第7話 嘘①


 陽も沈み夜も更け込んできた頃、幹久はこれからどうすべきかを考えていた。

 明日この旅館を出たところで、再び行く宛も無い旅に戻るだけ。

 かといって幹久には、どうあっても西園寺家に帰るつもりはなかった。



「さて、どうするかなぁ」



 布団を被り、ウンウンと頭を悩ませていると、幹久は尿意を催してしまった。

 このまま我慢してやり過ごそうとも考えたが、限界を感じて直ぐにトイレへと向かうことを決意する。


 襖を開けて、物音を立てないよう一歩ずつ廊下を歩く。

 廊下の突き当たりまでやって来ると道は左右に分かれており、右は玄関、左は客間に続いているようだった。



「トイレはどっちだ? とりあえず玄関の方へ行ってみるか……」



 勘に従い、幹久は右へ進んだ。

 玄関を通り過ぎて奥に進むと、幹久は旅館の厨房らしき場所へ行き着く。



「あれ、ここは……厨房か……」



 どうやらこの道の先は、厨房で行き止まりとなっているようだ。明日以降の仕込みをやっているのか、もう夜中だというのに厨房の明かりがついている。



「あの後ろ姿……、若女将さんか?」



 幹久は厨房の入口扉を少し開き、中の様子を覗いてみた。

 するとそこで、若女将である月陽の姿が目に入る。



「西園寺様?」


「おわぁ!」



 全く警戒していなかった背後からの一声に、幹久は飛び上がってしまった。

 こらえていた尿意だけは開放してはならないと、膀胱に全ての意識を集中させ大惨事だけは起こさないように努める。



「ん、そこに誰か居るんどすか?」



 しかし大惨事を避けることはできても、声だけはどうしようもなかった。

 厨房の中にいた月陽にも気づかれてしまい、幹久は彼女の目の前に姿を現した。



「はぁ……はぁ……はぁ……。ど、どうも……」



「幹久? 何してはるん、こんな夜中に息荒くして。しかも、なんで内股?」


「と、トイレを……探してたんだ……。どこに……あるんだ……?」



 膀胱の臨界点を今にも超えてしまいそうな状況に、幹久は恥を忍んで聞くことにした。

 キョトンとしていた月陽と花梨だったが、幹久の心情を察したのか「トイレはココ出て、まっすぐ行った突きあたりや」とトイレのある場所を指で示す。


 お礼を言うと同時に背後へ振り返った幹久は、来た道を早足で戻る。

 突きあたりに見えた部屋の中へと入り、即座に貯まりに溜まった尿意を開放した。



「やばかった……。あと五秒遅かったら、本当に漏らしていたかも」



 体の中に溜まった老廃物を放出しているだけなのに、幹久の心は人としての尊厳を守りきれたことに安堵していた。



『幹久、無事間に合ったみたいで良かったわぁ~』


『そうですね。でもお姉ちゃん、こんな夜中に厨房で何してたの? 明日の仕込みはもう済んでる筈だけど……』



 トイレの外から聞こえる声が、幹久の耳を打った。

 声の主は敷島姉妹である事は明白だった。向こうはそこまで大きな声で話しているつもりは無いのだろうが、壁が薄いのかそれとも今が真夜中で辺りが静寂に包まれているためか、二人の会話はハッキリと聞き取れていた。



『あー、あれは明日、幹久に渡すご飯作っとったんよ』


「っ!」



 月陽の声を聞いて、幹久の心は大きく動揺した。



『ご飯?』


『ご飯言うても、別に大したことあらへんよ。白米にお塩振りかけて、海苔巻いた程度の物しか作れへんけど。ウチ料理苦手やし』



 幹久の頭の中では、何度も月陽の言葉が反芻されていた。

 何故そこまで自分のような人間に尽くしてくれるのか、どこの誰とも知れない上に、自分勝手で酷い男なのに……。



『うーん、でもそれだけじゃ栄養が心もとないから。もう二、三品付け足そうよ』


『ウチは作れへんよ、花梨作れるん?』


『お姉ちゃんよりは、美味しく作れる自信はあるつもりだよ』



そう言うと、花梨と月陽の二人は笑っている様子だった。



『西園寺様、本当にこのまま何も話さないで出て行ってしまうんでしょうか?』


『さぁ、どうなんやろうねぇ。あそこまで頑なに話したがらんのは、よっぽどの理由があるんやろうし。このままお別れするんを幹久が望むんやったら、ウチらはそうすべきやないかな』



 月陽の言葉の一字一句が、幹久の心に響き渡る。

 そんなに深い理由なんてない、言えない理由なんてない。

 ただのワガママで、意地っぱりの自己中心的な考え。それこそが幹久の旅の理由なのだから。



「俺は、大馬鹿野郎だ……」



 こんな大馬鹿野郎の事を、彼女達は何も聞かずに尽くしてくれる。

 そんな彼女達に自分は、どこまで意地を張っているんだと痛感した。



『本音を言えば、やっぱりウチは幹久に相談して欲しかったかな』


『お姉ちゃん?』


『そりゃウチは、まだまだ半人前の女将やし……料理もできひんけど辛い目におうてる人の助けになれる自信あるつもりや』


『……うん。私も、そのつもり』


『あーでも、そんなん思ったところで、今日会うたばかりの人に何がわかるんやーって幹久には言われるんかもしれへんなぁ』



 幹久は用を足して手を洗い、ふらりとした足取りでトイレから出た。



「あ、でてきた。幹久、一人で部屋まで戻れるん?」


「あ、あぁ……大丈夫……」


「西園寺様、どうかされましたか? 体調が優れないようにお見受けしますが」


「いや、何でもない。何でも……ないんだ……」



 月陽と花梨、彼女たちの間を割ってそそくさとその場を離れた幹久は、自分の部屋まで戻ると直ぐに布団にくるまり声を殺して二人に詫びた。



ごめんなさい。


ありがとう。



 何度も何度も謝罪と感謝の言葉を口にしたが、当の本人たちには届くはずもない。月陽が見せたあの寂しそうな目、その理由を幹久は知ってしまった。


 彼女は自分が信用されていないことに対して、あんな悲しい目を見せたのだ。

 あれほどまでに親身になってくれる相手に対し、自分はなんてことをしてしまったのか。その後悔の念で幹久の心は押しつぶされそうだった。


 言葉以外の方法で、彼女たちの恩に報いる為にはどうすればいいのか。

悩みながらも、夜はただ更けていくのだった――。

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