ジャミールの求婚1

(どどどどうしよう……!? つい、引っ張ってしまったけどっ)


 見つめ合ったままピクリとも動かなくなってしまったジャミールが口を開く前に、ナディアは急いで手を離した。


「ごっ、ごめんなさい! 引き留めるつもりじゃ」

「なんだ。……――誘われたのかと」

「さそっ!?」


 大きく首を横に振るナディアに苦笑を返して、今度はジャミールがこちらに手を伸ばした。指が控えめに頬を撫でて去っていく。残ったのは優しい眼差しだけ。

 前の夜に見せたしなやかな獣のような彼はなりをひそめている。朝日に満ちた明るい部屋では一層、金の髪や白い肌が品良く輝いて、まるで都に住む王子様のよう。

 この立派な美青年が元奴隷だなんて、ドゥーヤ人の誰が信じるだろう。


「慣れぬ地では、一人寝がお寂しいかな? お嬢様」

「寂しい……?」


 胸の内で、扉の軋む音がする。その隙間から、彼と出会ってからずっと感じていたもの正体が垣間見え始める。優しくされるほどに積もる、罪悪感みたいなもの。


(私は、心細さからこの人を受け入れようとしている……?)


 それも一つの答えかもしれない。逃げ伸びた先で生きていくための、手段としての結婚。女一人で生きていくには、この砂漠は過酷すぎるから。愛がなくとも結婚くらいできる。

 けれどそれでは彼に対して、あまりに不誠実ではないだろうか。


「俺としては、いまここで夫婦になってもいいんだが」


 耳元で熱く囁かれて、ナディアは真っ赤な顔で俯いた。


「そ、それはっ」

「明るいうちは、嫌かい?」


 甘い吐息が、首筋にかかる。羞恥で言葉も出ない。

 ナディアの脳裏に、オアシスでの一幕が思い起こされる。肌に触れた固い手のひらをまざまざと思い出してしまって、ナディアは密かに身体を震わせた。

 一瞬でも、褥の中での彼との行為を想像してしまった。やっぱりもう、自分は清いドゥーヤの乙女ではないのだ。


「──なんて、な」


 ジャミールは寝台に腰をおろした。ぎしりと鳴る木枠の音が、静かな部屋ではやけに耳につく。


「安心していい。ドゥーヤ人の花嫁を娶るならば、婚儀は正式であればあるほど良いというのが、ジジイどもの考えでな。逆らって、貴女のこれからに何か支障があっても困る。まぁ、十年近く待ったのだ。たった数日程度、なんてことはない」


 重いため息に青年の苦悩が忍ばれて、ナディアはもうこれ以上もないほど顔を赤くした。耳まで熱くて、涙まで滲んでくる。


(そんなにも、私のことを……?)


 深く想われることをくすぐったく思う一方で、やはりどこか引っかかる。

 身を起こしたナディアは、声が震えないよう力を込めて、思いの丈を吐露した。


「本当に私で良いのですか。貴方は、過去のなんらかの私を美化しすぎているのでは……、そんなに強く望まれるほど、私はできた人間では」

「それは違うな」


 ジャミールは強く遮って、ナディアを引き起こした。こわいほどに真摯な紅い瞳はもはや、ナディアのすべてを捉えて離さない。彼以外何も見えないくらいに近くに抱き寄せられて、体は密着し、苦しいくらいに胸が高鳴っている。


「……本当にお美しくなられた。でもそれだけではない。男に屈しない気丈な貴女も、再会した友を気遣う優しい貴女も、見知らぬ土地に目を輝かす貴女も、どれほど俺の目を奪ったことか。……この盗賊王の心を奪うことができるのは、世界広しといえど、貴女だけだよ」


 少年の頃からの、積もり積もった愛なのだと彼は言う。けれど、ナディアにはそれほどのものは返せない。


「それでもいい」


 助けてもらっただけで充分すぎるのだ。義理でこの先一生、役に立たない女を抱える必要はない。


「ナディア、貴女は少々誤解している」


 ジャミールはゆるく首を振った。柔らかい金色の髪と、伏せた睫毛が瞬きに揺れる。


「盗賊王の名を見くびってもらっては困るぞ。俺は、手に入れると決めたものを逃がしはしない。それにもう、貴女は俺に願ってしまった。『地獄の果てまでついていく』とな」

「手紙……! それは、カーラが」

「だが、貴女が書いた」


 彼は胸に手を当てて、何より愛おしそうに微笑んだ。そこにしまわれた、一通の手紙。


「死ぬその瞬間まで懐に入れておこうと思っていた。俺だけに宛てた、貴女の文字。何よりの宝さ」

「ジャミール……」


 穏やかなのに熱くて、哀しくないのに泣いてしまいたくなるような気持ちだった。

 わからないことはまだたくさんあるけれど、恐れるよりは手を伸ばしてみたい。触れてみたい。そうしてお互いを好きになれたら、なんて幸せなことだろう。

 ナディアはようやく心に決めて、おずおずとジャミールの背に手を回した。


「では、そんな他人行儀の、媚びた手紙ではなく、もっとちゃんとしたものを書きます。……夫となる貴方へ……、私から……」

「! それは楽しみだ。今からか?」 


 あまりに子どもっぽく嬉しそうに彼が言うので、ナディアはつい噴き出してしまった。「笑うな」と頭を小突かれる。耳が赤い。照れているのだとわかると、彼の微笑みが前よりずっと親しみやすく感じた。


 笑いを収めると、二人は見つめ合った。想いを探るように、辿るように。

 ナディアが、先に目を閉じた。

 触れる唇はどこまでも優しい。愛しいという気持ちを育てるのに、充分なほど。



§



 絨毯に並べられた大皿には焼きたての麵麭エイシュ、茹で卵に薔薇しょうび水。加えて、食後の珈琲カフワと、甘いもの。

 一見、質素だが、人生初の大冒険を終えたばかりの身には充分な食事だ。これら全部を、ジャミールが用意してくれた。

 自分だってなにか少しくらい手伝えたらと思っても、よその厨で振るうほどの腕を持たないナディアは、せめてグラスに水を注ぐ手伝いくらいしかできないのだった。


「はぁーっ、水がこんなにもうまいとは。ナディア様、これにはいったいどんな魔法を?」

「もう、何もしていませんって……私の方こそ、ありがとう。もうお腹いっぱい。これ以上は眠くなってしまいそう」


 剥かれた無花果をそっと押しやると、ジャミールは「そうか?」と残念そうに皿を受け取った。


(そんな顔されたら……)


 男性の前で食べすぎないようにしたい乙女心と、大好きな果実を残すことへの罪悪感とを天秤にかけ「もう一口だけ……」と手を伸ばす。それをジャミールが遮って、わざわざ指で摘んで口元まで持ってきてくれる。


「ナディアお嬢様は、昔から無花果に目がないんだ」


 口の中に押し込まれた常温の実はあっという間にとろけてしまう。舌の上に残ったぷちぷちした粒を噛み潰すのが特に好きだ。彼の言うとおり、小さい頃からナディアの大好物である。


「知っていて、用意してくれたのですか?」

「そう。奥様の作られる揚げ菓子ザラービーヤよりおこしナーティフより、新鮮な果実が好きだったろう? 十五くらいまでのお嬢様のことなら、だいたい覚えてるぞ。果物の他に好きなのは乾酪チーズだな。ヨーグルトソースよりはトマトソース。嫌いな食べ物は川魚と生のタマネギ。どうだい、今もお変わりないかな?」

「すごい。ええ、変わっていないわ」


 得意そうなジャミールの笑顔が眩しい。微笑むと目尻に皺が寄るところが好ましくて、ついつい見惚れてしまう。そうして無花果をつまみながら、家族以外と食卓を囲むのは初めてかもしれないと気づいた。


「ねぇ、その『お嬢様』っていうの、もう止してくださらない? だってもう、私は貴方が仕える人でもないのだし」

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