第二章

遺跡の街シストゥール~結婚~

閑話 水の女魔神

 カーラはシストゥールの街の中心にある、小高い山の頂上にある神殿へと急いだ。


 高台から臨む遺跡の街はようやく山の影からぬけだして、無味乾燥な石灰の壁が淡く紅色に輝き出すところだった。空は青く澄んでいる。古き街の目覚めは近い。

 この時間のシストゥールは美しくもあり、物悲しくもあった。風化した石壁や、ところどころ崩れた階段がそう思わせるのかもしれない。


 神殿にいる者たちは──父は、毎日毎晩、この風景を見下ろして・・・・・いるのか。

 カーラは足を止めて山の上の神殿を見上げた。

 かつては、そうでなかった。誰しもが助け合いテントを張り、荒れ野を育てながら移動して、家畜を守り、細々とした日々の暮らしを大切に守ってきた。

 この地に、たどり着くまでは。


 遺跡の街シストゥールの神殿に祀られるのは、女魔神ジンニーア

 かつて砂漠に散り散りになった同胞たちを、ひとまとめにここに連れてきた途方も無い魔力の持ち主だ。魔神ジンでありながら主人を持たず、今日までなぜか黒の民ドゥーランを含む少数民族を保護せんと力をふるってくれている。

 女神だ、と。

 父は崇め、仲間たちは平伏した。


(神など持たぬ我々であったのに)


 カーラは不満だった。得体の知れない力。底知れぬ人ならざる気配。

 なぜそんな者に頼り、異なる民族をわざわざ統一しなくてはいけないのか。山の上から、見下ろして。これでは忌み嫌ったドゥーヤの王と同じではないか、と。

 何度父に申し出ても、ついぞ聞き入れられることはなかったけど。


 神殿の中は甘い香りがして思考がおぼつかなくなる。何に憤りを感じていたのかすら忘れ、朦朧とする。ただ、やるべきことをなすため──足だけは動いて、カーラはゆっくりと祭壇のある広間へと足を進めた。



 幾重にも重なった紗のカーテンをくぐると、大広間に出る。老いた父、草原の民、荒れ野の民、砂漠の民、白の民の族長らがぐるりと円座を組んで話し込んでいるところだった。

 中央にはあのジンニーア。立ち止まったカーラを認めると、長い脚を組み替え妖艶に微笑みかけた。


「遅いじゃないの、カーラ。一人かい?」

「申し訳ありません。帰途の際、国王軍に追われました。夫は囮となり、まだ戻りません」

「ふぅん、そりゃ災難だったわね。で、ドゥーヤの花嫁は?」


 女魔神は探るように瞳を眇めた。


「弟の元におります。このまま屋敷にて婚儀を行う予定です」

「神殿に招かぬつもりか。我らの一員になるというのに、挨拶もなしで」


 口を開いたのは、草原の民の長。

 枯れた老体は立ち上がったものの咳き込んで、再び絨毯の上に座り込んで咽せている。


「ジャミールが、花嫁をむやみに人目に触れさすのを嫌がりまして。次期族長ハーディンに目見えたのだから、目通りは済ませたといえるだろう、と」

「ふん、あの暴れ馬が相当入れ込んでおるな。元女主人に惚れるなど、ああ見えてあの男も青い。ハーディンはどうした。なぜ戻らん」

「あやつめ、まさか早まったのではないか? 国王軍に計画が漏れては大変なことになる」


 老いた父の嗄れ声がカーラを責める。あまり、ここに長く居たくない。薄気味悪い影が心の隙間を埋めようと背後を駆け上がってくるような、そんな気がするから。


「裏切りなど。夫の一族を思う心は誰よりも貴方がご存知のはず。お父様」

「我々の計画は順調だ。草原の民、荒山の民、羊兵の民、そして砂漠の戦闘民族。みなこの街に集まりに集まりつつある。そしてついに依り代を得て、あとはアレの決心を待つばかりだというのに。ハーディンめ、何をしている」

「お父様……」

「カーラ、何をしている? 我ら黒の民の純粋な後継はもはやお前たちくらいしか残っておらんのだぞ。我らの先を示さずしてどうする。ハーディンが戻り次第、出立の準備を始めよ。この街を出る準備をな。二度と戻らん覚悟をもってだぞ。もはや我らにとって平穏な生活など、この砂漠にありはしないのだ。この国に、ドゥーヤ人がいる限り」

「……はい、お父様……ですが」

「ドゥーヤを滅せよ、カーラ。これは集まった数多の民、族長たちの総意である。黒の民としての誇りを思い出せ。そなたは夫に尽くし、一族に尽くしてこその女であろうに」


 吐き出すように言うと、力尽きたのか父は座り込んで首を垂れた。

 水煙草の白煙が視界を濁らせる。甘い香りが、服に、髪に、絡まりついて離れない。


「カーラ」


 とびきり優しい声で、女魔神はカーラを呼んだ。


「ドゥーヤの娘を我が前に連れておいでなさい。それはそれは特別な加護を……その娘には与えねばなりませんから」


 うっそりと微笑んだ美女は、煙となっていずこかへ消えた。

 とたんにふっと頭が軽くなって、呼吸がしやすくなる。カーラは急いで神殿の外へと飛び出した。


 外の空気を吸うと、すぐに思い出せなくなる。自分が何に怯え、憂いていたのかを。ただ、為すべきことを為さねばならないという強い考えだけは頭にこびりついて離れない。


 ──依り代を。ここへ連れてくる。

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