第九幕


 第九幕



 宵闇に包まれた常雨都市フォルモサの繁華街の一角、多くの地元民や世界各地からの観光客でもってごった返す夜市の裏通りの、おそらくは太平洋戦争以前から存在すると思しき由緒正しいビルディング。そのビルディングの二階にテナントとして入居する『Hoa's Library』の店内で、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包んだ一人の女性が古めかしい革表紙の本を手にしつつ、熱いジャスミン茶が注がれたティーグラスに口を付けながら寛いでいた。

「あらあら、ちょっとばかりゆっくりしていたら、もうこんな時間じゃないかしら? そろそろ閉店ね?」

 語尾の音程が上擦ってしまう少しばかり訛った日本語でもってそう言ったアオザイの女性は、座っていた籐椅子から優雅な仕草でもって腰を上げ、店じまいの準備に取り掛かるべく窓辺に足を向ける。

「あら?」

 窓辺に立ったアオザイの女性がカウンター脇の雨戸を閉めていると、不意に店舗の出入り口でもある木製の扉が強引に蹴り開けられたので、彼女はそちらに眼を向けた。すると薄暗い廊下の天井から吊り下げられた裸電球を背にしながら、一人の大柄な人物が逆光の中にシルエットを浮かび上がらせるような格好でもって立っている事に気付き、首を傾げる。

「ご来店いただきまして、誠にありがとうございます? ですが残念ながら、今日はもう店じまいでしてよ? また後日、改めて足をお運びくださるかしら?」

 やはり語尾を上擦らせながら純白のアオザイの女性、つまりこの店の経営者であるグエン・チ・ホアがそう言うと、扉を蹴り開けた人物は彼女の言葉には従わずに店内に足を踏み入れた。

「あらあら、誰かと思えば始末屋じゃないの?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの視線の先で入店したのは浅黒い肌のトレンチコートの大女、つまり始末屋であったが、その姿に彼女は少しばかり驚く。と言うのも、始末屋が身に纏ったトレンチコートは雨水と泥と血にまみれ、その足取りはがくがくと膝が笑って覚束無く、まさに満身創痍と言う四文字熟語を体現するかのような有様だったのだから致し方ない。

「どうしたの始末屋、随分と酷い恰好じゃないの?」

 店じまいの手を止めたグエン・チ・ホアがそう言いながら駆け寄ってみれば、立っているのもやっとと言った有様の始末屋は一歩また一歩と歩を進めるものの、十歩と歩かない内に前のめりになったままその場に昏倒してしまった。彼女が受け身も取らずに床に激突した際のどしんと言う音と衝撃が、古びた書物やアンティークの家具や調度品が所狭しと陳列された『Hoa's Library』の店内に響き渡る。

「始末屋? 大丈夫?」

 グエン・チ・ホアは硬い板張りの床に顔面を叩きつけるような格好でもって昏倒した始末屋の名を呼ぶが、雨に濡れた彼女の身体はぴくりとも動く事無く、幾ら呼び掛けてみても返事は無い。

「あらあら、こんな所で寝られても困っちゃうじゃないの? 怪我人を放っておく訳にも行かないし、まったく困ったものねえ?」

 さほど深刻そうでもないような口調でもってそう言った、アオザイ姿のグエン・チ・ホア。彼女はうつぶせになったまま昏倒し続ける始末屋の背後に回り込み、雨水と泥と血にまみれたトレンチコートのベルトを片手で掴むと、大柄な彼女の身体を軽々と持ち上げてしまった。

「さて、と? これから一体どうしようかしら?」

 決して身軽とは言えない始末屋の身体を片手一本でもって軽々と持ち上げたまま、グエン・チ・ホアは溜息交じりにそう言って途方に暮れる。


   ●


 夢も見ないような深淵なる眠りの淵からゆっくりと覚醒した始末屋は、ゆっくりと眼を開けた。

「……」

 眼を開けた始末屋の視界に映るのは、さほど広くもないし快適でもない、古めかしい造りの薄暗い小部屋の天井である。

「……ここは、どこだ?」

 小部屋の窓際に設置されたベッドの上で半身を起こした始末屋は、周囲を一旦ぐるりと見渡してから毛布を跳ね除けると、硬い板張りの床へと降り立った。そして素足のまま床へと降り立った際に、自分が乳房も性器も丸出しの、一糸纏わぬ全裸である事にようやく気付く。

「ふむ」

 自分が全裸である事をさほど気にする素振りも無くうなずくと、始末屋はこの小部屋から退出すべく、出入り口である扉へと足を向けた。しかしながら大股でもって一歩を踏み出そうとした彼女の全身に、凄まじいまでの激痛が走る。

「!」

 全身を幾千万のナイフでもって滅多刺しにされたかのような激痛に喘ぐ始末屋はその場にうずくまり、苦悶の声を上げる事も出来ない。

「あら始末屋、どうやら眼を覚ましたようね?」

 すると始末屋が足を向けようとした扉が向こう側から開いたかと思えば、その扉を潜って姿を現したグエン・チ・ホアが入室するなりそう言った。

「……チ・ホアか」

 全裸でうずくまりながらそう言った始末屋に、今日もまた純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアは、呆れ返ったかのような表情を向ける。

「チ・ホアか、じゃないでしょう? あなた、とてもじゃないけど未だ未だ立ち上がれるような怪我じゃなかったんですから、ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは小部屋を縦断して始末屋の元へと歩み寄ると、うずくまったまま激痛に耐え続ける彼女を半ば強引に抱え起こし、そのまま無理矢理ベッドに横たえてから毛布を掛けた。

「ほら、あなたは未だ寝てなさい? 今は怪我を治す事が先決よ?」

 そう言いながら始末屋の額にそっと手を当て、発熱していないかどうかを確認するグエン・チ・ホアに、ベッドに横たわったままの全裸の彼女はぶっきらぼうな口調でもって尋ねる。

「チ・ホア、あたしは何日間寝ていた?」

「ここに来た日を含めて、五日間も寝ていたのよ? あなたったら、全然眼を覚まさないままぐうぐういびきを掻いて寝続けるものですから、このまま死んじゃうないかと思って心配したんですからね?」

「そうか、あれからもう五日も経ったのか」

 始末屋がそう言えば、彼女の腹の虫がぐうぐうと盛大な鳴き声を上げた。勿論腹の虫が鳴り、それを他人に聞かれたからと言って、冷静沈着を旨とする彼女は特段恥ずかしがったりはしない。

「腹が減った。何か食わせてくれ。それと、糞がしたい」

「はいはい、それじゃあ何か食べる物を用意してあげるから、大人しくここで待っていなさいね? それと、お手洗いは廊下の突き当たりよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが優雅な足取りでもって小部屋から出て行くと、始末屋は再びベッドの上で半身を起こして毛布を跳ね除け、今度はゆっくりとした動作でもって板張りの床に降り立った。そして激痛が走る足を引き摺りながら小部屋を縦断し、手を掛けたノブを回して扉を開け、廊下に出る。

「ここか」

 短い廊下を渡った先の突き当たりの新たな扉の前で、全裸の始末屋はそう独り言ちてからノブを回し、洋式便器一つが設置されているだけの簡素なトイレに足を踏み入れた。そして洋式便器に腰を下ろすと誰憚だれはばかる事無く、特大級の一本糞をぶりぶりとひり出すと、五日ぶりの排泄がもたらす快感に酔い痴れる。

「ふう」

 豪快な排泄を終えた始末屋はトイレットペーパーでもって肛門とその周囲にこびり付いた糞便をよく拭き取り、洗浄ハンドルを回して一本糞を流してから腰を上げると、ずきずきと痛む身体に鞭打ちながらトイレを後にした。そして先程までの小部屋へと取って返し、再びベッドに身を横たえてから毛布を引っ被って待っていれば、やがてお盆を手にしたグエン・チ・ホアが姿を現す。

「お待たせしちゃったかしら? 取り急ぎこんな物しか用意出来なかったけれど、我慢してちょうだいね?」

 かしこまるような口調でもってそう言った、アオザイ姿のグエン・チ・ホア。彼女がベッドの脇のキャビネットの上に置いた木製のお盆には、やや大きめの丼が二つばかり乗せられており、それぞれ具沢山の豚汁とフォルモサ風の豚肉のそぼろ煮乗せご飯が盛られていた。

「構わん。食わせろ」

 ベッドの上で半身を起こした始末屋はそう言いながら、まずはフォルモサ風の豚肉のそぼろ煮乗せご飯、つまり魯肉飯ルーローファンが盛られた丼を手に取ったかと思えば、その中身をレンゲでもって一気に掻っ込み始める。そして魯肉飯ルーローファンが盛られた丼が空っぽになると次の丼、つまり日本風の赤出汁仕立ての味噌が香る豚汁がなみなみと盛られた丼を手に取り、その中身もまた具材である豚肉や野菜ごと一気に飲み干してしまった。

「この程度の量では、全然足りない。チ・ホア、台所に行って、鍋と炊飯器ごと持って来い。急げ」

 二つの丼を空にした始末屋はそう言いながら盛大なげっぷを漏らし、グエン・チ・ホアは彼女の要請に応じて、豚汁と魯肉飯ルーローファンを調理したキッチンへと取って返す。

「ねえねえ始末屋、せっかく作ってあげたんだから、もっと味わって食べてくれないかしら?」

 グエン・チ・ホアは溜息交じりに呆れ顔でもってそう言いながらも、豚汁を調理した雪平鍋と魯肉飯ルーローファンを炊いた炊飯器を手にしながら小部屋に戻って来ると、空になった丼にそれらの中身をたっぷりと盛り付けてから始末屋に手渡した。

「とにかく今は、食える物を食えるだけ食って食って食いまくって、体力を回復させなくちゃならん。味わっている暇など無い」

 そう言った始末屋はその言葉通り、丼に盛り付ける間も惜しむような勢いでもってレンゲを振るい、雪平鍋と炊飯器の中身を貪るようにして食って食って食いまくる。鯨飲馬食と言う四文字熟語を髣髴とさせるその食いっぷりは、まさに健啖家と評する以外に形容すべき言葉を持たない。そして彼女が丼に手を付けてから僅か数分後、気付けばそれらの調理器具はその天分を全うしたかのような姿を晒し、米粒一つ残さず空っぽになってしまっていた。

「げっぷ」

 雪平鍋と炊飯器を空にした始末屋は再び盛大なげっぷを漏らすが、彼女は未だ満足していない。

「未だだ。未だ未だ足りない。怪我を治して体力を回復させるには、もっともっと山盛りの飯を食わなきゃならん。だからチ・ホア、何でもいいからもっと食わせろ」

 始末屋は更なるお代わりを要求するが、グエン・チ・ホアは肩を竦めながら首を横に振る。

「悪いけど、今すぐ食べられる調理済みの食べ物はそれでお終いなのよ? 後でまたスーパーに行って何か買って来てあげるから、それまでは我慢してちょうだい?」

「そうか」

 始末屋はそう言って得心すると、ベッドに横になって毛布を引っ被り、眼を閉じた。そして雪平鍋と炊飯器を回収したグエン・チ・ホアに向けて、ぶっきらぼうな口調でもって宣言する。

「あたしは寝る。起きるまで起こすな」

「はいはい、それじゃああなたが眼を覚ますまでに、次の食事を鍋一杯に用意しておけばいいのね?」

 そう言ったグエン・チ・ホアがこの小部屋、つまり『Hoa's Library』の奥の彼女の自宅の客間から出て行く頃には、ベッドの上の始末屋は既にいびきを掻きながら熟睡してしまっていた。そんな彼女の寝顔を観察しつつ、呆れ顔のグエン・チ・ホアは安堵と困惑が入り混じったかのような溜息を漏らす。

「まったくもう、本当に野生児みたいな子なんだから、困っちゃうじゃない?」

 グエン・チ・ホアのその言葉も、熟睡する始末屋の耳には届かない。


   ●


 およそ十二時間後、始末屋は再び目を覚ました。そしてベッドの上で半身を起こした彼女は乳房が丸出しになっている事も気に留めず、扉の向こうに居るであろうグエン・チ・ホアに向けて大声でもって要請する。

「チ・ホア! 腹が減った! 飯だ!」

 すると程無くして客間の扉が開き、大きな寸胴鍋と炊飯器を手にしたグエン・チ・ホアが姿を現した。一見すると細身で華奢な彼女が重い寸胴鍋と炊飯器を軽々と持ち上げているのは、傍目にはかなり異様な光景である。

「はいはい、眼を覚ましたらお腹が空いたのね? 今度はたっぷり用意しておいてあげたから、お腹一杯になるまでお食べなさい?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは一升炊きの炊飯器と寸胴鍋をベッドの脇に置くと、やはり大きな丼に山盛りの白米と具沢山のチキンカレーをたっぷりと盛り付け、始末屋に手渡した。

「いただきます」

 浅黒い肌の始末屋は乳房が丸出しのままそう言うと、丼とスプーンを手に取り、十二時間前よりはゆっくりとしたペースでもってカレーライスを食べ始める。

「それで始末屋、女丈夫で知られたあなたがこんなにぼろぼろになって帰って来るだなんて、一体何があったのかしら? あなた確か、ホァン財閥の会長のお孫さんを助けにハオジアンに向かった筈でしょう? その辺りの事情を、そろそろ説明してくれてもいいんじゃない?」

 アオザイ姿グエン・チ・ホアが、客間のベッドの脇に置かれていた簡素な木製のダイニングチェアに腰を下ろすと、ベッドの上の始末屋に尋ねた。すると全裸のままの彼女はスプーンを持つ手を止める事無く、口内のカレーライスをむしゃむしゃと咀嚼しながら答える。

黄金龍ホァン・ジンロンの孫息子である俊明ジュンミンをハオジアンで救出せよと言う依頼は、多少の抵抗はあったものの、難無く完遂した。しかしながら、ここフォルモサに引き返した後に、今度は黄金龍ホァン・ジンロンの魔の手から俊明ジュンミンを救出せよと言う新たな依頼を引き受けてな。目下、あたしはこの依頼を完遂出来ずにいる」

「あら、そうなの? あなたが依頼を完遂出来ずにいるだなんて、珍しい事もあったものね?」

「ああ、想定外の邪魔が入ってな」

 始末屋は淡々とした口調でもってそう言いながらも、内に秘めたる鬱憤を少しでも晴らそうとしてか、チキンカレーの具材として煮込まれていた鶏の腿肉を骨ごとぼりぼりと噛み砕いた。

「想定外の邪魔ねえ……具体的には、どう言った障害があなたの前に立ちはだかったのかしら?」

 アオザイ姿のグエン・チ・ホアが小首を傾げながら重ねて尋ねれば、全裸の始末屋もまた重ねて答える。

「空手家の、マスター大山だ。かつては『大隊ザ・バタリオン』に所属していた執行人エグゼキューターの一人であり、殺し屋評価サイト『ヘッドショット』の月間獲得報酬ランキング第一位にまで上り詰めたあの男が、今は黄金龍ホァン・ジンロンの用心棒の職に就いていてな」

「成程ね? それで、そのマスター大山とか言う空手家の用心棒に、こてんぱんに叩きのめされちゃったって訳なんだ? でしょ?」

「ああ、確かにその通りだ」

 そう言ってグエン・チ・ホアの問い掛けに返答した始末屋は、やはり鬱憤を晴らすように、カレーライスを口に運んでいたスプーンに噛み付いた。常人離れした彼女の顎の力と頑丈な歯によって、ステンレス鋼で出来ている筈の硬いスプーンが、まるでアルミホイルで出来たそれの様に噛み砕かれる。

「それにしても、その何とかって言うランキングで第一位になった空手家だからって、女丈夫で知られたあなたがそこまでの大怪我を負うものなのかしら? そんなに強かったの、そのマスター大山とか言う空手家さんは?」

「ああ、強かった。更にその上、ホァン財閥本社ビルのほぼ最上階から突き落とされたものだから、想定外の損害を被ってしまってな」

ホァン財閥本社ビルの、ほぼ最上階ですって? あそこって確か、百階建てだか九十階建てだかの高さじゃなかったかしら? そんな高さから落っこちてもこうして生きているだなんて、始末屋、あなたの不死身ぶりも大概じゃないの?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、高層ビルの八十五階から落下した挙句、コンクリートブロックで舗装された地面に叩きつけられても死なない始末屋の身体の頑丈さに改めて呆れ返った。

「まあ、今回ばかりはさすがのあたしも死ぬかと思ったがな」

「あなたったら、以前トルコのイスタンブールに行った際に飛んでいる飛行機から落っこちた時も、そう言ってたんじゃなかったかしら? 本当にもう、どうやったら死ぬのかしらねえ、あなたは?」

 溜息交じりにそう言ったグエン・チ・ホアに見守られながら、全裸の始末屋はカレーライスを何杯も何杯も続けざまにお代わりしながら、まるで冬眠前のヒグマの様に胃袋を満たし続ける。

「よし、チ・ホア、もう一杯お代わりだ」

 やがてグエン・チ・ホアが一升炊きの炊飯器と寸胴鍋を手にしながら客間に姿を現した数十分後、始末屋はそう言って、空になった丼をグエン・チ・ホアに差し出した。しかしながら彼女は無言のまま肩を竦め、首を横に振る。

「悪いけど、もう炊飯器も鍋も空っぽよ? もっと食べたいのなら、夕食の時間まで待っていてくれないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが炊飯器の蓋を持ち上げてみれば、僅か数粒の米粒がこびり付いた内窯の底の部分が丸見えになっており、一升分の炊き立ての白米が始末屋の胃袋の中に消えた事を如実に物語っていた。

「そうか」

 そう言って得心した始末屋は腹の奥底から鳴り響くような盛大なげっぷを漏らし、ベッドから身を起こして板敷きの床に降り立つと、これからの行動を予告する。

「便所に行って、糞をして来る」

 この始末屋の予告を聞いたグエン・チ・ホアは「そんな事、いちいち言わなくてもいいんじゃない?」と言って呆れるが、そんな彼女の様子を気にする素振りも見せず、始末屋は廊下の突き当たりのトイレまで歩いて移動した。そしてトイレに入るなり洋式便器に腰を下ろし、ぶりぶりと音を立てながら太く長い一本糞を豪快にひり出す。

「ふう」

 一本糞をひり出し終えた始末屋は肛門をトイレットぺーパーで拭いてから腰を上げ、下水の彼方へと糞を流し、トイレを後にした。そして客間へと取って返すと再びベッドに横たわり、毛布を引っ被って眼を閉じる。

「あたしは寝る。起きるまで起こすな」

「はいはい、それじゃあまた半日後にたっぷりご飯を炊いて待っててあげるから、それまでゆっくり寝ていなさいね?」

 呆れ顔のグエン・チ・ホアがそう言うが早いか、始末屋はぐうぐうといびきを掻きながら熟睡してしまっていた。窓の外では常雨都市フォルモサに名にふさわしいそぼ降る雨が、宵闇に包まれた街路を濡らしている。


   ●


 更に十二時間が経過した頃、またしても始末屋は眼を覚ました。そしてベッドの上で半身を起こすと、懲りる事無くグエン・チ・ホアに向けて大声でもって要請する。

「チ・ホア! 腹が減った! 飯だ!」

 そう言った始末屋はグエン・チ・ホアが姿を現すまでの時間を利用し、ベッドから抜け出して板敷きの床に降り立つと、膝を曲げて伸ばす屈伸運動を行った。そしてそのまま伸脚や前後屈、跳躍や回旋と言った簡単な準備運動を繰り返す事によって、己の肉体の状態を確認する。

「ふむ」

 自らの肉体が次第次第に回復しつつある事を確認した全裸の始末屋は、その場にひざまずいたかと思うと床に手を突き、二本の手の力だけでもって全身を支える逆立ちの体勢へと移行した。更にそのまま、逆立ちの体勢を維持しつつ、身体を上下させる腕立て伏せを行う。身長が優に二mを超える彼女が逆立ち状態での腕立て伏せを難無くこなす姿は圧巻で、その膂力とバランス感覚の優秀さを如実に物語っている事は言うまでもない。

「あら始末屋、あなた、何をやっているのかしら?」

 十二時間前に引き続いて一升炊きの炊飯器と寸胴鍋を手にしながら姿を現したグエン・チ・ホアが、客間の中央で逆立ちしたまま腕立て伏せを繰り返す始末屋に怪訝そうな眼を向けた。

「怪我の状態と、体力の回復ぶりを確認している。全身の骨と筋肉が未だ未だ痛むが、幸いにも骨折はしていないし、内臓と関節も無事のようだ」

「あら、そうなの? それは良かったんじゃない?」

 グエン・チ・ホアは素っ気無くそう言うと、手にした炊飯器と寸胴鍋を床に置き、それらの蓋を開ける。

「今日はフォルモサ風のおでんにしてみたんだけれど、あなた、おでんは好きだったかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、寸胴鍋の蓋の隙間からはたっぷりの出汁に浸かった山盛りのおでんの具材、つまり大根や卵や各種の練り物などが垣間見えた。ちなみにフォルモサのおでんは昭和初期に日本本土から伝来すると同時に普及したもので、味付けに八角や花椒ホアジャオを使うなど、日本のおでんに多少のアレンジが加えられている。

「あたしに好き嫌いはない。さっさと食わせろ」

「はいはい、今すぐ準備してあげますからね?」

 ともすれば横柄とも受け取れる始末屋の態度に憤慨する事も無く、そう言ったグエン・チ・ホアは用意した二つの丼それぞれにおでんと白米を盛り付けると、それらを始末屋に手渡した。

「はい、どうぞ? おあがりなさい?」

「いただきます」

 二つの丼を手渡された始末屋は合掌と共にそう言って箸を取り、熱々のおでんの具材をおかずにしながら炊き立ての白米を頬張り始める。

「どう? 美味しい?」

「ああ、美味い」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対して始末屋はそう言うが、やはり鯨飲馬食と言う四文字熟語を髣髴とさせる見事な食いっぷりでもっておでんを頬張る彼女の姿は、とてもじゃないが具材の風味を一々味わっているようには思えない。しかしながらグエン・チ・ホアは、自分がこしらえたおでんの具材を次々に胃袋へと流し込み続ける始末屋に異を唱える事も無く、まるで我が子の成長を見守る慈母の様な優しくも温かな眼差しを彼女に向ける。

「未だ未だお代わりはありますから、ゆっくり沢山食べなさいね?」

「ああ」

 素っ気無くそう言いながらも、始末屋は箸を持つ手を止めようとしない。

「それで始末屋、あなた、一体これからどうするつもりなのかしら?」

 やがて一升炊きの炊飯器と寸胴鍋の中身の半分ばかりが始末屋の胃袋の奥底へと消え失せた頃、ベッド脇のダイニングチェアに腰を下ろしたグエン・チ・ホアが、改めて始末屋に尋ねた。すると彼女は山盛りの白米とおでんをむしゃむしゃと咀嚼しつつ、一切躊躇う事無く答える。

「前にも言った通り、とりあえず今は食って寝て糞をして、怪我を治すと同時に体力を回復させなければならない。そして体調を万全に整えたら、再びホァン財閥本社ビルに殴り込みを仕掛け、黄金龍ホァン・ジンロンとマスター大山にリベンジマッチを挑む。負けっ放しのままおめおめと引き下がる事など出来ないし、一度引き受けた依頼は何があろうと完遂するのがあたしのモットーだ。例外はあり得ない」

「あら、そうなの? やっぱりあなた、諦めてはいなかったのね?」

「当然だ。今こうして飯を食っている間にも、依頼主である俊明ジュンミンは、あたしに救助されるべきその瞬間を心待ちにし続けている筈だからな。だから手遅れにならない内に、彼の元へと馳せ参じなければならない」

 そう言った始末屋はおでんをおかずにしながら白米を頬張り続け、やがて気付けば、グエン・チ・ホアが用意した炊飯器と寸胴鍋は空っぽになってしまっていた。

「げっぷ」

 炊飯器と寸胴鍋を空にした始末屋は盛大なげっぷを漏らし、同じく空になった二つの丼をグエン・チ・ホアに手渡すと、宣言する。

「便所に行って、糞をして来る」

 そう言った始末屋は腰を上げ、客間を後にしたかと思えば廊下の突き当たりのトイレで洋式便器に腰を下ろし、やはりぶりぶりと豪快な音を立てながら健康的な一本糞をひり出した。そしてトイレットペーパーでもって肛門を拭いてからひり出した糞を流すと、客間に取って返してベッドに横になる。

「あたしは寝る。起きるまで起こすな。それと、明日からはトレーニングを再開するからな」

 そう言った始末屋は毛布を引っ被って眼を閉じ、就寝の体勢へと移行した。

「はいはい、それじゃあそれまでに、またご飯を用意しておけばいいのね?」

 そう言って炊飯器と寸胴鍋、それに丼と箸を回収するグエン・チ・ホアの傍らで、始末屋はぐうぐうといびきを掻きながら熟睡する。


   ●


 やがて、ほぼ十二時間後に眼を覚ました始末屋がグエン・チ・ホアを呼ぶ声に、遠慮の二文字は無い。

「チ・ホア! 腹が減った! 飯だ!」

 始末屋が大声でもってそう言えば、程無くしてグエン・チ・ホアが客間に姿を現し、手にした一升炊きの炊飯器と寸胴鍋を板敷きの床に置く。

「はいはい、お腹が空いたのね? 今日は鹹蜊仔キアムラーアーを作っておいてあげたから、お腹一杯になるまで食べなさい?」

 半ば諦め切ったかのような口調でもってそう言ったグエン・チ・ホアは鹹蜊仔キアムラーアー、つまりフォルモサ産の大ぶりなシジミをニンニクと共に醤油ダレに漬け込んだ郷土料理と白米をそれぞれ一椀ずつの丼に盛り付け、ベッドの上の始末屋に手渡した。

「いただきます」

 やはり行儀良くそう言った始末屋は箸を手に取り、ニンニクと生姜と唐辛子が効いたピリ辛の鹹蜊仔キアムラーアーをおかずにしながら白米を頬張り始める。

「どう? 美味しい?」

「ああ、美味い」

 しとしととそぼ降る雨の音を聞きながら、全裸の始末屋とアオザイ姿のグエン・チ・ホアの二人は、ちょうど十二時間前と全く同じ会話を繰り返した。

「ごちそうさま」

 そうこうしている内に始末屋は食事を終え、ものの三十分と経たない内に一升炊きの炊飯器と寸胴鍋を空にした彼女はそう言って箸を置くと、グエン・チ・ホアに尋ねる。

「チ・ホア、あたしの服はどこだ?」

「あなたが着ていた服の事なら、全部洗って洗面所に置いてある筈よ? 下着からコートまでぐっしょりと血で汚れていて、染み抜きするのが大変だったんですからね?」

「そうか」

 特に感謝しているような素振りも無くそう言った始末屋は腰を上げ、板敷きの床に降り立ったかと思えば客間から退出し、廊下を渡った先の洗面所に足を踏み入れた。するとグエン・チ・ホアの言葉通り、彼女が着ていた衣服一式が洗面台の脇の脱衣籠の上にきちんと畳まれた状態でもって置かれていたので、彼女はそれらを身に着け始める。

「やっぱりそれを着ていてこそ、あたしが知っている始末屋って感じよねえ?」

 洗面所の様子を窺いながらそう言ったグエン・チ・ホアの眼前で、始末屋は黒いレースの下着と靴下とワイシャツ、それに黒い三つ揃えのスーツに身を包むと真っ赤なネクタイを締め、その上から駱駝色のトレンチコートを羽織った。そして黒光りする革の手袋と革靴を履き、身支度を整え終える。

「チ・ホア、あたしはこのビルの屋上でトレーニングに励む。また十二時間後に、飯を用意してから呼んでくれ」

「あら、そうなの? でも屋上へと続く扉は、確か鍵が掛けられていた筈だけど?」

「それがどうした。この世にあたしに開けられない扉は無い」

 そう言った始末屋はトイレとは逆の方角へと廊下を渡り切り、グエン・チ・ホアの住居に続いて『Hoa's Library』の店舗もまた通過すると、ビルディングの階段へと足を踏み入れた。そしてその階段を最上階まで一気に駆け上がってみれば、確かに鍵の掛かった鉄扉が彼女の眼前に立ちはだかりはしたものの、そんな物は始末屋の敵ではない。

「ふん!」

 気合一閃、常人離れした膂力を発揮した始末屋は、鋼鉄製の鎖と南京錠でもって固く施錠された頑丈な鉄扉を蹴り開けた。

「ふむ」

 鉄扉を蹴り開けた始末屋はビルディングの屋上へと足を踏み入れ、こうべを巡らせて周囲の様子を確認すると、トレンチコートの懐から取り出した左右一振りずつの手斧を構える。

「マスター大山め、首を洗って待っているがいい。次に相まみえた時こそが、貴様の命日だ」

 手斧を構えた始末屋はそう独り言つと、無人の屋上の中央に猫足立ちの構えでもってこちらの出方を窺うマスター大山の姿を思い浮かべつつ、その空想上の仇敵に向かって襲い掛かった。彼女の手斧は時として幻のマスター大山の素っ首を刎ね飛ばし、またある時には逆に返り討ちに遭って命を落としながらも、何度も何度も繰り返し繰り返し、来たるべき実戦を想定したイメージトレーニングに励む。

「待っていろよ、俊明ジュンミン。貴様の依頼は、必ずや完遂してみせる」

 雨に濡れる屋上で手斧を振るいながらそう言った始末屋の頬を、一筋の水滴が伝い落ちた。その水滴がそぼ降る雨の雫だったのか、それとも彼女の汗だったのかは、当の始末屋自身にも分からない。

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