第十一幕


 第十一幕



 ようやく辿り着いた螺旋階段を手摺を頼りに駆け上がれば、遂に始末屋はホァン財閥本社ビルの最上階の廊下へと足を踏み入れた。するとそこには頑丈なオーク材で出来た数扇ばかりの扉が見て取れ、その内のどれか一つの向こうに、彼女の依頼主である黄俊明ホァン・ジュンミンが幽閉されている事が推測される。

「ふん!」

 取り敢えず始末屋は、手近な扉の一つを力任せに蹴り開けた。そして蹴り開けられた扉を潜って入室すると、そこには豪奢な造りのダイニングテーブルと数脚のダイニングチェアが整然と並び、人の気配は無い。

「ここは……ダイニングか」

 そう言った始末屋の言葉通り、薄暗い部屋の奥にはちょっとしたレストラン程度の規模のキッチンもまた見て取れ、どうやらこの部屋は黄金龍ホァン・ジンロンとその親族が食事を摂るためのダイニングだと思われた。

「……」

 すると始末屋は無言のままダイニングを縦断し、無人のキッチンへと足を踏み入れると業務用冷蔵庫の扉を開け、貯蔵されていた食材を物色する。そして未だ調理されていない丸鶏とジャガイモと真っ赤な完熟トマトを発見するや、生のままのそれらを手に取って口に運び、むしゃむしゃと咀嚼し始めた。どうやら彼女は栄養豊富な鶏肉と生野菜を食べる事によって、マスター大山との死闘で消耗した分のエネルギーを再補給しようとしているらしい。

「げっぷ」

 生の丸鶏とジャガイモ、それに完熟トマトを食べ終えた始末屋は盛大なげっぷを漏らすと、今度は飲料が貯蔵された冷蔵庫の扉を開けた。そして1ガロンのプラスチックボトルに入った牛乳を手に取ったかと思えば、いわゆるラッパ飲みの要領でもって、その中身をごくごくと飲み下し始める。

「げっぷ」

 1ガロンの牛乳を一気に飲み干し終えた始末屋はようやく腹が膨れたのか、空になったプラスチックボトルを調理台の上に置くと、再び盛大なげっぷを漏らした。一般的な成人女性の胃袋の容量は約2ℓほどなので、1ガロン、つまり約4ℓの牛乳を一気飲み出来る始末屋の健啖家ぶりもかくやと言えよう。そして口元にこびり付いた口髭状の牛乳をトレンチコートの袖でもって拭い取った彼女は来た道を引き返すようにして廊下に戻り、次の扉を蹴り開けた。

「ここも違う」

 ダイニングの隣の部屋は人工大理石で出来た大きなバスタブが鎮座するバスルームだったので、退室した始末屋はまた次の部屋の前へと移動し、扉を蹴り開ける。

「違う」

 バスルームの隣の部屋がトイレである事を確認すると、始末屋は踵を返し、とっとと退室した。そして更に隣の部屋の扉を蹴り開けてみれば、そこは薄暗かったダイニングやバスルームやトイレとは違って照明が灯されており、広く明るい室内には複数の人の気配も感じ取れる。

「始末屋、危ない!」

 扉を蹴り開けた始末屋の姿を認めると同時にそう言って警告したのは、部屋の中央に設置されたベッドの上で半身を起こす平凡な顔立ちの少年、つまり黄俊明ホァン・ジュンミンであった。そして彼の警告通り、蹴り開けられた扉の陰に身を隠していたホァン財閥の私設軍隊の兵士の一人が、ベンチメイド社製のタクティカルナイフを手にしながら始末屋に襲い掛かる。

「死ね!」

 ガスマスクのゴーグル越しに殺意に満ちた眼差しをこちらに向けながら、威勢良くそう言った、どうやらこの部屋で黄俊明ホァン・ジュンミンを監視していたらしき私設軍隊の兵士の一人。彼が手にしたタクティカルナイフの切っ先が、始末屋の喉元目掛けて振り下ろされた。しかしながら始末屋は、黒光りする革の手袋を穿いた手でもってナイフの刀身を掴み上げ、そのまま兵士の腕を捻り上げようと試みる。

「糞っ!」

 すると私設軍隊の兵士はタクティカルナイフのハンドルから手を離し、一旦得物を放棄すると、今度はグロック17自動拳銃オートピストルを抜こうと腰のホルスターに手を伸ばした。

「遅い!」

 しかしながら兵士が自動拳銃オートピストルをホルスターから抜くよりも、掴み上げたタクティカルナイフを放り捨てた始末屋が拳を握り締め、その拳でもって兵士の顔面を殴打する方が早い。

「ぷお!」

 喉の奥から頓狂な声を漏らしながら、始末屋によってしたたかに殴打された私設軍隊の兵士の顔面がガスマスクごと陥没し、重度の脳挫傷によって苦しむ間も無く絶命した。

「始末屋、大丈夫か?」

「始末屋さん、大丈夫ですか?」

 ベッドの上の黄俊明ホァン・ジュンミンと、そのベッドの脇に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろしていた眼鏡の男性、つまり郭文雄グォ・ウェンションが始末屋の名を呼びながら彼女の身を案じる。

「ああ、大丈夫だ。あたしだって、この程度の雑兵相手に苦戦するほど落ちぶれちゃいない。それよりも俊明ジュンミン、貴様こそ無事か?」

「うん、僕も無事だ。怪我一つしてないよ」

「ええ、私も無事です」

 始末屋に尋ねられた黄俊明ホァン・ジュンミンと、特に尋ねられてもいないのに自発的に口を開いた郭文雄グォ・ウェンションがベッドとソファから腰を上げ、安堵の色濃い口調でもって返答した。すると床に転がる兵士の死体を乗り越えた始末屋はベッドの脇へと歩み寄り、久方振りに再会した黄俊明ホァン・ジュンミンの頬に手を当てながら、彼の身の安全を確認する。

「貴様の身体を拘束しているのは、この手錠だけか?」

 そう言った始末屋の言葉通り、どうやら黄俊明ホァン・ジュンミンの寝室らしきこの部屋からの逃亡を警戒してか、彼の足首は鋼鉄製の手錠でもってベッドのフレームと繋がれてしまっていた。そして始末屋の問い掛けに対して黄俊明ホァン・ジュンミンが首を縦に振ると、彼女は手錠の輪っか状の部分に指を掛け、それを力任せに引き千切ろうと試みる。

「ふん!」

 すると常人離れした膂力を誇る始末屋の指先の力だけでもって、鋼鉄製の手錠は金属が破断する際の耳障りな音と共に、あっけなく引き千切られてしまった。

「よし、行くぞ俊明ジュンミン。あたしについて来い」

 手錠を引き千切った始末屋はそう言って、ダブルサイズのベッドから床へと降り立った黄俊明ホァン・ジュンミンに同道を促し、二人の様子を見守っていた郭文雄グォ・ウェンションには眼も呉れない。

「あの……始末屋さん?」

 始末屋がくるりと踵を返し、出入り口である扉の方角へと足を向ける一方で、半ばガン無視される格好になった郭文雄グォ・ウェンションは彼女に懇願する。

「出来れば私の方の手錠も壊していただけると助かるのですが……お願い出来ないでしょうか?」

 郭文雄グォ・ウェンションへりくだった口調でもってそう言いながら、黄俊明ホァン・ジュンミン同様、自身の足首とソファの脚とを繋ぐ鋼鉄製の手錠を指差した。

「なんだグォ、貴様も助かりたいのか?」

「そりゃ私だって助かりたいですよ! それにこんな所に一人ぼっちで取り残されても困ります!」

「だが今回の依頼内容には、貴様の救出は含まれていない」

 しかしながら冷静沈着を旨とする始末屋は鰾膠にべも無くそう言うと、彼女の隣に立つ黄俊明ホァン・ジュンミンに眼を向け、確認する。

「どうする、俊明ジュンミン? 貴様の依頼内容に、この男の救出も含めるか?」

「うーん……そうだな、グォは僕の身を案じてここまで来てくれたんだし、助けてやってよ」

 黄俊明ホァン・ジュンミンが恩着せがましくそう言えば、やはり始末屋はぶっきらぼうな口調でもって「分かった」と言うなり郭文雄グォ・ウェンションの元へと歩み寄り、彼の足首に掛けられていた手錠をいとも容易く引き千切ってみせた。

「ありがとうございます、始末屋さん。おかげで助かりました」

 ぺこぺこと頭を下げながら礼の言葉を述べる郭文雄グォ・ウェンションには眼も呉れず、始末屋は扉の方角へと改めて足を向ける。

「さあ、急げ。この階が火に呑まれる前に、このビルから脱出するぞ」

「火?」

 始末屋の口から発された「火」と言う不穏な単語に反応し、黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンションの二人が同時に声を上げた。

「ああ、そうだ。一階のエントランスにガソリンを撒いて火を放っておいたから、今頃下層階は火の海の筈だ。だからエレベーターでは逃げられない。屋上のヘリポートからヘリでもって脱出する」

 そう言った始末屋が退室すべく扉の方角へと一歩を踏み出したところで、マスター大山の下段回し蹴りによって筋肉が断裂した右太腿に激痛が走り、体勢を崩して彼女は膝を突く。

「おい、どうしたんだ始末屋? お前、どこか怪我をしているのか?」

「問題無い。ほんのかすり傷だ」

 気遣わしげな黄俊明ホァン・ジュンミンの問い掛けに対して、彼を心配させまいとしてか、始末屋は顔色一つ変えずにそう言った。しかしながら立ち上がった彼女はごほごほと咳き込み、やはりマスター大山の貫手突きによって折れた肋骨が肺に突き刺さっているため、その呼気には真っ赤な鮮血が混じる。

「どこがかすり傷だよ! 口から血を吐いてるじゃないか!」

「心配するな。今はあたしの身体の事よりも、ヘリポートに急ぐ事だけを考えろ」

 そう言った始末屋は口元にこびり付いた鮮血をトレンチコートの袖で拭い取り、激痛が走る右脚を引き摺りながら、黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンションの二人を先導する格好でもって彼の寝室を後にした。そして扉を潜って廊下に出たところで、黄俊明ホァン・ジュンミンが尋ねる。

「ところで始末屋、僕のお爺様はどこでどうしているんだ? 未だこのビルの中に居るのか?」

「さあ、知らんな。あたしは奴の姿を見ていないから、未だこのビルのどこかに居るのかもしれないし、エントランスに放火された時点でとっととを捲って避難したのかもしれない。それと俊明ジュンミン、貴様は奴のクローンなのだから、黄金龍ホァン・ジンロンは貴様の祖父ではなく貴様と同一人物だ」

 始末屋はそう言うが、黄俊明ホァン・ジュンミンは彼女の言葉を鵜呑みには出来ない。

「確かにある意味ではそうなのかもしれないけど……でもやっぱり、僕にとってホァン財閥会長の黄金龍ホァン・ジンロンと言う人物は、僕のお爺様なんだ。だから最後に一目だけでも、お爺様に会っておきたい。いいだろう、始末屋?」

「そうか。好きにしろ」

 やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、ヘリポートに続く階段の方角へと向けていた足を止めた。

「それで俊明ジュンミン黄金龍ホァン・ジンロンの部屋はどこだ?」

「うん、こっちに来て」

 そう言った黄俊明ホァン・ジュンミンは彼の寝室より更に奥、つまりホァン財閥本社ビルの最上階の最奥の部屋の方角へと足を向けたので、始末屋と郭文雄グォ・ウェンションは彼の後を追う。

「ここだ。ここがお爺様の寝室だよ、始末屋」

 廊下の先で足を止めた黄俊明ホァン・ジュンミンはそう言いながら、やはり最奥の部屋の扉を指差した。すると彼の背後に立っていた始末屋が一歩前に進み出て、その扉を力任せに蹴り開ける。

「ふん!」

 蹴り開けられた扉を踏み越えて室内へと足を踏み入れてみれば、そこは先程までの黄俊明ホァン・ジュンミンの寝室以上に広壮な寝室で、白檀の甘く爽やかな香りが漂う部屋の中央には豪奢な天蓋付きのベッドが設置されていた。

「……来たか」

 天蓋付きで、尚且つ電動リクライニング機能も備えたベッドの中央に横たわる、人工呼吸器と心電計を装着した白髪の老人。つまりホァン財閥の現会長である黄金龍ホァン・ジンロンが始末屋ら三人を一瞥しながらそう言うと、手元のリモコンを操作してリクライニングベッドを起動させ、寝ながらにして半身を起こした状態へと移行する。

「お爺様!」

 始末屋に続いて入室した黄俊明ホァン・ジュンミンがそう言って、彼のクローン元でもある黄金龍ホァン・ジンロンの名を呼んだ。

俊明ジュンミンよ、お前はこのわしを、今もってお爺様と呼ぶのか。お前とわしは、決して祖父と孫の関係ではないと言うのに」

 人工呼吸器を装着した黄金龍ホァン・ジンロンがさも息苦しそうにそう言ったその間も、ベッドの脇に置かれた心電計は電子音を奏でながら、彼の心臓の動きをモニターし続ける。

「だって……たとえ僕がお爺様のクローンであったとしても、お爺様は僕のお爺様に違いないから……」

「甘いな。このわしのクローンらしからぬ、まったくもって甘い考えだ。もし仮にわしがお前と同じ立場であったとしたら、自らが正統な後継者であると主張し、財閥の乗っ取りを画策したであろうに」

 ベッドの上で半身を起こした黄金龍ホァン・ジンロンは事も無げにそう言って、内臓取りのためのクローンを作らせた事実を悪びれもしない。

「それにしても、まさかこのわしの牙城たる本社ビルに火を放つとはな……そこのお前、確か始末屋とか言ったな? お前だけは、たとえ何があったとしても決して許さんぞ」

 黄金龍ホァン・ジンロンは始末屋を睨み据えながら苦々しげな口調でもってそう言うが、当の始末屋もまた悪びれた様子も無く睨み返し、ぶつかり合った両者の視線は激しく火花を散らす。

「さあ俊明ジュンミン、貴様の希望通り、貴様と黄金龍ホァン・ジンロンを引き合わせてやったぞ。何か言いたい事があるのなら、今の内に言っておけ」

 始末屋そう言うと、隣に立つ黄俊明ホァン・ジュンミンの背中をぽんぽんと数回ばかり軽く叩き、発言を促した。

「お爺様」

 一歩前に進み出た黄俊明ホァン・ジュンミンは、あどけなさが残るその顔に年甲斐もなく大人びた表情を浮かべながら、ゆっくりと口を開く。

「自分がお爺様のクローンだと知った時、僕はまず最初に、お爺様を恨みました。自分は移植用の内臓を培養するための、つまりはお爺様の延命のために育てられた紛いものの人間に過ぎないと言う事実を突き付けられたのですから、僕にはお爺様を恨む権利があって然るべきです。ですが不思議な事に、恨むと同時に感謝もしていました。お爺様の身体のたった一つの細胞に過ぎなかった僕を一人の人間としてこの世に誕生させ、たとえ内臓が目当てであったとしても何不自由無くここまで育ててくれた事を、感謝しない訳がありません。ですからお爺様、最後に一言だけ、感謝の言葉を述べさせてください。……ありがとうございました」

 黄俊明ホァン・ジュンミンが深々と頭を下げながらそう言えば、感謝の言葉を述べられた方の黄金龍ホァン・ジンロンは忌々しげにふんと鼻を鳴らし、鰾膠にべも無い。

「甘い。俊明ジュンミンよ、やはりお前は甘過ぎる。そんな敗者の言い訳にも値しないような詭弁を弄する輩がこのわしの分身だとは、まったくもって嘆かわしいではないか」

 黄金龍ホァン・ジンロンは溜息交じりにかぶりを振りながらそう言うと、毛布の下に隠されていた右手を素早く引き抜いた。

「だから、お前にもう用は無い」

 そう言った黄金龍ホァン・ジンロンの右手にはキアッパ社製の回転式拳銃リボルバーであるライノ200DSが握られており、その照準を黄俊明ホァン・ジュンミンの眉間に合わせた彼が躊躇無く引き金を引き絞れば、ぱんと言う乾いた銃声と共に.357マグナム弾の弾頭が射出される。

「!」

 ライノ200DS回転式拳銃リボルバーの銃口を向けられた黄俊明ホァン・ジュンミンはその場に立ち尽くし、発砲と同時に身を強張らせると、思わずぎゅっと眼を瞑ってしまった。そして死を覚悟した彼は、射出された弾頭が自らの眉間を撃ち抜くその瞬間に怯える。

「……あれ?」

 しかしながら、いつまで経っても黄俊明ホァン・ジュンミンの眉間に弾頭が着弾し、彼の頭部が壁に叩きつけられた腐ったトマトの様に粉々に砕け散る事はなかった。そこで恐る恐る眼を開けてみれば、彼の眼の前には一際大きな人の手が見て取れ、その手は固く握り締められている。

「無駄だ」

 そう言ったのは黄俊明ホァン・ジュンミンの眼の前に差し出された大きな手の持ち主、つまり駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋であった。そして固く握り締められた彼女の手がゆっくり開いたかと思えば、その手の中から銅でコーティングされた鉛の弾頭がぽろりと零れ落ち、如何にも高価そうなペルシャ絨毯が敷かれた床を転がる。つまり始末屋は、黄俊明ホァン・ジュンミンの眉間目掛けて射出された弾頭を空中で掴み取ってみせたのだから、驚くべき反射神経と瞬発力、それに肉体の頑丈さを称賛する他無い。

「糞っ!」

 自らが撃ち放った銃弾が無力化された事を悟った黄金龍ホァン・ジンロンは悪態を吐きながら、今度はライノ200DS回転式拳銃リボルバーの銃口を始末屋に向け、引き金を引き絞った。すると再びの乾いた銃声と共に射出された弾頭が、始末屋の顔面に着弾する。

「!」

 始末屋の顔面に着弾した弾頭の行方を、すっかり老眼が進行してしまった両のまなこでもって、しかと見届けた黄金龍ホァン・ジンロン。彼は真っ白な頭髪と顎鬚に覆われた皺だらけの顔に愕然とした表情を浮かべながら、手にしたライノ200DS回転式拳銃リボルバーをぽろりと取り落としてしまった。何故なら始末屋は亜音速で飛び来たる.357マグナム弾の弾頭を、まるで万力で挟み込むような格好でもって上下の歯で噛み取り、無力化してみせたのである。

「だから、無駄だと言ったんだ」

 始末屋はそう言いながら、歯で噛み取ってみせた鉛の弾頭を一旦口に含むと、絨毯敷きの床に向けてぺっと吐き出した。すると無煙火薬ニトロセルロースの燃焼によって生じた熱が始末屋の唾液を蒸発させ、床を転がる弾頭の尻の部分からゆらゆらと水蒸気が漂う。

「化け物め……」

 拳銃ピストル程度の火力では始末屋に太刀打ち出来ないと悟った黄金龍ホァン・ジンロンは忌々しげに、そして苦々しげにそう言うが、始末屋は意に介さない。

「何とでも言え。とにかく貴様のクローンであり孫である俊明ジュンミンは、こちらに引き渡してもらうぞ」

 そう言った始末屋は隣に立つ黄俊明ホァン・ジュンミンの肩を抱きながら踵を返し、黄金龍ホァン・ジンロンの寝室から退去すべく、扉の方角へと足を向けた。すると彼女ら二人の背後に立っていた郭文雄グォ・ウェンションが一歩前に進み出て、ベッドの上の黄金龍ホァン・ジンロンに尋ねる。

「会長、もうすぐこのビルは炎に包まれます。このままでは消防の手による鎮火も救助も期待出来ないと言うのに、あなたは逃げないのですか?」

「……貧民街でのゴミさらいから身を起こし、たった一代で築き上げてみせたこのホァン財閥こそ、およそ九十年に及ぶわしの人生そのものだ。その財閥を象徴する本社ビルが焼け落ち、灰燼かいじんに帰すと言うのなら、わしはその象徴と運命を共にする覚悟を決めておる」

 黄金龍ホァン・ジンロンはそう言うが、始末屋は得心しない。

「そいつはまた、随分と殊勝な言い分だな。とてもじゃないが、内臓を奪い取るためのクローンを作らせてまで延命しようとしていた老人の言葉とは思えない」

 始末屋がそう言って疑問を呈すると、黄金龍ホァン・ジンロンかぶりを振る。

「愚問だな。今しがた説明した通り、このホァン財閥こそわしの人生そのものだ。その財閥が無くなってしまうと言うのなら、もうわしが生きている意味も意義も存在しない。生きる意味を失った上での延命など、只の生き地獄だ。違うか?」

「成程。それが貴様の考えか」

 そう言って得心した始末屋は、再び扉の方角へと足を向けた。そして彼女に肩を抱かれた黄俊明ホァン・ジュンミンもまた彼女と一緒に退室しようとした次の瞬間。不意に振り返った黄俊明ホァン・ジュンミンが、ベッドの上の黄金龍ホァン・ジンロンに語り掛ける。

「今までありがとうございました、お爺様。さようなら」

 己のクローンである黄俊明ホァン・ジュンミンから感謝と別れの言葉を述べられた黄金龍ホァン・ジンロンは、病床の老人らしからぬ鋭い眼差しでもって真っ直ぐ前を見据えたまま、黙して語らない。

「さあ俊明ジュンミン、屋上に急ぐぞ。時間が無い」

 そう言って急かす始末屋に先導されながら、彼女の背中を追うような恰好でもって黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンションの二人もまた退室すると、屋上へと続く階段目指して廊下を急ぐ。そして広壮で豪奢な造りの寝室には、黄金龍ホァン・ジンロン只一人だけが残された。

泡沫うたかたの夢とは、まさにこの事か……」

 内省的な口調でもってそう言った黄金龍ホァン・ジンロンはそっと眼を閉じ、実に八十九年に及んだ彼の人生に思いを馳せる。

「なあ始末屋、本当に僕らはこのビルから脱出出来るんだろうな?」

 寝室のベッドの上で最期を迎えようとする黄金龍ホァン・ジンロンが彼自身の人生に思いを馳せる一方で、廊下を渡り切った黄俊明ホァン・ジュンミンが螺旋階段を駆け上がりながら、前を歩く始末屋に尋ねた。たとえ屋上のヘリポートを制圧出来たとしても、そこに脱出用のヘリコプターが待機している保証はどこにも無いのだから、当然の疑問と言えよう。

「ああ、その点なら問題無い。もしもの時のために、ちゃんと手は打ってある」

 やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、螺旋階段の終着点に立ちはだかる観音開きの鉄扉を力任せに蹴り開けると、ホァン財閥本社ビルの屋上へと足を踏み入れた。

「……えっと、その、始末屋さん? それで、その、脱出するためのヘリコプターはどこに在るんでしょうか?」

 鉄扉を蹴り開けた始末屋と黄俊明ホァン・ジュンミンに続いて螺旋階段を駆け上がり終えた郭文雄グォ・ウェンションが、そう言って問い掛けながら雨曝あまざらしの屋上の一角に設けられたヘリポートを指差すも、そこにはヘリコプターの影も形も無い。

「そうだぞ始末屋! ヘリコプターなんてどこにも無いじゃないか!」

 黄俊明ホァン・ジュンミンもまたそう言うと、もぬけの殻となったヘリポートの中央に立って両手を広げ、周囲に何も無い事をジェスチャーでもって表現してみせた。

「!」

 すると次の瞬間、ヘリポートの中央に立つ黄俊明ホァン・ジュンミンは鼻を突くようなきな臭い匂いと熱気を感じ取り、迫り来る脅威にその身を竦ませる。

「おい、ちょっと待てよ始末屋! これってもしかして、もうすぐそこまで火が迫って来てるんじゃないか? 段々熱くなって来たし、煙くて煙くて仕方無いぞ!」

 泡を食ったように慌てふためきながらそう言った黄俊明ホァン・ジュンミンの言葉通り、始末屋が一階のエントランスに放った火はビルを這い上がるような格好でもって上へ上へと延焼を続け、既に地上五十階のレセプションホールはごうごうと燃え盛る炎に包まれてしまっていた。このままでは遠からず、始末屋らが居る屋上もまた火の海と化す事は想像に難くない。

「どうするんだよ始末屋! なんとか言えよ! なあ!」

 焦燥感に駆られながらそう言った黄俊明ホァン・ジュンミンと、おろおろと狼狽するばかりの郭文雄グォ・ウェンションの二人とは対照的に、冷静沈着を旨とする始末屋は至って涼しい顔でもって雨空を見上げている。

「心配無い。上を見ろ」

 始末屋がそう言えば、彼女が見上げる夜の雨空を、黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンションの二人もまたこうべを巡らせながら仰ぎ見た。すると遥か上空からこちらに向かって降下して来る、何か大きな物体が眼に留まる。

「あれは……」

 ばらばらと言うローターの駆動音と風切り音を奏でながら降下して来るその物体は、機体全面をオリーブドラブ色に塗られた一機のヘリコプターであった。しかも驚くべき事に、シコルスキー・エアクラフト社が製造するシングルローター式の中型多目的軍用ヘリとして知られるUH-60 ブラックホークだったのだから、黄俊明ホァン・ジュンミンらが呆気に取られるのも当然の帰結である。

俊明ジュンミン、そこに立っていると危険だ。こっちに来い」

「う、うん」

 黄俊明ホァン・ジュンミンは呆気に取られながらも素直に指示に従い、屋上全体の中央に立つ始末屋の元へと駆け寄って、先程まで彼が立っていたヘリポートから充分な距離を取った。すると頭上のUH-60 ブラックホークはぐんぐんこちらへと接近し、ローターが巻き起こすダウンウォッシュによって火の粉や煙を吹き飛ばしながら着陸すると、機体側面のハッチが開いて細身の人影が姿を現す。

「あら始末屋、ちょっとばかり遅れちゃったかもしれないなと心配したけれど、どうやらちょうど良いタイミングだったみたいね?」

 引き開けられたハッチから姿を現すなり始末屋に向けてそう言ったのは、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包んだ黒髪の若い女性、つまり『Hoa's Library』の経営者たるグエン・チ・ホアであった。

「ああ、そうだな。あたし達もつい今しがたここに到着したばかりだから、ナイスタイミングと言ったところだ」

 始末屋はそう言うと、ヘリポートに着陸したままエンジンが掛けっ放しのUH-60 ブラックホークへと足を向け、背後で呆気に取られている黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンションの二人に手招きする。

「ほら俊明ジュンミン、それにグォ、そんな所でいつまでもぼうっと突っ立ってないで、さっさとヘリに乗り込め。急がないとこの屋上もヘリポートも、じき炎に包まれる」

「あ、ああ、うん」

 はっと我に返った黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンションは始末屋の後を追い、やがてハッチを潜った彼女ら三人はUH-60 ブラックホークに揃って乗り込んだ。そして機体後部の簡易座席に腰を下ろしてから安全ベルトでもって身体を固定すると、アオザイ姿のグエン・チ・ホアが操縦席のパイロットに告げる。

「それじゃあパイロットさん、皆揃ったみたいですし、そろそろ出発していただけるかしら?」

 グエン・チ・ホアが語尾の音程を上擦らせながらそう言えば、彼女の要請を承諾したパイロットが操縦桿を握りながらラダーペダルを踏み込み、エンジンの回転数を上昇させたUH-60 ブラックホークはゆっくりと離陸した。すると離陸から程無くして、遂にホァン財閥本社ビルの屋上にまで火の手が回り、まるでビルディング全体が夜空に輝く巨大な松明の様にごうごうと燃え上がる。

「ああ……」

 充分な高度を確保すると同時に、ビジネス街から遠ざかりつつあるUH-60 ブラックホーク。そのUH-60 ブラックホークの機体側面の窓から身を乗り出した黄俊明ホァン・ジュンミンが、オレンジ色に輝く炎ともうもうと湧き上がる黒煙に包まれたホァン財閥本社ビルを凝視しながら、言葉になり切らないような憂いに満ちた声を深い溜息と共に吐き出した。

「どうした、俊明ジュンミン? 貴様、後悔しているのか?」

 始末屋がそう言って尋ねれば、尋ねられた黄俊明ホァン・ジュンミンは首を横に振る。

「全く後悔していないと言えば嘘になるのかもしれないけれど、これが自分にとって最善の選択肢だったと僕は信じているよ。だってこうでもしなければ、つまりお前に助け出してもらわなければ、僕は確実に命を落としていたんだからね」

 フォルモサの街の上空を旋回するUH-60 ブラックホークの機内で、やはり物憂げな表情と口調でもってそう言った黄俊明ホァン・ジュンミン。そんな黄俊明ホァン・ジュンミンの肩をそっと抱き寄せた始末屋は、どうやら無言のスキンシップでもって、傷心の彼を慰めようと試みているらしい。

「ねえねえ、お取込み中のお二人の仲に水を差すようで申し訳無いけれど、ちょっといいかしら? 初めまして、あなたが俊明ジュンミン君ね? お噂はかねがね伺っていてよ?」

 すると機内の空気を読んでか読まないでか、始末屋の向かいの簡易座席に腰を下ろしたグエン・チ・ホアが、如何にも興味深そうにほくそ笑みながらそう言った。

「え? あ、はい、僕が俊明ジュンミンですけど……あなたは?」

 黄俊明ホァン・ジュンミンが警戒しながら尋ねれば、グエン・チ・ホアは彼の問いに答える。

「あらごめんなさい、どうやら申し遅れちゃったみたいね? あたしはグエン・チ・ホアよ? そうね、自己紹介ついでに素性を明かすなら、ここに居る始末屋の古い友人と言ったところかしら? まあ、いわゆる腐れ縁と言う奴ね?」

 愉快そうに眼を細めてくすくすとほくそ笑みながら、グエン・チ・ホアはそう言って自己紹介を終えた。

「それにしてもチ・ホア、確かにあたしはヘリを用意してくれとは言ったが、よくもまあこんな軍用ヘリが用意出来たものだな」

「それって褒めているのかしら? それとも呆れているの? まあどっちにせよ、あたしはフォルモサの軍隊の上層部にちょっとしたコネがあってね? 四人以上が乗れるヘリコプターを用意してほしいって伝えたら、この大きなヘリコプターを貸してくれたって言う訳なのよ?」

「成程」

 そう言って得心した始末屋とほくそ笑むグエン・チ・ホア、それに燃え上がるホァン財閥本社ビルを愁いを帯びた眼差しでもって見つめる黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンションの四人を乗せたUH-60 ブラックホークは、しとしととそぼ降る雨に濡れたフォルモサの街の上空を飛行し続ける。

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