過去を見る

 これは夢だ、とわかる夢のなかに、ナディアはいた。


「お妃さま? もう、また居眠りしていらっしゃるのですか?」


 うらあたたかな日差し。何度かまばたきを繰り返すナディアは、青い芝生の上に寝転んでぼうっとしていたらしかった。頭部は見知らぬ侍女の膝の上に乗せられている。ふわぁとあくびが漏れて、あわてて口を塞いだ。夢の中でも眠いだなんて。変な夢だ。


「私、寝てた?」

「ええ、もう、ぐっすりと。こちらの物語は興味がありませんでした? 別のものにいたしますか?」


 侍女が拗ねたように顔を覗き込んでくる。声もそうだが、少女だった。しかもとびきり美しい女の子。


(こんなきれいな子に物語を読んでもらえるだなんて、贅沢な夢)


 ぼうっとその美貌に見惚れていると、侍女はむっと眉を寄せて「いつまで寝てらっしゃるんですか」とナディアの頬をぺちぺちと叩いた。その表情に不思議な既視感を感じて、ついまじまじと見つめ返してしまう。


(この子、どこかで会ったような?)


「あのねぇカミリヤ。しょうがないのよ、貴女は知らないだろうけど妊婦というのは四六時中だるくて眠いものなんだから」

「存じております! 私だって何人もの赤ん坊を見てきたのですから」

「まっ、偉そうに。ついこの間までほかのお妃さまのところでピーピー泣いてた娘が、ずいぶんと元気になりましたことね」


(カミリヤ? えっ? カミリヤ!?)


 ナディアに膝を貸している侍女は、なるほど言われてみればカミリヤに似ていた。本人に、というよりは、娘の年頃である。年上の侍女に叱られて頬を膨らませている。あの・・カミリヤだったら絶対にしないような幼い仕草がたいそうよく似合う美少女だ。


「そっ、それは……! だって、あの側妃様はとても気が短くいらっしゃって……! アマーナ様とは、全然違うんですもの」

「そりゃそうでしょうよ。アマーナ様はどんな人にもお優しいの」

「良き人に仕えられて、私たちは運がいいのよ」


 どうやら夢の中でナディアは『アマーナ様』という女性であるらしかった。しかも妊娠している設定の。はっとして腹に手をやるが、それほど大きく膨らんでいるわけではない。おそらくは今すぐどうこうなるような感じではないのだろう。ひとまず胸をなでおろす。


(現実みたいな、不思議な夢……でも、悪い感じはしないわ)


「ほら、言い合いはお止しなさい。あなたたちの声は心地よくて、眠くなってしまうから」

「はぁい、お妃さま」


 口は勝手にアマーナの言葉をつむぐ。にこやかに微笑み合う女性たちに囲まれ、ナディアは安心して目を閉じた。

 再びおそってくる猛烈な眠気に身を委ねようとしたとき、遠くからナディアを呼ぶ声があった。


「お妃さま! アマーナ妃!」

「なんですの、騒々しい。お妃さまはお昼寝中よ」

「夢占の庭に、王がいらっしゃっています!」

「まぁ、王が」


 慌てて立ち上がろうとするナディアは侍女に囲まれ「大事なお体なのですから」といさめられてしまう。


「慌てずとも、王はアマーナ様を置いてはいかれませんとも」


 カミリヤたちに手を引かれて、日避けの大きな傘をさしてもらい、極力ゆっくりと回廊を進む。

 こんな調子じゃいつまでたっても辿りつけないじゃない、と。心は、早く早くと急いてばかりいる。

 ──会いたい、はやく。


(……って、誰に?)


 そう考えるのはたしかにナディアなのだが、体を操られているような、そんな違和感がある。


(夢とはいえ、なんだか別の人になっちゃったみたいな気分だわ)


 薄い腹に手をやってため息をつくと、すかさず跪いた侍女らが扇でそよ風を送ってくれる。


「気持ちいい。ありがとう。今日は暑いわね」

「ええ、お妃さま。さぁ、もう少しです。参りましょう」


 歩ながら見渡す景色は、マジャラ宮の後宮ハレムと似通っている。むしろ後宮そのものかもしれない。


(あの噴水の彫刻もおんなじだし、あっちに見えるのは北の宮だわ)


 夢とは面白い。後宮に来て十日もたっていないのに、こんなに鮮明に景色を思い出せるなんて。


(でも、夢占の庭は聞いたことがない。私の創作? それとも本当にどこかにあるのをいつか耳にしたかしら)


 ナディアは知らなくともこの身体は迷いなくそこへたどりつく。そして噴水池のほとりにたつ人のもとへと全力で駆けた。勢いのまま、振り返った男性の腕の中へと飛び込んだ。


「あなた!」

「アマーナ。会いたかった」

「ええ、私もよ!」

「だが、走ってはだめだ。もう君の身体は君一人のものではないのだから」

「そうね、ごめんなさい。嬉しくて。こんなふうに昼間にお会いできるだなんて夢みたいよ、我が王」


(王様……?)


 白い簡素な長衣に身を包んだ、背の高い男性だ。その髪は金で、瞳は真紅。目尻には深いしわがあって、笑うとそれがいっそう深く刻まれるのが好ましく思えた。

 若くはないが力のある声が「アマーナ、我が妃」と繰り返し呼んで、彼女を深く抱擁する。


「話がある」


 夫のただならぬ雰囲気を感じ取ったアマーナは、さきほどまでの無邪気な笑みを消して彼を見上げた。


「王宮で何かありましたのね」

「悪い知らせだ。わたしが直接伝えるべきと思い、急いでやってきた」

「それはもしかして、この子のことでしょうか」


 腹に手を添えアマーナは言った。小さな命がそこに宿ってからというもの、彼女の周囲は急速に変化しつつあったのだ。王は瞑目して頷いた。彫り深い目元に影が落ちる。


「そうだ。今しがた神託を受けた。『最後の子が王子であれば、この国は滅ぶだろう』と」

「……そんな」


 言葉を失くした妃を王は気遣うように支え、二人は噴水池の飾り石に腰をおろした。


「けれど、この子が男児とはまだわからないではないですか。女児であれば問題ないのでしょう?」

「神職らにはどうも見えているらしい。黒の妃アマーナの子は男児だと神官長は断言している」

「では……この子はどうなるのですか。どうなさるおつもりですか」


 アマーナはぎゅっと自身を抱いた。王は気遣わしげに若い妃を抱いた。


「気をたしかに。預言がどうであれ、愛しいそなたの身に宿った、わたしの子であることは確かだ」

「マジュド様……」


 紅い瞳がアマーナを見つめ、王は力強く頷いた。


 じっと二人の話に入りこんでいたナディアは、ふと自分を取り戻した。この人を知っているかもしれない。だって、この目も、髪も、見たことがある――。


 王は微笑んだ。それだけで周囲の空気が穏やかなものに変わる。噴水は軽やかに水しぶきを上げ、こまやかな水しぶきは二人を祝福するように頭上からぱらぱらと降り注いだ。


「そうだな、名を授けようか。どうか元気に生まれるように、と」

「まぁ……うれしゅうございます。私もずっと考えていたの。でもなかなか決められなくて」


 少しばかり元気を取り戻したアマーナは夫の肩にもたれ、きらきらと輝く噴水池を眺めた。


「男の子かぁ……たくましく、強く育ってほしいわ。だって、あなたと黒の民ドゥーランの血を引いているのよ。誰よりも強い戦士にならなくちゃ」


 揺れる水面に二人の姿がうつっている。アマーナは、美しい女性だった。艶のある黒髪に、若々しい肌。濡れた大きな瞳は何度もまばたきを繰り返し、口元には淡い笑みが浮かんでいる。


(この顔、どこかで……ああそうだ、カーラに似ているような……)


 もっとよく見ようと水面に身を乗り出すナディアは、マジュドに抱きとめられた。


「ジャミール、というのはどうだろう」


 息が止まるかと思った。


「ジャミール……?」

「強く美しい子に違いないから」

「素敵。ジャミール……ジャミールね。……運命に負けない、強い輝き……そういう意味ね」

「アマーナ……そんなに泣いてはいけない。身体に障る」

「……ええ、……わかってる」

「すまない。わたしの力が及ばぬばかりに」

「いいえ、いいえ王よ」


 涙をぬぐったアマーナは、背すじを伸ばして気丈に振る舞った。


「この子は、戦士です。新しい風となっていずれ予言通りに、この腐った王国を壊すのでしょう」

「アマーナ……」

「王よ。我が王。わが子と戦う覚悟はおありですか」


 最後の寵姫は、真正面から王と対峙する。


「私はこの子を諦めません。ジャミールのことは何としても守ります。この命を捧げてでも」


 ざっと噴水が勢いを増す。水音がざぁざぁと鳴り響いて、もはや水面の二人はかき消されてしまう。


(まさか彼女は、ジャミールのお母様……?)


 ナディアはもう、アマーナではなかった。空から二人を俯瞰している。彼らとの距離は、どんどん遠ざかる。


(これはジャミールのご両親の記憶なの……?)


 水音が消える。同時に、ナディアの視界は真っ暗な闇に埋め尽くされた。

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