第9話 森の外
ペルグラン伯爵領はデトワール王国の南西部に位置する。四季の寒暖差の少ない、穏やかな土地だ。領主の屋敷があるセニアの街は、勿論領地内で一番栄えた外壁を持つ都市だ。
魔法使いの棲む『名もなき森』は、セニアの街を出て北へ三十分ほど歩いた距離にある。しかし、これほど近くにあっても、森は街よりも広大な上に
こうやって森の魔法使いは里の人間と世界を棲み分け、ひっそりと共存しているのだ。
普通の人間なら幾日も掛かる森の獣道を、ノノはたった数分で抜け出す。
子供ならすっぽり入ってしまうほど大きな
森の手前で、呆然と立ち尽くす一人の男性を発見した。
年の頃は三十前後。長身で逞しい体つき。濃紺の詰め襟コートに乗馬ズボンに黒の
眼光で獅子も射殺せそうな厳つい顔の彼は、通り過ぎようとしたノノに「もし」と声を掛けてきた。
「君はこの辺りに住んでいる人か?」
「へえ。あっしは街で薬師をやっております」
突然の質問に、ノノは町民を装って無難に答える。
「この森へはよく来るのか?」
「たまに薬草を採りに」
将校は伏し目がちに言葉を選び、
「最近、森の近くで女性を見かけなかっただろうか。髪はオレンジブロンドで目は青、柳のように細くすらりと背の高い、……とても美しい女性だ」
ぽつりぽつりと喋る彼に、ノノは首を傾げた。
「さあ、お見かけしたことはありませんね」
本当に心当たりがない。
「そうか……。時間を取らせてすまない」
がっくりと肩を落とす彼を置いて、ノノは早々に立ち去った。
◆ ◇ ◆ ◇
セニアの街はいつも賑わっている。
ノノは師匠にお遣いを頼まれるのが大好きだった。森の静かな生活もいいが、たまには人里で違った文化に触れるのも楽しい。
街に来るのは月に一度ほど。馴染みの問屋に薬を売り、その代金で森での生活用品を買い揃える。
「待ってたよ、
人懐っこい薬問屋の若旦那が、にこにことノノの持ってきた薬を受け取る。魔法使い印の薬は、師匠の杖の素材にあやかって『
「今回も全部買い取らせてもらうよ。次回はもっと多めに持ってきてくれるとありがたい」
「それは嬉しいね」
代金を受け取りながら、ノノは気さくに世間話する。
「大旦那さんは、今日は店に出てないのかい?」
「親父は隠居してお袋と田舎に帰ったよ。これからは俺が頑張らないと」
若旦那が快活に笑う。この問屋とはもう三十年の付き合いだ。世代交代してもおかしくない。
「白樺屋さんはいつ見ても若くて羨ましい。なにか秘訣はあるのかい?」
「うちの滋養剤がよく効くからかな」
ノノは愛想笑いで誤魔化す。人間は歳を取るから面倒だ。次回来る時は、もっと老けた容姿に化けないと。
人間なんて、深く関わったってあっという間に死んでしまう。だから適当に浅く付き合うのが一番だ。ノノはそう思っている。
……淋しい思いをするのは、いつだって残される側だ。
薬を売って空になった行李を、今度は麦やハムやチーズ、それに大量の菓子で満杯にする。勿論、頼まれたオリーブオイルも大瓶で買った。
「あの
人の良い師匠がタダ働きしませんようにと祈りつつ、しっかり油の領収書を切ってもらう。
行きよりも重くなった行李を背負ってノノが森に戻ってきたのは、日暮れ前のことだった。
黄昏が彼岸と此岸の境を曖昧に染める時刻。森の畔に樫の大木のように佇む人影を見つけ、魔法使いの弟子はぎょっとした。
あの男、まだ居たのか。
「そこのお方、ここらは日が暮れると狼が出て危ないですぜ」
通りすがりの振りをして、今度はノノから声をかける。男ははっと顔を上げた。
「さっきの……」
「ずっとここに居らしたのですかい?」
男は困惑したように、
「いや、何度か森に入ったのだが……道に迷ってここに戻ってしまった」
森の深部に近づくと、穏便に外へと追い出される。それが
「捜し人は見つかりましたかい?」
「いや……」
ノノの問いに、彼は自嘲する。
「もう、いないのは解ってるんだ。だが……諦めがつかなくて……」
左腕に巻かれた黒のチーフを握る。
「明日から任務で国を離れる。だからその前に、彼女に別れを言いたかったんだ。聞いてくれてありがとう」
「……いえ、お勤めご苦労様です」
将校は項垂れながら踵を返す。彼の背中が街の方へと消えていくのを確認してから、ノノは森へと帰った。
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