第8話 嘘②


 暑い夏も、日が昇りきっていない朝だけは涼しいものだった。

 旅館【湯ノ花】の若女将、敷島月陽の朝は早い。昨日は慣れない夜更しをしたせいか、月陽は周りの仲居たちの前でもお構い無しに欠伸をしてしまった。



「若女将、おはよーっす」


「ふぁ~あ、おはよう唯……」


「どうしたんだよ、若女将。やけに眠そうじゃん?」


「ん~……ホンマ眠いわぁ~、ふぁ~」



 と、欠伸をまた一つ。あまりにも眠たそうな表情を見て、月陽に声をかけてきた長身の少女は軽く笑った。



「あんたたち、少し弛んでいるんじゃないかい?」


 

 背後から聞こえた声に、名前を呼ばれた二人の弛みきった表情は一変して強ばる。月陽に至ってはさっきまで自分にのしかかっていた眠気は、一瞬にして飛んでしまっていた。



「お、おばぁ……ちゃん……」


「お、女将……」



 振り返った二人の前にいたのは、額に刻まれた皺が年季を感じさせる老婆だった。目は凛とした眼光を放ち、簪を刺した白髪は見事に整えられている。



「月陽っ!」


「は、はいっ!?」



 有無を言わせない覇気を宿した老婆の声に、月陽は裏返った声で返答してしまった。



「その寝惚けた顔はなんだい! 仮にも周りの仲居たちの手本となるべき若女将が、そんなことで示しがつくものかっ! 今すぐ顔洗って目を覚ましてきなっ!」


「は、はい――っ!」


「そして唯、あんたもだよ。その捻くり返った頭をお客様に見せるつもりなのかい、今すぐ直してきなっ!」


「わ、わかりました!」



 指摘された途端、月陽は唯と共に大慌てで洗面所へ走っていった。

 すっかり飛んでいってしまった眠気が二度と戻ってこないようにと、念入りに何度も何度も冷たい水で顔を洗う。


 唯も寝癖で跳ね返った髪を水で濡らし、櫛で慣らしていく。

 しかしどうにも上手く決まらず、唯は悪戦苦闘していた。



「あ、お姉ちゃん。さっきお婆ちゃんから電話があって、もうすぐ帰ってく――」


「……花梨、おばぁちゃんならもう帰ってきてはるよ……」


「え、そうだったの? 電話もらったの、ついさっきだったのに……」


「でたよ、女将の悪戯電話。もうすぐ帰るなんて言っといて、実はもう家のそばまで来てるってやつ……。ホントに人が悪いよなー、女将……」



 愚痴りつつも必死に寝癖を整える唯だったが、やっぱり上手く整えられない。

 最終的には妥協して、くせ毛があまり目立たないようにと髪飾りでカモフラージュする作戦に打って出るのだった。


 ともあれ指摘された各々の要因を排除した月陽と唯は、花梨と共に厨房へと戻ろうとする途中、先程戻ってきた老婆――もとい旅館の女将と出くわした。



「ふむ……まぁいいだろう。身嗜みは接客業を営む上で当然のたしなみだよ、以後気をつけな」


「「はぁい……」」



 二人は同時に、老婆の叱責に対して低い返事をするのだった。



「おばぁちゃん、帰ってくるん明後日言うてはったやん。何で今日の、しかもこないな朝早うに?」


「昨日の遅くに連絡があったのさ、団体様から宿泊の予約を頂いてね。いつも贔屓にしてくれているお客様が来てくださるのに、アタシが骨休めで居ないなんて格好がつかないだろう。だから、こうして戻ってきたんだよ」


「団体様ねぇ~。これで今日も満室か、忙しくなりそうだ」



 大人数と聞いた途端、唯の顔は俄然やる気に満ちていた。

 意気揚々と厨房の方へ走って行く姿を見送ると、月陽も気持ちを引き締める。



「唯さん、張り切ってますね」


「そうみたいだね。月陽なんかより、よっぽど女将に向いてるよ」


「う、ウチかてやる気マンマンやっ! お客様がこの旅館を選んで来てくれはるんや、その気持ちに対して半端なことはせぇへんよ!」


「そう願いたいところだね。さて、朝から夕方までの仕事については月陽と花梨の二人に任せるよ。夜からは私が入る、それまでは茶室にいるから何かあれば教えとくれ」


「「はい!」」



 老婆に返事を返した月陽と花梨だったが、その返事があまりにも軽かったことに今更ながら気がつき血相を変えた。


 この後老婆の戻る茶室は今、とある人物が使っているのである。お客様でもなければ、どこの誰か素性もハッキリしない相手――西園寺幹久である。

 これはさすがにヤバイと思い、月陽は間を置かずして動いた。



「おっ、おばぁちゃん。せっかく帰ってきたんやし、まずはご飯なんてどう? お腹も空いてはるやろうし……」


「いや、食事は既に済ませておいたよ。厨房になぜか用意されていた、塩握りをいただいてね。あまりにも味がお粗末だったから、もうお腹は何も受け付けないさ」


「うっ!」



 幹久の為に用意しておいた塩握りが食べられたことより、お粗末な味付けと評されたことに少し傷つきながらも、月陽は食い下がった。



「ほ、ほなお風呂はどうや? 今丁度清掃し終わった所やから、沸きたての一番風呂がおばぁちゃんの疲れた体を十分に癒してくれはるよ」


「一番風呂を楽しみにされているお客様もいるかもしれないだろ。それを支配人であるアタシが奪うなんて言語道断、お風呂は夕方の清掃中にでも入らせてもらう」



 老婆にことごとく話のコシを折られ、月陽はどうにかしなければと考える。

 だが次の手を打つ前に、老婆と月陽、そして花梨の三人は幹久の居る茶室へとたどり着いてしまった。


 三人の内の誰もが手を触れていないのに、部屋の襖が独りでに開かれた。

 この部屋だけ最先端の機器が取り付けられ、襖が自動的に開く仕組みになっている訳もない。三人が驚くのは、至極当然の反応だった。



「おっと、おはようございます……」



 部屋の中から出てきた少年はどういう状況かはわからなかったが、ひとまず朝の挨拶を口にしたのだった――。


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