第十二幕


 第十二幕



 ホァン財閥本社ビルが全焼してから数日後、トレンチコートに身を包んだ始末屋と純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホア、それに黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンションの四人はフォルモサ北部の漁港を訪れ、今まさに別れの時を迎えようとしていた。

「ねえ始末屋、本当にもう行っちゃうの? せめて怪我が治るまでゆっくりして行けばいいんじゃないかしら?」

 しとしととそぼ降る雨に濡れる漁港の一角で、アオザイ姿のグエン・チ・ホアが気遣わしげにそう言って再考を促せば、マスター大山との死闘によって右太腿と胸部に負った傷が未だ癒えていない始末屋はそれを否定する。

「既に依頼は完遂した。これ以上長居するつもりは無い」

 やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋の背後の埠頭では、これから彼女が乗り込む漁船が係留されており、もやい結びにされたロープがゆらゆらと揺れていた。

「そうなの、それは残念ねえ?」

 グエン・チ・ホアが溜息交じりにそう言うと、今度は黄俊明ホァン・ジュンミンが口を開く。

「これでお別れなんだね、始末屋」

「ああ、そうだ。おそらく貴様とあたしは、もう二度と会う事は無いだろう」

 始末屋の返答を耳にした黄俊明ホァン・ジュンミンの眼からぽろぽろと涙が零れ落ちるも、果たしてそれが本当に涙なのかそれとも雨の雫なのか、傍目には見分けがつかない。

「始末屋さん、この度は本当にありがとうございました」

 続いて郭文雄グォ・ウェンションが口を開き、彼は度の強い眼鏡を雨に濡らしながらそう言うと、始末屋に向かって深々と頭を下げた。

「おいグォ、本当に俊明ジュンミンの今後を貴様に任せても大丈夫なんだろうな?」

 始末屋がそう言って問い質せば、頭を上げた郭文雄グォ・ウェンションは彼の計画を説明する。

「ええ、その点でしたら問題ありません。黄金龍ホァン・ジンロン会長亡き今となっては私と俊明ジュンミン君の命を狙う者も居ませんし、彼の戸籍を偽造する手筈もこちらのグエンさんが整えてくださったので、これからは一介のフォルモサ市民となった俊明ジュンミン君と共に第二の人生を謳歌するつもりです」

「そうか。任せたぞ」

 そう言った始末屋に、再び黄俊明ホァン・ジュンミンが尋ねる。

「なあ、始末屋」

「何だ?」

「お爺様に内臓を提供するためのクローンとして生み出された僕は、当のお爺様が死んでしまった今でも本当に生きていてもいいのかな? この先の僕の人生に、お爺様に内臓を提供する事以上の新たな生きる意味が見出せるのかな?」

 この黄俊明ホァン・ジュンミンの問い掛けに対して、始末屋の返答は簡潔明瞭かつ旗幟鮮明であり、異論を差し挟む余地を与えない。

「生きたければ生きろ。死にたければ死ね。俊明ジュンミン、果たして貴様はどちらを望む?」

「僕は……生きたい! 生きて生きて生き延びて、お爺様のそれとはまた別の、新たなホァン財閥を誕生させたい!」

「良し。よく言った」

 やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は黄俊明ホァン・ジュンミンの頭に手を乗せ、まるで我が子を慈しむ母の様な手付きでもって、彼の柔らかな頭髪をくしゃくしゃになるまで撫で回した。

「なあ、そこのでかい姉ちゃん! お取込み中のところこう言っちゃなんだけど、そろそろ俺らも出港したいから、お別れの挨拶は早めに切り上げてくれよ!」

 すると四人の背後の埠頭に係留された漁船の船長らしき中年男性がそう言って、始末屋に乗船を促す。

「それでは、これでお別れだ。達者でな」

 最後にそう言った始末屋はくるりと踵を返し、背後を一度も振り返る事無く埠頭を縦断すると、彼女の次の目的地へと向かう漁船に乗り込んだ。すると船長らしき中年男性が埠頭の係船柱ボラードからホーサーと呼ばれるロープを解き、漁船のエンジンを始動させ、いよいよ出港の時を迎える。

「始末屋!」

 次第次第に漁港から遠ざかりつつある漁船と、その舳先に立つ始末屋に呼び掛けるような格好でもって、埠頭の端まで駆け寄った黄俊明ホァン・ジュンミンが彼女の名を呼んだ。

「僕は絶対に立派な大人になって、あの娼館で会ったまことを嫁に貰ってから、お前も妾として養ってやるやるからな! 覚えてろよ!」

 黄俊明ホァン・ジュンミンがそう言って埠頭の端から呼び掛ければ、漁船の舳先に立つ始末屋はこちらに背を向けたまま高々と右手を挙げ、その手の親指をぴんと立てたサムズアップで応える。それは言うまでもなく、黄俊明ホァン・ジュンミンの言葉を了承したと言う意思表示に相違無い。

「その時を楽しみにしているぞ、俊明ジュンミン

 沖に出た漁船の舳先に立つ始末屋はそう言って、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。そしてそんな彼女の笑顔を、常雨都市フォルモサのそぼ降る雨が濡らす。

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