ふたつのランプ1

「ナディア、無事か!?」


 深い暗渠の中に力強い声が響く。ナディアは涙をぐっとこらえて、かわりに声を張り上げた。


「無事よ! カーラもいるの!」

「姉上が?」

「ナディア様!」

「その声……カミリヤ!?」


 頭上から聞こえる女性の声は、間違いなくナディアの筆頭侍女だ。


「今、参ります!」


 そう叫んで縄梯と一緒に暗闇を滑りおりてきたのは、全身を漆黒で包んだ女性。


「えっ、カ、カミリヤ? その格好……!?」


 口元から足の爪先まで、タイトな黒布で覆った彼女はいつもの美貌と秀麗さを闇に隠し、今や隠密か暗殺者といった風貌である。梯子から飛び降りしなやかに地面に降り立ったカミリヤは、ナディアに駆け寄ると体当たりで身体を抱きしめてきた。


「ぶっ!?」

「ああ、もう、このおてんばさん! 私たちがどれだけ心配したと思って……!」


 柔らかな胸に顔が押し潰される。背骨がぎしぎしするほど抱きしめられて、息が止まるかと思った。


「ぷはっ! ちょ、カミリヤ! 苦しい!」

「この子は……! あとでたくさん叱ってあげますからね。ああ、本当によかった……」


 言葉の端々に滲む本気の安堵。ナディアは「ごめんなさい」と呟いて、しばらくその胸の中に抱かれたままでいた。


「殿下の姉君も。よくぞご無事で」

「私? やだわ、姉君だなんて。助けをどうもありがとうございます。ええと、カミリヤさん? なんと言うか、お騒がせしてしまって……」

「いいえ。勇敢な姫君らに怪我がなくてなによりでした。さぁ、お二人とも順に登ってください。ジャミール王子が上で待っておられますから」


 おっかなびっくり縄梯子を登りきった先は、知らない建物の庭のようだった。

 静かな夜風が頬を撫でる。湿った土と、草木の匂い。ようやく地下から出られた安堵と疲労感で、ふらりとめまいがする。

 建物の影に溶けるようにそこにいたジャミールが、月明かりに踏み出して、ナディアを抱きとめた。


「ナディア、怪我はないか? すまない、遅くなった」


 ジャミールは濡れたナディアを包んできつく抱きしめた。震えているのはどちらか。背をつかむ。お互いに、しばらく言葉が出てこなかった。


「私……私、頑張ったと思うわ」

「ああ、本当に」


 ジャミールは深く息を吐いた。ナディアを強く抱いて離れない腕。どれほど彼に心配をかけてしまったのだろうと、ナディアは心苦しく思った。


「あのね、本を読もうとして……ええっと、南の宮で、宰相とファラーシャの話を聞いて……それから……それから地下に落ちたのよ。ジンニーヤに呼ばれて。そこにカーラがいて、それで、私、ねぇ、私の話、わかる? ジャミール、だめだわ、上手く話せない」

「ああ、わかる。後宮の中で失踪したのだとしたら出口は地下しかないだろうと、あの侍女が当たりをつけてくれてな……無事で良かった。姉上まで連れ帰ってくれて……本当に」


 芯まで冷えていた身体が、だんだんとあたたまってくる。

 自分はようやく帰るべきところへ、帰ってきた。実感すると、叫びたいくらいだ。


「大冒険だったわ」


 ジャミールはようやく腕の力をゆるめて微笑んだ。イヤリングと同じ色の瞳が泣きそうに歪む、初めて見る笑顔で。


「あなたは本当に、最高の妻だな」

「ええ、ちょっとは胸を張れるわ……私は盗賊王の妻だって」


 見て、と差し出したランプは、月の光を浴びて濡れているみたいに輝いた。


「これは……ジンニーヤを封じたランプか。シストゥールの神殿で見たものと同じだ」

「私、彼女をシムーンのところに連れて行きたいの」


 ランプを差し出すと、ジャミールはそれを月光に透かすように掲げ、「シムーンか」と思案げに呟いた。


「そうだな、ハーディン義兄上を助け出さねば。だがもう、あまり王宮に長居はできない。俺はついさっき、ファラに宣言して出て来たからな。あなたを見つけたら、ひとまずここを出ようと思っていた」

「ファラに宣言? えっ、喧嘩別れしたの? ウソ、もうジャミールこそ、よく無事で……まぁ……急いだ方がいいのね。シムーンの場所さえわかれば……。ねぇジンニーヤ、あなたは知ってる?」

「それならばおそらく、わたくしがご案内できます」

「カミリヤ、心当たりが?」


 カーラを支えながら追いついて来たカミリヤは、あたりを警戒しながら、庭木の影に三人を誘導した。


 そういえばここはどこなのだろう。ぽつねんと立つ御柳ギョリュウの木に隠れながら、ナディアはぐるりとあたりを見回した。

 人の気配はなく、松明で照らされる回廊などもない。あるのは不自然に何もない地面と、先ほどの竪穴、それから月に照らされる暗くて大きな建造物が一つ。


「シムーンは、おそらくそこの霊廟に祀られているはずです」

「霊廟? では、後宮の北側に私たちは今いるということね」

「左様です。私は、それと同じようなランプをこの中で見たことがあります。もう、二十数年前になりますが」

「二十年も前……?」


 首を傾げた三人に、カミリヤは静かに告げた。


「アマーナ様の国葬に、私も参列しておりましたから」

「あなた、母さんを知って……?」


 カーラは眉をひそめて呟いた。


「ええ。短い間ですが、お仕えしておりました」


 慈愛すら感じる目で、カミリヤはカーラを見ている。

 カーラはアマーナによく似ている。まるい黒の瞳に無邪気な好奇心を隠した朗らかな女性。


「……巡り合わせとは不思議なものですね。何か、あのお方のためにできればと思っていたことを、今になってようやく果たせそうです」


 異父姉弟を穏やかに見返して、カミリヤはうなずいた。

 ――やっぱり。ナディアは一人で納得した。

 あの夢は過去で、美しい少女はこのカミリヤで、幸せそうだったお妃様は、ジャミールの母なのだ。


(もしかしてここ、霊廟にあるという夢占の庭かしら。王様に埋められてしまったとかいう……)


 草木の一つとしてあの美しい夢と同じには思えなかったが、きっとそうだ。ここに、あの日の二人の思い出が眠っている。永遠に、誰にも汚されることなく。

 ナディアはそっとジャミールの手を握った。この手から、伝われば良いのに。あなたはたくさん、ご両親に愛されていたって。

 ジャミールは静かに目を瞬く。


「そうか。では霊廟に急ごう。案内を頼めるか」

「はい、殿下」

「俺はただのジャミールだ。できれば友人の子として接してくれ、カミリヤ」

「……かしこまりました。ではジャミール、行きましょう。入口付近には見張りがおりますから、裏手にまわります」


 四人は闇にまぎれるようにして、目の前の大きな建造物へと足を運んだ。

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