空飛ぶ絨毯3
高く昇るごとに冷たさも増す風が、耳元でびゅうびゅうと唸っている。
地平線から顔をだした太陽が、夜の名残の群青色を西へ西へと追い払う。眼下の砂漠は金色に染まる。砂の丘に、自分たちの影が細く伸びている。
ジャミールは砂漠の王宮を振り返りもせず、生き生きと目を輝かせ絨毯の操縦に夢中になっている。
「すごいなぁ、鳥の気分だ!」
「ちょ、ちょっと速すぎない!?」
風の音が強すぎて、こんなに密着しているのに声を張り上げないといけない。イヤリングが飛んで行ってしまうのではないかと、ナディアは気が気でない。
「ははっ、すまんすまん。ちょっとはしゃぎすぎたな」
絨毯は旋回しながらゆっくりと速度を落とした。二人は飛んできた距離をたしかめるように、背後を振り返った。
壮大なマジャラ宮も、首都アマルの城下町も、もはや子どものおもちゃのような大きさになってしまった。
「こうして見ると、ちっぽけなものだなぁ」
声に寂しさのようなものはない。彼はもう、振り切ったのだろうか。過去や、友人や、唯一の肉親のことを。
(……これで、よかったのよね?)
一抹の不安を感じて、ぎゅっと強く抱きついた。そんなナディアの腕を撫でて、ジャミールは笑う。
「高いところがこわい?」
「ううん。……そうじゃなくて……」
ナディアは、意を決してジャミールの服の袖を引いた。
「あのね、ジャミール。王宮にいるあいだは、言う機会がなかったんだけど」
ん? と、彼は優しく振り返る。
「私、夢を見たの。たぶん、
「過去?」
いったい急に何を言い出すんだと思うだろう。
けど、今伝えないと、もう一生言う機会がないような気がする。ナディアはぎゅっと強く彼を抱きしめた。
「あなたのお母様と、お父様の夢よ」
「俺の両親?」
彼にとって触れられたくないことかもしれない。ナディアの自己満足かもしれない。
でも、もしかしたら。
もし、ジャミールの心に、小さな棘がささったままであるなら。
その棘を抜くのは誰にも譲れない、自分の役目であると。そうであってほしいと思うのだ。
「国王様と王妃様は、とても仲が良いご夫婦に見えたわ。心から愛し合っているように。そして、あなたのことをとてもとても気にかけていた。どうか強く生きてほしいとお腹の子に名前をつけたのは、お父様なのよ」
すれ違ってしまった親子の傷を、ジャミールの受けた苦しみを、ナディアがすべて癒せるとは思わない。恨みも、痛みも、彼だけのものだ。けれど──
「……ジャミール、って。私、お父様とお母様の分まで、あなたの名前をたくさん呼ぶわ」
たぶん、世界には色んなかたちの愛があって。正気に戻った王様は、最後に自由という名の愛をくれたのだと思いたい。それを受け入れるかどうかは、彼自身にゆだねられている。
「私、自由なあなたが好きよ。憧れてもいる。だから、私があなたをあそこから連れ出したの。……攫われたのは、きっとあなたの方だわ」
そんな彼のためにできること。触れて、抱きしめて。慈しむこと。気持ちを言葉にすること。
「王宮は華やかだったけど、私は王子様と恋がしたいんじゃないってわかった。盗賊王ジャミール。夜にこっそりあらわれて、私を外の世界に連れ出してくれる人……あなたが自分でつけた名前の方が、ずっと素敵だと思うわ。でも、あんまり無茶をしないでね。あまり長いこと、一人にしないで。だってきっと私、あなたを探しに、砂漠だって地下水路にだって、追いかけていってしまうから」
そばにいること。誰よりも近くで、彼を愛すること。
「か、覚悟してね。私、たくさんたくさん、あなたを愛したいって、そう思っているんだから」
お父様と、お母様の分まで。もっともっと、それ以上に。
勢いづいて頬に口づけすると、そのままくるりと視界が反転する。抜けるような蒼穹を背景に、やわらかく微笑む夫の姿。ジャミールの笑顔は、いつもナディアの胸を甘く、苦しくさせる。
「じゃ、ジャミール」
近づいてくる夫の顔。朝日に輝く金の髪が、ナディアの頬をくすぐる。
『おっ、なんだなんだ、口づけか? うむうむ、良いものだなぁ、人間の愛の営みというのは』
『しっ。お黙んなさい、あなた。こういうのは静かにじっくり見るものよ』
「ま、ままままって、ジャミール、ジンたちが、見て」
それでも止まらず、肌に彼の吐息がかかる。思わず目をつぶると、彼はナディアの肩に顔を埋めた。
「……早く帰りたい」
はぁ、とため息。ナディアは体の力を抜いて、夫の背を撫でた。
「いや、ここが空の上でよかった。あやうく、無茶苦茶にするところだった」
「ど、どんな……」
「早く帰ろう。……教えてあげるから」
頬の熱は、おさまりそうもない。
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