王の寝室

 ジャミールは読んでいた本からふと顔を上げて、窓の外を見た。薄青と橙の混じりあう境界を、大きな翼の鳥がゆうゆうと飛び去ってゆく。太陽が本日最後の輝きを放って、西の空に沈もうという時間だ。


「王子? どうかされましたか」

「いや。ナディアの声が聞こえた気がして」


 見張りを兼ねた護衛の衛士が、肩を揺らして笑う。


「お熱いことで! お二人の愛でこのマジャラ宮が干上がってしまいませんように!」

「なるほど、どうりで喉が渇くはずだ。酒でも飲まんとやってられん」

「そりゃ名案で。すぐ用意させましょう」


 強い西日に照らされた王の寝室は、影と光の2色に染められている。だんだんと本も読みづらくなってきた。だがほかにすることもない。

 まもなく王宮に来て八日の夜を迎えようとしている。ジャミールは今日も変わらず眠り続ける父王と無言の時間を過ごしていた。こんなにも長い時を肉親とともにしたのは、生まれて初めてかもしれなかった。


「王子」


 見張りの衛士が銀盆に乗せられた杯と葡萄酒瓶を差し出した。毒味なら必要ないと言おうとして見上げると、彼は困ったように頭をかいた。


「神官長ファラーシャ様がお目通りを請われておりますが」

「ファラが?」

「許可なさいますか?」


 せっかく高価な酒にありつけると思ったのに。そんな心の声が聞こえてきそうなくらい残念そうに言うものだから、ジャミールは笑って、手ずから彼に一杯注いでやった。


「呼んでくれ。すまないが、二人にしてくれるか」


 衛士と入れ替わりに入ってきたファラーシャは、西日に照らされて黄金色に輝いている。


『ジャミール様』

「どうしたんだ、ファラ。そんなに急いで」


 ファラーシャは息が上がるくらい急いで来たようだった。葡萄酒を注いで手渡すが、彼は小さく手を挙げて辞した。酒は、飲めないのだったか。

 この美しい神官の声はもう何年も前に失われている。けれどジャミールには関係なかった。周囲の人間が思うよりずっと彼は表情が豊かだし、充分にやりとりができる。

 ──だからこれも、ジャミールの聞き間違いではないはずだった。


『ナディアがいない』

「……どういうことだ」

『北の宮には身代わりの女官がいた。ナディア妃に頼まれて、彼女のふりをするよう頼まれた、と』


 ファラーシャの手のひらの上で、ルビーのイヤリングがころりと転がった。


「ははぁ、なるほどなぁ」


 たしかにジャミールがナディアに勧めたのだった。この宝石を人に与えていいと。


(さっそく、脱走に使うとは)


 さすがお嬢様だと笑うジャミールを、『ふざけてる場合ですか』とファラーシャが怖い顔で睨みつけてくる。


「いや、すまん。で、いつから姿がない?」

『女官の話では、昼休憩のときに入れ替わったと。実は俺もちょうどそれぐらいの時間帯に、南の宮で彼女の気配を感じました。姿を見た訳ではないのですが』

「南の宮か。ふぅん」


 ジャミールは窓辺に体を預けた。ファラーシャは不満そうだ。もっと取り乱すとでも思ったのだろうか。


(シムーンを斬ったナディアだぞ? そこらの姫君とはわけが違う。大方、本の解読をしながら眠りこけているとか、そういうことだろうが……だがたしかに、安全とは言いきれん場所だからな、後宮は)


 ファラーシャの必死さが、ジャミールになにかを予感させる。

 こういう時の自分の勘をジャミールは信じていた。それは盗賊として生きるために唯一、必要なものだからだ。


「ファラは、何の用で南の宮に?」

『改築です』

「ほう?」


 ジャミールは、ファラーシャを横目に入れたまま笑う。


「なぜ今、そこに手を入れる必要が? 長引いた遠征のせいで国庫が貧しいという話を、俺は毎日のように財務大臣から聞かされるのだが」

『それは』


 神官は視線を外した。言いづらいなにか。もしくは秘密にしたいなにかがあるということ。


「俺に言えないことか?」

『いえ。南の宮の改装は……モブタザルの姫が輿入れされる予定だからです』

「敵国の姫か。なるほど、和睦のあかしに王女をよこすというなら、あちらも停戦になかなかの本気だろうな。で、誰の元へ嫁がせる?」

『ジャミール殿下しかおられません』

「ファラ、俺は」


 ファラーシャはそれ以上聞きたくないと言うように首を振った。王宮の権力者らしく着飾った神官の、装飾品がしゃらしゃらと鳴る。ジャミールは友の肩を掴んで言った。


「ファラ、聞け。何度でも言う、俺は国の為になど生きられない。お前ならわかるだろ?」

『そんなはずはない。俺は、現に、夢を見ました』

「予知夢というやつか?」

『そうです。あなたと、あの娘の夢です。暁の空を背に、城下を見渡すあなたとナディア妃の姿を、俺は夢に見たのです。そこで確信しました。ああ、この方たちが、国を……俺を救ってくれるのだと』


 神官の夢は特別だ。この地を脈々と流れる不可思議な力を読み取って、人々へと伝えるのが彼らの役目。

 その夢は神託と呼ばれることもあるし、はたまた国の行方を決める大きな力になることもある。善と悪の方向を決めるのにも使われる。

 ジャミール自身がそうだった。とある一つの神託よって、産まれる前に命を否定された。


「……だが、それが全てではない。神託は可能性の1つだ」

『いえ、夢だけではなく』


 ファラーシャは目を伏せた。無理をして話そうとするため、喉からひゅうひゅうと苦しげな息が漏れる。

 儚げな容姿に似合わず、彼は頑固だ。


『王の……マジュド様の血を継ぐのは、もう、あなたしかおられない』

「血が大切だと?」

『当たり前です』

「俺はそうは思わない。俺は、国王の中では死んだも同然の子どもだ。散々聞かされただろう?」


 それは、と、ファラーシャの瞳が揺れる。


『それは違う、違います。国王陛下は以前、俺に言いました。酷く酔っていらっしゃる時に……俺の前で泣いたのです。最愛の妃と、王子を失ってしまったと』


 ファラーシャは喉を押さえると、しばらくのあいだ呼吸を落ち着けようと肩で息をした。かと思えば、ふらふらと寝台の方へ歩いて、王の寝台の前に膝をつく。


「おいファラ、大丈夫か」


 神官長はわずかこの数日でずいぶん消耗したように見える。王にかけられた呪詛を解くための祈祷を夜通し行い、本来の職務である神官たちのまとめ役を担い、誰よりも奔走している。

 やはりこの神官服がいけない。ジャミールは口惜しく思った。真っ白な衣装は、彼の肩には重すぎるのだ。

 ファラーシャはジャミールの方を振り返らず、王の寝顔を見つめて、祈るように手を組んだ。


『陛下は、たとえ寝所だろうと、弱音をこぼすような方ではありませんでしたが。けれどあの涙は本物だったように思います。その後、俺は見てはいけないものを見聞きしたと、首を切られ声を失いましたが……もしできるなら、俺は伝えたい。あなたの子が生きていて、国は続いていくと。俺がそれを支えていくと』

「ファラーシャ、お前……」


 ジャミールは閉口した。


(それは、どこまでも、この人のためじゃないか)


 男としての尊厳を奪われ、声を奪われ、それなのにどうしてその相手を恨まずにいられるのか。理解出来ないと、ジャミールは首を振った。


「お前、じゃあどうして、あのとき俺について来た? 王宮に忍び込んだ俺を助けたのはなぜだ。逃げたかったんじゃないのか? この王宮から──王から」

『逃げる?』


 ファラーシャは微笑む。


『いいえ。俺は帰ってくるつもりでした。──あなたとともに、ここへ』


 すっと立ち上がった彼は、もう先程のように弱々しい姿では無かった。

 熱した鉄のような強い瞳で、ジャミールを見返す。


『さだめから逃げているのは俺ではなく……あなたではありませんか? 末の王子ジャミール』


 挑発するような笑みは、数日前に戦ったあの精霊──シムーンに似ていて。そういえばあのジンは、今どこにいるのだろう。ふと気になった。


「──逃げ、か。捨てておいて、都合が悪くなったから戻ってこいと言うのは、虫のいい話だと思わないのか?」


『先代の神官長は発言力を武器に、汚職に溺れてしまっていた。多くの妃を抱えた後宮の権力争いも複雑で、そもそもあの神託が正しいものだったのか、どなたかの妃による陰謀だったのか、もはや誰にもわからないのです。それを証明できる者がすでに、この世にないから』


 ファラーシャは折れない。

 同じくらい、ジャミールにも譲れないものがある。

 たった一人。自分の命を捧げたいと思えたのは、今も昔もただ一人だけだ。


「ファラ、お前、気づいているか?」


 ジャミールは彼らに背を向け、窓辺に立った。


 夕暮れの西の空はちぎれ雲でまだらに紅く、風は昼間の名残で熱っぽい。ジャミールのターバンを揺らす風は、はるか王宮の外まで吹き抜け、空に向かえば雲を押しのけ、地上では砂を巻き上げる。どこまでも自由だ。


「マジャラ宮に戻ってからのお前は、俺のことを王とは一度も言ってないんだぞ。お前にとっての王は、その男のことだけだ」


 寂しく思う気持ちもある。彼とは友人でありたかった。


(──いや、違うか……俺だって)


 自分はあの日──王宮に忍び込んだ日。王の寝室から追い出されうなだれている哀れな男と、少年時代の自分を重ねたのではないだろうか。


(助けてやりたかった?)


 思い上がりもいいとこだ。ファラーシャの王への想いと、ジャミールの傷はまったく違うのだから。


「お前が正妃のことを決めたのだって国のため……その男の国を守るため、だろう? それでは俺たちはいずれ対立する。俺は、ナディアを傷つけたくない。若くして亡くなった母と同じ思いをさせたくない」

『彼女を守ればよろしい、俺も力を尽くします』

「無理だ。……今このときだって、消えたナディアのそばに居られないのに」


 二人の主張はいつまでも平行線だ。

 潮時。そんな言葉が頭をよぎる。


「なぁ、ファラーシャ。お前はこんなにもその男に尽くしているのに、どうして王が再び目覚めるとは信じられないんだ? 予知したのか? その男が死ぬところを、夢に見たのか?」

『……俺たちは、自分が授かる神託を選ぶことはできません』

「じゃあ、目を覚ますかもしれないじゃないか」


 驚きで、ファラーシャの目が見開かれる。


『まさか。……王は、毒と呪いでこんなにも衰弱されていて……だから、俺は……』


 彼の手がおそるおそる王の頬に触れる。反応はない。けれど、生きている。

 ファラーシャは唇を噛む。内からあふれる想いを、懸命にこらえているように見えた。


『……本当に? 目を、覚まされるでしょうか……?』


 そのとき、お前はどうするんだ?

 その問いを、ジャミールは飲み込んだ。わざわざ聞くまでもないことだ。


「お別れだな、ファラ」


 窓の縁に腰掛ける。ファラーシャはハッと顔をあげたが、声無き彼では人を呼ぶこともできない。


「お前とは友人でありたかったよ。きっとナディアもそう思ってた」

『ジャミール様……!?』


 そのままくるりと身を翻して、ジャミールは夜の庭園に身を投げた。


『ジャミール様!』


 ファラーシャが駆け寄ったときにはもうそこに人影はなく、夕暮れの風に大木がさわさわとなびくだけだった。


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