練はなかった。


「黒の2番。お客様の勝ちです」


 宣言をして、大きく息をついた。

 涙が止まらない。悲しいわけでもなく、嬉しいわけでもない。なぜかボロボロと溢れる涙は、きっとこれまでの二十二年を洗い流すものだった。


 清々しい気持ちになって、環季は本音を口にした。



「推しに殺されるなら、本望ですから」



 変則ルーレット勝負。ヒットチャレンジルーレット。


 十回戦の賭け金は四億五千万。


 三倍配当により、勝ち金は十三億五千万円。


 賭け金を引いた収益は九億。

 そのうち、三億五千万円の負けを引き、純利益は五億五千万円。


 これにて決着。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る