第7話 日中その四

 いつもと同じ朝。僕はいつもと同じように愛犬アリスに起こしてもらう。いつもと同じように姉さんの作る朝食をいただき、いつもと同じ時間に家を出る。いつもと同じバス停でいつもと同じバスを待つ。いつもと同じ時刻にやってきたバスに乗り、いつもと同じ場所に立ってバスに揺られながら学校へ向かう。

 いつもと違うのは、今日のバスには熊山姉妹が乗っていないという事だけだった。


 いつものように教室に入ると、いつもとは違って今日はクラスメイトが話しかけてきた。先生以外に話しかけられたのはいつぶりだろうと思ってみたけれど、あまりにも記憶のかなたにあったためか思い出すことも出来なかった。


「おい、お前は熊山ちゃん達にいったい何をしたんだよ?」


 僕の目の前に立ち塞がった鮭川昇さけかわのぼるが僕の胸倉を掴みながら殴りそうな勢いでそう言ってきた。

 僕はその言葉の意味が理解出来ずに黙っていると、いつもよりテンションの低い鹿沢翔しかさわかけるが鮭川昇の肩越しに話しかけてきた。


回天砌かいてんみぎり、お前がねむちゃんとめぐちゃんに何かしたってのはわかってるんだよ。何をしたのかはわからなけれど、とにかくお前は何かしたんだ。素直に白状しろよ。そうすれば鮭川だってそこまで酷いことはしないと思うぜ。と言いつつも俺は保証しないけど、黙ていれば酷いことになるのは保証するぜ」

「ああ、俺のやることをお前が決めてんじゃねえよ。熊山ちゃんたちが休むってのはこいつのせいだって鹿沢は言ってるんだけど、本当にそうなのか?」

「間違いないって。この前だってねむちゃんが回天砌と同じ空間にいるのがつらいって言ってたからさ。それに、こいつとねむちゃん達って同じバスで通学してるんだぜ。そんなのっておかしいよな」

「ああ、確かにおかしいな。なんでお前みたいな蛆虫野郎が熊山ちゃんたちと同じバスに乗るんだよ。お前にそんな権利はねえんだよ。男なら男らしく早起きして走って学校にこいよ。そうすればお前も熊山ちゃん達も平和に過ごせるってもんだろ」

「そうだそうだ、俺たちはお前の事なんかどうでもいいんだけど、ねむちゃんとめぐちゃんがお前みたいな糞虫の事で悩んでるってのが気に入らねえな。さっきから黙って聞いてるみたいだけど、なんか言いたいことは無いのかよ?」

「いや、君たちが言っていることを理解できないんだけど、僕が熊山さんたちに何かしたって記憶は無いんだよね。そもそも、僕はこの学校で無視されている理由ってのも思い当たらないんだけど、それってどうなのかな?」

「何言ってんだてめえはよ。てめえみたいな蛆虫が視界に入るだけでも熊山ちゃんたちは心を痛めてるってのがわかんねえのかよ。てめえにはその辺をわからせた方がいいんだろうな。いつまでとぼけてられるか知んねえけどよ、てめえが今まで熊山ちゃんたちにやってきた事を少しでも反省してるってんなら、今この場で全員に謝罪しろよ。それが出来なきゃ俺がお前の体にわからせてやるよ」

「……ごめん。言っている意味が分からない」


 僕のその答えが気に入らなかったのだろう。鮭川の右手が僕の顔面をとらえていた。不思議と痛いという感覚は無かったのだけれど、僕の体はそのまま教室の壁に叩きつけられるように吹っ飛んでいた。その事に対して、一部の男子からは歓声が上がり、ほとんどの女子からは悲鳴が上がっていた。そして、その場を目撃していた担任とたまたま通りかかった学年主任の教師からは怒号が飛んでいた。

 僕は立ち上がろうとしたのだけれど、全身に力が入らずに立ち上がることも出来なかった。壁につかまりながらもなんとか立ち上がってみたものの、全身を襲う原因不明の倦怠感によって動くことも出来ずに立っているだけの状態になっていた。

 何やらみんなが言い争う声が聞こえてきたけれど、僕は壁にもたれかかるようにしてその様子を眺めていた。これから何が起こるのだろうと考えてみたけれど、頭の中に浮かんでくるのは、体がだるいなという事だけだった。


 僕の意識がはっきりとして、自分の体があるという感覚を取り戻したのだが、それと同時に鮭川に殴られた辺りがジンジンとして鈍い痛みに襲われていた。鏡を見なくてもわかるくらいに顔は腫れているようだったが、歯や骨には異常は無いように思えた。

 ベッドから起き上がり、立ち上がろうとしたのだけれどうまく足に力が入らずによろけてしまった。その事で物音を立ててしまったのだが、それを聞いた校医の先生が僕の行動を確認して近付いてきた。


「回天君は喧嘩とは縁のない生徒だと思っていたんだけど、そうではなかったんだね。いや、今回は喧嘩が君に縁があったのではなく鮭川君が一方的に関りを持とうとしたのかもしれないね。ま、君くらいの年齢の時は喧嘩の一回や二回は必要かもしれないけれど、一方的にやられるだけってのは良くないね。ただ、私の立場から言わせてもらえると、回天君みたいに無抵抗のまま一方的にやられるだけなのは負の連鎖を断ち切る最良の手立てだと思うんだよ。でもね、負の連鎖は立ち切れたとしても回天君の中には一方的にやられたというマイナスの気持ちだけが残ることになるんだよね。それが間違った方向に進んでしまうとよくないだろうし、今の回天君は少しくらい良い事があった方がそう言った感情が残らずに済んでいいのかもしれないね。よし、ここは校医でもある先生が気の毒な回天君のために一肌脱ごうではないか。一肌脱ぐと言っても服を脱ぐ事はしないから期待しないでおくのだよ。さあ、君はそのままベッドに座ったままで動いてはいけないよ。回天君は決して動かずに先生に全てをゆだねるのだよ。そうすれば君が先ほど経験してしまった殴られたというマイナスの出来事がプラス方向へ改善されると思うからね。さあ、前置きは長くなってしまったけれど、回天君は決して動いてはいけないよ。君が動くということは私の意思ではなく君の意思でこれからすることを行うということになるからね。生徒と教師とはいえ、それは味方によってはセクハラともとられかねないからね。よし、君はそのまま目を閉じてゆっくり深呼吸をするんだよ。ゆっくりとゆっくりと、深く深く、体の隅々まで酸素がいきわたるイメージで深呼吸をするんだよ」


 僕は今まで一度も保健室に来たことは無い。ましてや、校医の先生と会話をしたことも無いのだ。それでも、先生が僕の事を知っているというのは意外でも何でもなかった。去年の夏くらいに僕がいじめに遭っているんじゃないかという議論が教師の間で交わされていたそうなので、その議論の中にメンタルケアもやっている校医の先生がいたとしても不思議ではないだろう。お互いに一方的に知っているという関係なのだけれど、クラスのみんなに無視されていた僕は存在を認識してもらえているという事だけでも嬉しい事だった。それだけでも十分に感じていたのだけれど、僕の前に立っている先生の腕が僕の後頭部を抱きかかえると、そのまま僕を優しく抱きしめてくれていた。

 アリスとは家で良くじゃれあっているのだけれど、その時よりも若干体温が低いようには感じたけれど、不思議と包まれているという安心感があった。それはアリスでは感じられないような経験だった。


「さあ、先生が出来ることはここまでだよ。これから先は君がどうするか決めたらいい。ただ、先生は軽い怪我や少しくらいの心の傷を癒すことは出来ても、それ以上は難しいかもしれないね。その時はちゃんとした先生に診てもらう事をお勧めするよ。それと、回天君の体が無事だとしたら、今から校長室に向かってもらいたいんだ。鮭川君が君を殴ったのは多くの生徒や先生が目撃した事実なんだ。それについての話し合いが行われいているんだけど、被害者である君の意見を先生方はみんな聞きたいと思っているよ。鮭川君が言っている事が正しいのか、回天君が感じていることが正しいのか、それ自体は主観の問題もあって決められないかもしれないけれど、君たち二人の間で何があったのか先生方も確認しないといけないんだよね。最も、君の返答次第では鮭川君の処遇も大きく変わってくるだろうけれど、それを決めるのは被害者である君の権利でもあるんだよね。君が殴られる瞬間を見た君の担任も、物音を聞いて駆け寄ってきた学年主任の先生も、君たち二人の間であったことは正確に理解しているわけではないからね。理解していることは、鮭川君が回天君を殴っていたという事実だけなんだよ。さあ、そろそろ足にも力が入るようになったんじゃないかな。一人で歩くことが可能だったら校長室へ向かうんだ。まだ歩けないようだったら、先生が肩を貸してあげるからね」


 僕は校医の先生の好意を無視して自力で校長室へ向かった。話し合いが終わったらもう一度保健室に来るようにと言われたけれど、また殴られたら保健室ではなく病院に行くんだろうなと思うと、少しだけそれを期待してしまっていた。

 初めて来た校長室の扉をノックすると、聞きなれた担任の返事が聞こえてきた。校長ではなく担任が返事を返してきたことが面白かったのだけれど、もしかしたらこれは殴られた後遺症なのかもしれない。

 僕は重く頑丈な扉をゆっくりと開けると、少しだけ部屋の様子を確認してから中にいる先生方に挨拶をした。

 鮭川は座っている校長の斜め前に立っているのだけれど、両隣を学年主任と体育教師がしっかりとかため、僕の担任とクラス委員の乳牛絞にゅうぎゅうしぼるさんが向かい合う形で高そうなソファに座っていた。

 僕は乳牛さんの隣に座るように言われたのでそうしようとしたのだけれど、乳牛さんは二人掛けソファのど真ん中に座っているのでとても座りにくかった。というよりも、乳牛さんがずれてくれないと座れない状況ではあった。僕がそれを無言でアピールしているのだけれど、僕と目が合った乳牛さんはニコッとほほ笑むだけで座っている位置をずらすことはしてくれなかった。

 僕は座るのを諦めてしまったのだけれど、担任が乳牛さんに席を少しずれるように指示したところ、乳牛さんは端の方へと寄ってくれたのだった。僕も安心して座ろうとしたのだけれど、僕が腰を下ろした瞬間に乳牛さんが膝を僕の下に入れてきたのだ。

 乳牛さんの膝は堅かったのだけれど、それを支えているだろう太ももの感触はとても柔らかかった。殴られて以降は柔らかいものに縁があるなと思いつつも、僕は驚いて立ち上がってしまった。

 そのリアクションを見た乳牛さんはケラケラと笑っていたけれど、それを見た学年主任は少し怒っていたけれど担任は半ばあきらめたような感じで乳牛さんに説教をしていた。


「ごめんね。私がクラス委員になってからも回天君の状況を改善することが出来なくてさ。そのことを申し訳ないと思って、私みたいなかわいい子の太ももの感触を君に捧げたんだよ。一年ちょっとだけしか見てないけれど、君はどうしてそんなに我慢できるのか不思議でしょうがないよ。私だって無視したくてしていたわけじゃないんだけど、君からしてみたら私も熊山さんたちに協力している共犯者としか思っていないだろうけどね。でも、それは何もしなかった私の責任でもあるから、自ら進んで罰を受ける覚悟はあるよ。でも、エッチなのはやめてね」


 乳牛さんはクラスをうまくまとめていると思う。一見すると適当な感じにも見えてしまうけれど、それが美味い具合に緊張と緩和をもたらしているように思えた。そんな乳牛さんにとって、僕のようなクラス全員から無視されている生徒がいるということはどんな気持ちになっていたのだろうか。

 僕自身は無視されようが今日みたいに殴られようが気にはしないのだけれど、それを目撃してしまった人の立場というものは考えたことが無かった。乳牛さんに正義感が全くないとは思わないけれど、本人の言う通り無視していたことに加担していたということは、無視しているという状況を肯定していたと受け取られても仕方ないのかもしれない。僕はそう思わないのだけれど、乳牛さんはそう思っているようだった。

 だからと言って、その罪滅ぼしに太ももに座らせるというのもどうかと思うのだけれど。


「ああ、回天も来たところだし、もう一度話を整理させてもらうよ。鮭川の言い分で間違っているところがあったとしたら、その都度回天が訂正してくれ。今の時点ではどちらの言い分が正しいのか判断は出来ないかもしれないが、客観的に現場を見ていた乳牛にも後で何があったか言ってもらうからな。先生たちが今現在知っていることは、回天が殴られたことと、先ほどから鮭川に聞いている暴力行為を行った理由だけだな。よし、鮭川の話から言ってみろ。どうしてお前が回天を殴ったのかもう一度言えるな?」


「俺がこいつを殴ったのは事実だけど、正直に言えば殴るつもりは無かった。本当は殴るんじゃなくて投げようと思ってたんだ。バカみたいな顔で無防備に襟を取らせて袖口も完全に空いていたんだ。そんな状況だったら柔道やってる奴なら誰だって投げようと思うに決まってるんだ。でもな、俺は今こいつを投げるのは危険だって本能が訴えかけてきたんだ。確かに、教室の床にこいつを叩きつけるのは良くないと思ったんだ。そこで、俺は投げることはせずに殴ることにしたんだ。俺が思いとどまって投げなかったってことを褒めてくれてもいいと思うんだ」

「鮭川、お前は何を言っているんだ。柔道の試合でもないのに人を投げるのはいけないことだが、人を殴ることだっていけないことだってわからないのか?」

「俺だって殴ったらだめだってことくらいは知っているよ。でもな、こいつは中学の時からずっと熊山ちゃんたちに迷惑をかけ続けてきたんだ。そんな奴が何の罰も受けずに暮らしていることなんておかしいだろ。どうして誰もこいつを罰することなく平気な顔して暮らしているんだよ。俺はそれが我慢ならなかったんだ」

「おい鮭川。お前は何を言っているんだ。どうして回天が熊山に迷惑をかけ続けているってのはどういう事なんだ?」

「俺達が入学した時から何となく気付いていたんだけど、こいつがずっと熊山ちゃんたちの事を見てたんだよ。ずっと見ているってのも気持ち悪いけれど、それは百歩譲っていいとしよう。でも、わざわざ同じ高校を受験して通学のバスも同じ時間にするってのは不自然すぎるだろ。絶対にこいつは熊山ちゃんたちのストーカーなんだよ。先生だってそれはわかるだろ?」

「鮭川。お前は頭がどうにかしているのか?」

「そうだぞ、鮭川は中学の時から柔道を真面目にやってる優秀な生徒じゃないか。それがどうしてそんな人を疑うような性格になっちまってるんだ?」

「鮭川が言うように回天が同じ高校を受験して同じ時間のバスに乗っていたとして、それがどうしてストーカーになっているという発想になるんだ?」

「先生方もちゃんと理解してくれよ。こいつは中学の時も熊山ちゃんたちに付きまとっていたって有名な話なんだよ。俺は中学が違うから詳しいことはわからないけど、熊山ちゃんたちがそう言ってたんだから間違いないんだよ。少なくとも、俺は熊山ちゃんを信じている。だから、こいつみたいなストーカー野郎は少しくらい痛い目に遭った方がいいんだ。罪には罰を与えないといけないんだろ。俺がその役目を担おうっていうだけの話だよ」

「あのな、お前がずっとそう言ってるから先生もこいつらの中学に電話で確認したんだ。回天と熊山の担任と生活指導の先生にも電話で聞いたんだが、回天が熊山達に付きまとっていたり何かストーカー的な行為を働いていたという事は無いそうだ。乳牛も同じ中学だったそうだけど、そんな話を聞いたことがあるか?」

「正直に言うと、回天君の事は見かけたことはあったけどどんな人かは知らなかったね。熊山さんたちは美人な双子で目立ってたから知ってたけど、友達ってわけでもないし人間性までは知らないです。でも、いつも取り巻きの男子は何人かいたのを見たかも。ちょうど今の鮭川君とか鹿沢君みたいな人達が何人かいたと思うよ。男子のほとんどは熊山さんの事を好きだったかもしれないけど、女子はどうだったんだろうね。あんまりいい評判は聞いたことなかったかも。でも、勉強も運動も出来るし、表立って悪い事だってしてないから女子の評価なんて妬み嫉みってやつなんじゃないかな。少なくとも、私は中学の時に学校にストーカーがいるって話は聞いたことなかったよ」

「だ、そうだが、鮭川はそれに対してどう思う?」

「でも、俺は熊山ちゃんたちがこいつに酷い目に遭わされたって言ってたのを信じるよ。こいつや乳牛がどう思おうが関係ない。俺は熊山ちゃんたちの言葉を信じるだけだよ」

「鮭川。お前の考えはよくわかった。でもな、だからと言って人を殴っていい理由にはならないよな。お前はなんで回天を殴ったんだ?」

「だから、それは何度も言っている通り、今日熊山ちゃんたちが休んだ原因を作ったこいつを懲らしめようと思ったからだよ。それだけだ」

「お前は熊山達に風邪をうつしたのが回天だって言うのか?」

「は、風邪?」

「お前は熊山達が休んでる理由も知らないのか?」

「熊山ちゃんたちが休んでいるのは、こいつが精神的なストレスを与えてきて、それが溜まりに溜まって爆発したからだろ?」

「違う。熊山姉妹は二人とも風邪だ。風邪。回天はここ数か月風邪なんかひいていないし、ひいていたとしても、熊山姉妹にうつすほど親しい仲でもないんだろ?」

「そんなのおかしいだろ、こいつが与えるストレスで熊山ちゃん達が弱ってそこで風邪をひいただけじゃないか。結局こいつが原因って事じゃないか」

「はあ、お前は何を言っても話が通じないな。回天は殴られた理由に心当たりはあるか?」


 僕は担任にそう聞かれたけれど、いくら考えても心当たりは見つからなかった。そもそも、クラスメイトに無視されている理由も知らないし、熊山さんたちが休んでいる理由だって知らない。本当に何も知らないのだ。


「さっぱりわかりません。もしかしたら、僕が何かしてたかもしれないけど、それも全く思い当たることが無いです。僕が熊山さんたちのストーカーだったって言われてるのは知ってますけど、正直に言って僕は彼女たちが魅力的に見えたことは一度もないです。いつも周りに男がいるなと思ったことはありますけど、その中に僕も加わりたいと思ったことは一度だってないです」

「てめえ、何勝手なこと言ってるんだ。熊山ちゃんたちに魅力を感じないって男としてどうかと思うぞ。やっぱりてめえの根性は腐りきっているみたいだ。俺が正しい方向に直してやるから覚悟しろよ」

「鮭川、いい加減にしろ。回天も無駄に挑発するな。いいか、お前らがどう思っているかも大事なことだが、どうしてそうなったのか原因を確認することも大事だ。鮭川には回天を殴った理由がある。間違いないな?」

「はい、俺がこいつを殴ったのは投げるのは良くないと思ったからです」

「投げるのも殴るのもよくない事だが、百歩譲ってそれは置いておこう。回天は鮭川に殴られた理由がわからないんだな?」

「はい、僕はいつも通り無視されているのではなくいきなり話しかけられたので戸惑いましたが、殴られた理由はわからないです」

「乳牛、お前は二人のやり取りを見ていたそうだが、どうなんだ?」

「私は鮭川君が回天君の席の前に立っているのが気になってしまって最初から見てたんですけど、言い合いをしているのではなく鮭川君が一方的にいちゃもんを付けているように見えました。回天君の声は小さくて聞こえなかったけれど鮭川君と鹿沢君が言ってたことは大体聞いてました。でも、その中で回天君が悪いんじゃないかって思うところは無かったと思います。鮭川君が回天君に掴みかかったのだってただの言いがかりが原因だと思いますし、鹿沢君もけしかけるような感じだったと思いますよ。傍観者として言わせてもらいますと、鮭川君たちの言い分はただの言いがかりだと思います。でも、その原因を作ったのは回天君を除くクラス全員だと思います」

「先生たちも回天がクラスで無視されていることは知っているんだ。それは何度も先生たちの間で話し合ってきた事でもあるんだ、そんな事が何度もあって回天にも毎回確認を取っているんだが、回天自身にとって無視されるという行為ではいじめの範疇に入らないんだそうだ。今まで回天が無視されることはあっても直接暴力を受けたりものを隠されたりといったことは一度も無かったんだ。今まで一度も無かったことなんで先生たちも油断していたのかもしれないが、鮭川が回天を殴ったのは先生も目撃したし、他の先生たちだって何が起こったか知っているんだ。そこで、改めて回天に聞くぞ。回天、お前は鮭川達にいじめられているんじゃないか?」

「何回も言いますけど、僕は彼らにいじめられていると思ったことは無いです。今日殴られたのだって納得はしていないけど、それなりに僕も何かしたんじゃないかなって思ってます。何かした自覚は無いけれど、鮭川君が言う通り投げられるよりは殴られた方がましなんじゃないかって思うくらいですし。だから、先生たちもそんなに気にしなくてもいいですよ。今回の事だって、殴られたのは事実ですけどそんなに重い罰を与えなくても僕は気にしないです。もし、彼が今回の事が原因で退学になったとしたら、それこそ本当にいじめにあってしまうんじゃないかって思うくらいですからね」

「そうか、お前がそう言うならあまり重い罰は与えないように先生から他の先生方にも言っておくよ。校長先生もこの場にいる先生たちもみんなお前の意見を尊重しようという気持ちはあるんだ。でもな、だからと言って謝って済むもんでいでもないんだ。停学か個別指導かは会議で決めることになると思うが、回天の意見を最大限に尊重してもらえるようにお願いすることにするよ。良いか、鮭川はどんな処分を受けたとしても回天を恨むんじゃないぞ。お前は先生たちの目の前で回天を一方的に殴りつけたんだ。その事は退学でもおかしくない事なんだからな。もしも、退学になったとしても回天を恨むようなことはするなよ。よし、回天と乳牛はもう戻っていいぞ。回天は一度保健室に行ってから教室に戻るようにな」

「私が責任をもって回天君を保健室までエスコートしてきます。今までの罪滅ぼしってわけでもないけど、それくらいは良いですよね?」

「わかったわかった。乳牛は回天を保健室まで連れていってやってくれ。鮭川はもう少しここで話を聞いてから生徒指導室に移動だ」


 僕は乳牛さんに連れられて保健室へと向かっていた。自分でも鮭川君を庇う理由がわからないのだけれど、なぜか自然と彼を庇ってしまっていた。友達でもないただのクラスメートだけど、なぜか別の場所へ行ってしまうと思うと庇わなくてはいけないように思えてしまったのだった。


「それにしてもさ、回天君が鮭川君を庇うなんて思っていなかったよ。私だったら殴られた時点で庇うつもりもないけどね。でもさ、回天君はもう少し抵抗した方がいいんじゃないかな?」

「抵抗?」

「うん、抵抗。クラスメイト全員に無視されるなんておかしいもん。無視してる奴が言うなよって話だとは思うけどさ、私達だって好き好んで無視してたわけじゃないんだからね。他の人が何で一緒になって無視してたのかわからないけど、私は熊山さんたちが怖かったんだ。あの子たちっていろんな知り合いがいるからさ、女の子たちはみんなその辺で危機感を持ってるからね。謝って済む問題でもないけど、無視に加担してごめんね。これは私だけが思ってるんじゃなくて、狐里化きつねさとばける君もずっと申し訳ないって言ってたよ。あ、狐里君は私の彼氏だからあんまり悪く思わないでね」


 今日一日で色々な体験をしてしまったと思う。それと同時にどうでもいい情報もたくさん手に入れてしまった。

 今日はなんだかとても疲れてしまっていたので、いつもよりもぐっすりと眠れるような気がしていた。

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