脱出
息が苦しい。
底のない冷たい水中でナディアはもがいた。はるか頭上、泳いでも泳いでも辿り着けない光を求めて手足をばたつかせる。
それを阻むように、水はますます大きく渦を巻いてナディアを沈めようとする。
『なんという娘。王家への呪詛を取り込んでもなお、正気を保っているとは』
声は、暗い水底から。黒と白の靄が絡まり合いながら、ごうごうと渦巻いている──その嵐の中心に、人らしきものの影。
(見つけた……! あなたね、ジンニーヤ!)
ようやくたどり着いた。声でなく、幻影でなく。ナディアを呼んでいた、本体に。
『あらあら、さすがあの人を取り込んだ博愛の乙女。でも』
輪郭の不明瞭な声が、頭の中にじかに響く。大きくて小さく、近くて遠い声。シムーンをジャミールから引きはがしたときと同じ、
『私もあなたを待っていたのよ、ドゥーヤの乙女。夫を、シムーンを取りこんだあなたの身体がほしくて。ひとつになりましょう。あなたは私、私はあなた』
靄から伸びた手が、ナディアへと近づく。
『ねぇナディア。悪い話じゃないでしょう? このままじゃあなた、死んでしまうわよ』
ナディアの身体に、黒と白の渦が絡まりついてくる。身体を締めつける痛みも、限界ぎりぎりの息苦しさも怖い、けど。
『それともあなた、ここで楽になりたい? 人間は弱いもの。そういう結末がお望みなら、私とここに沈みましょうか。永遠に』
ナディアは悪意ある爪先を避けるようにして、隠し持っていた本を引っ張り出した。本は水中に浮かびながら不思議な色に発光しはじめる。
握りしめた手の内には、あの護符がある。記憶の中で、ジャミールに返してもらったもの。彼のために描いたのだから、この上なく強い想いがこもっているはず。
(私たちの苦しみ……たしかに似ているかもしれない。けど、私はあなたじゃない、あなたは私じゃない! だからこそ、私は苦しむあなたを、解放してあげられる)
一ページ目は、祈りの言の葉。
二ページ目は、護符の描き方。
三ページ目は、祓いの言の葉。
四ページ目は、救いの――、
そう、救いは、口づけで。
輝く
長い口づけの途中。ごぼりと息がもれて、苦しさに口を押さえた。
(……息、がっ……)
限界を迎えて、大量の水を飲み込んだナディアを、女性の腕がしっかりと包んだ。体温のある、ちゃんとした人の手が。
(カーラ……!)
カーラはしっかりと頷いた。彼女にまとわりついていた白と黒の靄は、ばらばらに
水面でゴホゴホとむせるナディアをきつく抱きしめ、カーラは唇を震わせた。
「お、お嬢様、なんて無茶を……! ああ、私、全部、全部見ていましたよ……ごめんなさい、私が弱いばかりに……ハーディンに会いたくて、ジンニーアの誘惑に負けてしまったせいで……お嬢様も、ジャミールも……大変な目に」
「カーラ、大丈夫……?」
「ええ、この通り、本物ですとも。お嬢様のおかげで、ちゃんと私は私のままです」
「よかった、カーラ」
喉の奥まで入ってしまった水のせいで苦しかったが、なんとか泉から這い上がった。
「お嬢様、そのランプ」
ぐったりしているナディアを支えながら、カーラが恐る恐る指さした。
「それ、もしかしてあのジンニーアの」
「そう、たぶん、本体」
水底で輝いていたものを咄嗟に掴んで、持ってきたのだ。
「いやっ、よしてください! 捨ててしまいましょうよ、そんなもの! おっかない」
「でも、私、彼女を連れて行かないと……」
「そんな、どこへ? そいつに殺されかけたんですよ、私たち!」
「ここから出してあげたいの。シムーンのところに、連れて行ってあげないと」
カーラははっとして口をつぐんだ。取り憑かれていた彼女にも、ジンニーヤの悲壮な想いは伝わっていたに違いない。
見るのも恐ろしいという様子ではあったが、カーラはもう捨てようとは言わなかった。
「それ、触っていても大丈夫なんです?」
「わからないわ。でも、今はとても静かよ。それより、問題はどうやって地下を出るか、だけど……」
地上では夜がきたらしい。
「こ、こわ……これ、うっかり水路に落ちたら死ぬわよね……」
「困りましたね、明かりになりそうなものは持っていないですし」
途方に暮れていると、ナディアが握っていたランプが急にカタカタと震え出した。「ひっ」と悲鳴をあげて、カーラはナディアにしがみついた。
「お嬢様ぁ! それ、なんか、なんか動いてっ」
「おおおお落ち着いて、カーラ! 大丈夫、たぶん大丈夫だからっ、やめて、引っ張らないで、落ちちゃう!」
『ドゥーヤの乙女たち、あそこです』
ぴたりと、2人は騒ぐのをやめた。
「い、今の声、どこから聞こえました? お嬢様」
「ああ、たぶん、ジンニーヤの声よ。頭の中に直接響くような……でしょ? 私、ジンの声は何回か聞いているから」
「ええっ、なにこれ気持ち悪いぃ」
『聞きなさい、乙女たち。そこの、八つ先の
八つ先。どのくらいの距離かわからないが、この闇の中をある程度は歩かないといけないだろう。
「し、信じていいのでしょうかぁ……ここで私たちを操って、水路に突き落とそうってんじゃないでしょうねえ……?」
「きっと平気よ。ね、ジンニーヤ」
『…………。』
物言わぬランプをしっかりと抱える。カーラの手を引いて、ナディアは闇の中を慎重に進んだ。
『ここです』
無言で歩き続けていると、ふとランプがつぶやく。
見上げた堅坑に、小さく白い月が見えた。
(満月──違うわ、あれは、きっと)
目も眩むほどに愛しい、
「あなた!!」
ナディアの、太陽だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます