15.今邑環季の作り方



 今邑環季は父子家庭で育った。


 母親は物心つく頃には家を出ていた。

 父を見限って駆け落ちをしたと聞いているが、正しくは、厳格な父のやり方についていけなくなったのだろう。


 父は厳しい人だった。

 それは教育熱心という話ではなく、神経質なほどに自分の感覚に厳格な人だった。


 日常生活のあらゆる所で、環季はダメ出しをされた。「起床の時間が一分遅い、寝坊をするな」「食事の咀嚼の時間が三秒短い。もっと噛みなさい」「あいさつをするのが六秒遅い、失礼だ」「口を開くのが一秒早い。人の話を遮るな」――ありとあらゆることを、時間を区切られて遅いだの早いだのと怒られた。


 今なら分かる。秒数など反射で言っているだけだ。


 なぜなら、環季がどれだけ正確に時間を測って行動しても、必ず『何秒遅い・早い』と言ってくるのだ。自分のものさしで何かしらイチャモンを付けてくる。

 答えが欲しかった環季は何度も教えを請うたが、そのたびに『自分で考えろ』と言われ、『なんでこんな事もできないんだ』と理不尽に怒られた。


 それでも、たまに怒られないことがあった。

 父の機嫌のいい時だけでなく、なんとなく、父が怒りやすい間合いがあることが分かってきたのだ。

 例えば呼吸の合間だとか、例えば次の行動をする前の一瞬だとか――そういう独特の間をつくために、環季は同じことを再現できるように努力した。しかし、それも無駄だとすぐに気づいた。父が注意する前に行動するとそれを理由に怒られたからだ。


 親を馬鹿にしている。

 人を舐めた態度をしている。

 幾度となく繰り返されるその言葉は、耳に馴染んでしまった。


 あら捜しをしてまで説教をしてくる父のことを、次第に環季はそういう生き物なのだと認識するようになった。家族というものには絆があると言うが、環季は父親に絆など感じられなかった。同じ人間だと思えない。何か得体のしれない、文句だけを言ってくる謎の生き物。環季の生活は、その生き物の逆鱗に触れないように気をつけるだけの毎日だった。


 それはまるで、地雷原をかき分けるような生活。

 地雷が爆発するたびに謎の生き物は暴力を奮った。体と心を傷つけられたが、いつの間にか痛みは日常になった。


 謎の生き物は、外面だけはいい人間だったため、外ではその異常性を発揮しなかった。代わりに、自分の娘を管理することには人一倍神経質だった。そのため環季は、中学まで夜遊び一つしたことなく、優等生として周りから見られていた。


 そんな彼女の生活が大きく変わったのは、高校生になった頃。謎の生き物は仕事が忙しくなって家を空けがちになり、環季自身も受験のために学習塾へと通わされるようになって、次第にすれ違いの日々が続くようになった。


 父親と顔を合わせない生活は快適だった。


 それまでの十五年間で持つことのなかったプライベートというものを、環季はようやく手に入れたのだ。塾に通うという大義名分を元に、環季は熟が終わった後に少し遊んで帰ると言った、年相応の夜遊びを覚えた。


 だが、それを父が許すわけがなかった。

 謎の生き物はある日、環季が塾から出てくるところを待ち構えて連れ帰った。


 表向きには、仕事帰りに娘を迎えに行く優しい父親だ。しかしその実態は大きく違った。環季は家に帰るまでの間、ひたすら日常の行動を報告させられ、少しでも矛盾点があると詰められた。行動の一つ一つに理由を求められるという行為は、環季から自我を奪うに十分だった。


 必要以上に過干渉をしてくるくせに、環季から関わろうとすると拒絶するのが、父という縦書きを持った謎の生き物の生態だった。三者面談は仕事が忙しいからと断られ、進路の相談は自分で考えろと突っぱねられた。その割に、大学は理系以外を選ぶのは駄目だと後から言ってきたり、その時の気分で話をしてくる。まともに相手をするだけ時間の無駄だった。


 環季は次第に、謎の生き物の観察日記をつけるようになった。


 機嫌がいい日と機嫌が悪い日。理不尽な注意をしてきた時と、もっともらしい注意をしてきた時。忙しそうにしている日と構ってもらいたがっている日。終いには、朝イチで姿を見るだけで、その日の機嫌を察することが出来るようになった。


 そして、父の機嫌を縫うようにして、環季はプライベートを確保するようになった。


 父が出張で不在な事が増えてくると、環季は夜の街を出歩いた。

 友だちに誘われて地下ライブに行ったり、繁華街の若者の集まりに顔を出したり、夜通しカラオケを楽しんだり――ほとんどは悪い友だちに誘われて流された形だが、それでも、嫌な体験ではなかった。


 一人の時は、もっぱら、パチンコ屋に並べられた景品のフィギュアを眺めていた。

 不思議と目を引いたのは、飾られたアニメのフィギュアが綺麗だったからだ。人の見世物になる造形美は、見ていて飽きなかった。

 父の目をかいくぐりながら非行を繰り返すような、自分の見るに堪えない汚さが気持ち悪くて、飾られた人形の潔白さに惹かれたのだと思っていた。


 いやまあ。

 あとで考えると、単にアニメが好きなだけだったとも言えるけれども。


 新藤と出会ったのは、その時だった。


「何お前、それ好きなの?」

「え、……えと、その……」

「ふぅん。可愛いじゃん。どれが欲しいの?」


 制服姿でパチンコ店の前に立ち尽くす女子高生なんて、襲ってくださいと言っているようなものだ。しかし当時の環季はまだそんな危機感なんて持ってなくて、当時の新藤はまだ半グレチームも作っていないような、互いにまだ足を踏み外していない頃だった。


 取ってきてやるよ、と言ってパチンコ店に入った新藤は、その一時間後に、アニメのフィギュアが入った箱を抱えて出てきた。


「ほい、これが欲しかったんだろ?」

「そんな……悪いです。こんな高価なの」

「別に。ちょっと勝ったら交換できたから、元手はかかってねぇし良いよ。普通に買ってもそんなしねぇだろ。それよりお前、こんな夜にブラブラしてっと危ないぞ」

「それは……あなたみたいな人に、声をかけられるってことですか?」

「はは、言うじゃねぇかこの」


 冗談めかして、新藤はコツンと頭を小突いてきた。


 一瞬ビクリと身を震わせたが、その優しい感触に、環季はキョトンとしてしまった。拳が迫ってきた時点で大きな衝撃を覚悟したのに、拍子抜けしてしまった。


 新藤にもらったフィギュアは、父に見つからないように家の箪笥の奥にしまった。

 その日から、新藤とは夜の街で度々顔を合わせるようになった。



 日々は過ぎていく。

 どうも父には恋人がいるらしい。


 観察日記を付けていた環季は、その存在をようやく察知した。思えば環季が高校生になった頃くらいから、妙に出張が多くなったとは思っていた。


 環季には散々干渉するくせに、自分は裏で恋人を作って好きにやっていたのだ。そのことに思うところがないわけじゃなかったが、深くは追求すまいと思った。父はすでに離婚しているので不倫にはならないし、それに環季に向けられる依存が見知らぬ恋人に分散するのなら、それで十分だと思ったからだ。


 あと一年で環季は高校を卒業するし、そうなれば自立できる。


 もちろん、大学に行く間は父からの過干渉も続くだろうけれど、嫌になれば家を出ればいいだけの話だ。

 もうその頃には、環季は父に束縛されることに意味を見出していなかった。相変わらず父からはどんくさい娘として扱われていたが、外には自分を必要としてくれる人がいることが分かったのだ。認めてくれる人がいるのなら、その人の元に行くだけだと、そう割り切り始めていた。


 だが、甘かったと反省することになる。

 割り切っているつもりだったが――十八年の積み重ねは、確実に環季の中に蓄積していた。


「環季。俺に隠れてこんなものを買って、何のつもりだ」


 前兆も何もなく、急に怒鳴られた。


 おかしい、今日は機嫌がいい日のはず。朝のひげそりの時に泡立ちが良かったおかげで口角が二ミリ高かったし、アイロンを掛けたワイシャツが気に入った色だったので着替えるのが一分早かった。それに、朝食後にテレビを見る時間も三分も長かった。気が長く、落ち着いた日。こういう時は、仕事も順調に進んで機嫌が良いはずだった。それなのになぜ――


 不機嫌の理由はすぐに分かった。

 リビングのテーブルの上に、新藤からもらったアニメのフィギュアが置かれていた。


 どういうつもりだ、と追求される。


 言い訳が効かない状況は久しぶりだった。最近は理不尽に詰められても、事前に答えを用意していて難を逃れることが多かった。しかしこのアニメのフィギュアに関しては、そんな答えは何も用意していなかった。


 しどろもどろになりながら、友だちにもらったのだと説明する。万引でもしたのではないかと疑われたが、そんなことはしていないと懸命に訴える。しかし信じてもらえない。疑心暗鬼の化け物。思い込みが激しく、他罰的で性悪論の信奉者は、とにかく人を悪者にするのに躊躇がない。たかがアニメのフィギュアを隠していただけで、環季はまるで強盗殺人でも犯したかのような責められ方をした。


 ひびが入る。

 塗り固めた表情が割れていく。補強していた心が崩れていく。かろうじて保っていた精神が粉々にすり潰されていく。


 最後には謝罪を繰り返すだけの機械と成り果てた。


 ごめんなさい、許してください。ごめんなさい。私が悪い子でした。ごめんなさい。もうしません。ごめんなさい。二度と悪いことはしません。ごめんなさい。反省します。ごめんなさい。なんでも従います。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――


 許してはもらえなかった。

 家を追い出された。


 普段は夜遊びなんて絶対に許さない父は、一晩帰ってくるなと環季を家から追い出したのだった。理屈が破綻している。けれども、それに文句を言う気力はなかった。


 茫然となったまま、環季は繁華街のいつものたまり場に顔を出した。


 仲間たちが心配してくれる。しかし、心が満たされることはない。原型を留めないくらいにすり潰された感情は、他人に助けを求めるだけの形すら保てていなかった。


 そのまま環季は、数日を夜の街で過ごした。ナイトクラブやラウンジ、バーと言った店を、悪友たちに連れられて点々とした。警察に補導されれば逃げ出し、近所の住人に通報されたら拠点を変えた。その日々の中、環季は少しずつ感情を取り戻していった。


 しかし、そんな日々は長くは続かない。


 環季を追い出した父は、自分で追い出しておきながら、一週間も経つと捜索願を警察に出したのだ。非行少女として警察に補導された環季は、あっさりと親元に帰された。


 連れ戻される。

 家に連れて行かれる。


 嫌だ、家は駄目だ。だって怒られる。謎の生き物が私を悪者にする。謎の生き物は悪いやつに容赦なんかしない。徹底的になじられて、尊厳を剥奪されて、人格を否定されて、殴られて、蹴られて、髪を引っ張られて、耳が壊れるくらい怒鳴られて、そしてまた無視される。そんな所に戻りたくない。嫌だ、私はもう嫌だ。怖い、苦しい、助けて、あの地獄から誰か助けて。


「助けて……」


 家に帰って、ソファーに座ってそうつぶやいた時だった。


 玄関のチャイムが鳴らされた。


 父は不愉快そうに舌打ちをした。これから一週間の外泊について環季に説教をする所だった。それを邪魔しやがってと、不機嫌を隠そうともせずに彼は玄関を開けた。


「はろー。強盗一味のおとどけでーす」


 それは、金属バットを持った新藤と仲間たちだった。


 彼らは環季の父を半殺しにして、家中の金目の物を奪っていった。ついでというように、環季のことも攫っていこうとした。

 環季が連れて行かれそうになった時、父は追いすがりながら無様に言った。


「娘だけは、娘だけは許してくれ。私はどうなってもいいから、娘だけは――」

「は? 何言ってんの、おっさん。それじゃあまるで、俺らが無理やり連れてくみたいじゃん」


 新藤の言葉に、父はわけがわからないようにキョトンとした。

 その姿がおかしかったのか、新藤は仲間たちとケラケラと笑いながら言った。


「あんたの娘は、自分で望んで出ていくんだよ。な、環季。こんな家にいたくないもんな? だったら、どうすればいいか分かってるよな」

「………うん」


 迷わず、環季は新藤たちの手を取った。


 背中から謎の生き物が罵詈雑言を吐いている。今まで育ててやった恩だの、親を裏切るのかだの、この犯罪者めだの、好き勝手に言っている。それらに背を向けて、環季は振り返らずに地獄から逃げ出した。


 それが、四年前。

 高校を卒業する直前に、今邑環季は家を出たのだった。



※ ※ ※



 吐き気がする。


 食道を酸っぱいものがせり上がってくる感覚が何度も襲ってくる。そのたびに唾液を飲み込んで嘔吐感をこらえた。

 勝負が始まってからずっと胃酸が胃を傷つけているのを感じるが、私はそれをおくびにも出さずに不敵に笑ってみせる。


 ストレスになら慣れている。こんなの、ぶっつけ本番の生放送や、直前でセトリが変わった合同ライブに比べたらなんてこと無い。山積みのCDが売れ残った経験や、トップアイドルの前座でステージに立った時の冷ややかな空気とか、そりゃあもう、胃が痛い経験なんて色々してきたんだから、こんなので嘆いてなんて居られない。


 内心の辛さなどアイドルが見せるわけには行かない。

 私は一色雅であるとともにアイドルの一ノ瀬みやびなのだ。ファンの前で良い格好が出来なくて、何がアイドルだ。


 私は必死で仮面をかぶりながら、環季ちゃんを追い詰める。


「悪いとは思ったけど、環季ちゃんの実家のこと、調べさせてもらったんだ」


 今邑数敏の名前を出した途端、環季ちゃんがあからさまに動揺を見せた。

 これは当たりだ、と思い、私はそのまま言葉を続ける。


「環季ちゃん、四年前に家出してから家に戻っていないんだってね。お父さん、心配してたよ。その証拠に、ほら。一千万なんて大金を出してくれたんだ。すごいよね」

「……心配?」


 顔を伏せたまま、環季ちゃんはポツリと呟いた。

 そのまま彼女は、左手をウィールに伸ばした。位置を調整して、回転を加える。それからすぐに、右手でボールを弾いた。


「あの人が、『』のことを、?」


 スピンされたボールが、トラックを走る。

 それを眺めながら、環季ちゃんは抑揚のない声で言った。


「そんなこと――


 ボールがポケットに落ちる。

 緑の0番。


 狙い通りの出目にボールを落としながら、環季ちゃんは急に叫びながら言った。


「私はあの人のことを捨てたんです。私みたいな悪人を、あの生き物が心配なんかするもんか!」

「………ッ」


 思わず――私は口元を抑えて顔を伏せた


 敵意を剥き出しにした環季ちゃんの視線を前に、私は吐き気を堪えきれなかった。負けた――八千万の勝負で負けた。これで負債は一億九千万。そのプレッシャーと、環季ちゃんの怒りを見て、私はなんとかその場で踏みとどまるのが精一杯だった。


 ああ、そうだよ、環季ちゃん。

 心配なんかしてなかったよ、あなたの父親は。


 その事実を、私は調査を依頼した黒井先生から聞いていた。

 黒井先生には、師匠筋である雲川流一氏だけでなく、環季ちゃんの家族の捜索もお願いしていたのだった。


 環季ちゃんの親族で見つかったのは、父親だけだった。メガバンクの行員をしていたその男は、環季ちゃんの名前を聞くとともに、こう言い捨てたらしい。


『娘は死んだ。だが、もし死人が迷惑をかけたのなら慰謝料は払う。いくらだ』と。


 せり上がってくる吐き気を堪えながら、私は必死で表情を取り繕う。

 急に怒鳴られてビビった演技をしながら、私はあくどい笑みを浮かべて言う。


「なぁんだ。分かってるじゃん……。自分が、親から嫌われるって」

「………ッ」

「そりゃそうだよね。だって、言う事なんて一つも聞かなかったもんね」


 落ち着くために、こめかみを指で叩く。

 せり上がる吐き気。脳裏を覆う靄。嫌な記憶が蘇る。


 トン、トンとその一つ一つを振り払いながら、私は環季ちゃんに言う。


「いつも怒られてばっかりで、迷惑ばかりかけて、邪魔者扱いされていたもんね。認められるように努力したかったけど、失敗だらけで失望されてたよね。怒られるのが怖くていっつもおどおどしてたもんね。それなのに、親を見捨てて一人で逃げちゃうような――そんな子どものこと、親が心配するわけないよね!」

「みやびちゃん……なんで、それを……」

「悪いのは環季ちゃんなんだよ。嫌われて当然なんだよ。悪い子は痛い目を見なきゃいけない。だから私だってやるべきことをする。覚悟してよね、環季ちゃん――!」


 金切り声を上げながら、私は次のアタッシュケースに手をかける。


 覚悟を決めろ、一色雅。

 ここが――正念場だ。


 私はアタッシュケースを乱暴に開くと、中から次々に札束を取り出す。

 一つ、二つ、三つ、四つ――それらをずらりとテーブルの上に並べていく。一千万の厚みはひと束10センチ。それを、都合十六個。

 積み上げるは札束の壁。

 城壁の如き札束の山を築き上げ、私は挑むように環季ちゃんを睨む。


 マーチンゲール法を継続。


 八千万の倍。

 つまりは――一億六千万!


「緑の0番にベット」


 吐き気をこらえる。

 すでに負けは一億九千万だ。それに加えて、今回のベット額は一億六千万。十分に破滅が見えてきた。それは環季ちゃんのではなく、もちろん私のだ。


 掛け値なしに、これは限界ギリギリだ。それでもまだ余裕があると見せなければいけない。資金の底が見えた瞬間が負けだ。金額で押していくと決めた以上、その武器が錆びついていることを悟られてはいけない。


 ああ、こんちくしょう。胃が痛い。

 過剰に分泌された胃酸が食道を逆流してくる。キリキリと湧き上がる痛みは、スリルなんてもので言い表せるような生易しいものではない。


 こんなものは遊びではない。

 私は今、全力で殺し合いをしている。


 現金という弾丸と、トラウマという刃物で、深々と傷つけあってる。


「ぐ、ぅううう」


 環季ちゃんはよろよろとテーブルに手をついた。

 彼女は鬼気迫る表情でうわ言のように一つの言葉を繰り返す。


「なんで――なんでよ。なんでなの……。なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで――」


 彼女はそのまま、空いた右手で何度か頭を乱暴に叩きはじめた。がん、がんと頭を叩く。赤いフレームのメガネがずれても気にしない。フレームが歪むほど、彼女は頭を叩いた。それだけでは飽き足らず、終いにはテーブルに顔を伏せて、唸り声を上げ始めた。


「ぁ、ああ、ぁあああああ!」


 ガツン、ガツンと、彼女はテーブルに頭をぶつける。

 その獣のような雄叫びに、勝負を見守る全員が戦慄する。そんな中で、私だけは必死で吐き気を堪え続ける。


「――は、ぁ」


 やがて――環季ちゃんは顔を上げた。


 メガネはフレームが割れてコトンと床に落ちた。

 髪が乱れ、鬼気迫った目は焦点があっていない。額を切ったのか、血がどくどくと溢れてくる。だらりと垂れた赤い血は、眉間から鼻筋を通って口元まで流れている。


 その傷を気にせず、彼女は大きく深呼吸をした。


 ああ、畜生。ルーティンに入った。

 こうなってしまえば、今邑環季は絶対だ。


「ノーモアベット」


 環季ちゃんはそう宣言すると、いつも通りにルーレットを回す。


 ウィールが回る。ボールが弾かれる。

 トラックを走るボールがポケットに落ちるのは、いつもどおり十数秒後。


 出目は――緑の0番。


「グリーン、シングルゼロ」


 先程までの動揺などおくびにも出さずに、環季ちゃんは冷ややかに宣言した。


「お店の勝ちです。お客様」


 さすがの貫禄。

 威風堂々とした出で立ちは、まるで高みから見下ろすかのようだ。


 絶対を体現するルーレットディーラー。

 正確無比なカジノの女王は、絶対の牙城にて札束の壁を圧倒する。


 その結果を見て、私は。

 ついに堪えきれずに嘔吐した。


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