第8話 鬱の裏切り

 彼は、マンションの玄関ドアが開く音で目を覚まし、妻と娘が帰ってきたことに気づいた。

 

 携帯のカレンダー表示は土曜日の午前10時を示していた。


 彼はまだ朦朧とした意識ではあったが、自室から出て、妻と娘を迎えた。


 妻は彼に娘の状態を説明した。軽い発作であり、特段の治療は要しないという内容であった。


 娘も笑顔を見せ、お父さんのやりたいようにやればいいよ、お父さんも鬱病なんだから。私はその辛さよく分かるからと言った。


 彼も妻と娘に突然の決断を謝り、辞職願いは出したが、

 まだ、会社から何も連絡がないので、来週火曜日にある心療内科の診断の際、医者に辞職の事も相談してみると言った。


 妻も娘も安心したように大きく息を吐いた。


 それから、妻はスーパーで買ってきた夕食の食材を置きにキッチンに向かった。

 

 娘は疲れたからと言い自分の部屋に向かった。


 キッチンに入った妻は立ち尽くした。

 

 洗い場には、災害後のように粉々になったガラス類が散乱し、その中にはウィスキーのボトルの破片も混じっていた。

 

 妻はすぐさま、彼の方を振り向いた。


 彼は妻と目が合ったが、何も言わずに自分の部屋に戻って行った。


 妻は彼が医者から止められている酒を飲んだことに気づいた。

 しかし、彼の心情を察すると何も言えなかった。


 その夜も、彼は妻と娘が眠りにつくと自室からキッチンに移動し、酒と薬を飲み続けた。

 

 耳にはヘッドホンをし、やはりあの曲を聴いていた。


 彼は妄想に陥り、黒い影を誘き出し、ダム湖に再度、トラップしようとしていた。


 一晩中、彼の不気味な独り言と、時折、彼がタンブラーを叩く音がマンションの部屋中に響き渡っていた。


 妻は恐怖を覚え、布団に包まり耳を塞いでいた。


 彼の夜の蛮行はその後も続き、火曜日を迎えた。

 その日は心療内科の受診日であった。


 彼の心療内科に行く目的は、この1週間で真逆のものとなっていた。

 

 彼の心は変化した。


 「お前の苦しみは彼女の苦しみに比べれば大したものではない。」と黒い影に言われた。

 

 彼は彼女の苦しみを知るため黒い影を追いダム湖に辿り着いた。


 そして、彼女に近づこうと入水しようとしたが彼女に止められてしまった。

 

 彼は思う。

 自ら楽になるやり方では、彼女は逢ってくれない。


 まだ、苦しまないと、踠き苦しまないと


 俺の最大の苦しみとは何なんだ!


 分かっているじゃないか。


 あの真実を、あのダム湖の真実を、俺と彼女だけの秘密を神に告解することだ

 

 俺は恋人を失った可哀想な被害者ではないのだ。


 俺は偽善者なんだ。罰を受けなければならない。


 そして苦しみ、もっと踠き苦しまないと、彼女は逢ってくれない。


 彼はこんな思いに駆られていた。


 その反面、彼の心の弱さが苦しみから逃げ出してしまう。楽になろうとしてしまう。


 会社との対決を大義とし、アルコールと抗うつ薬・睡眠薬の過剰摂取、そんな簡単な方法で、懲りずに彼女に逢いに行こうとする。


 そんなやり方は通用しないと分かっているのに

 

 最早、心療内科としての本来の助けは、彼には必要ではなかった。


 彼が行く目的は、告白の決断から逃れるための儀式、

 あの夜の蛮行を継続するため必要となる小道具、

 「薬」が必要なだけであった。

 

 彼は妻の運転する車に乗せられマネキン人形のように微動だにせず、病院まで送られた。


 車から降りる時、そのマネキン人形は一言だけ妻に忠告した。


 「余計なことは言うなよ」と


 病院に着き妻が受付をしようとすると、

 高齢の看護師が診断室から出てきて、

 妻に向かって、


 「生きていてよかったねぇ~」


 と笑いながら声を掛け、

 

 彼に、先生も待ってるからすぐに診断室に入るよう促した。


 彼と妻は診断室に入った。


 医者は柔かに彼を迎え、まずは良かった、良かったと言い、

 それから、どうですか?体調の方は?と彼に尋ねた。


 彼は幾分か恐怖感は無くなったと答えた。


 医者は、眠れてますか?と次に尋ねた。


 彼は、寝付きは良くなったが、すぐに目が覚めてしまうと答えた。


 医者は、うんうんと頷き、食欲はありますかね?と尋ねた。


 彼は、あまり食欲はない。1日1食ぐらいであると答えた。


 医者は、奥さんから見てどうですか?と妻に尋ねた。


 妻は、日中は食事をしようとしないが、夜中に食べているようだと答えた。


 医者は、まぁ~、今は食欲がないのが当然かと思います。一食でも食べれば御の字ですよと言った。


 続けて医者は、彼にお酒は飲む気になれますか?と罠を張った。


 彼は飲む気にはなれませんと嘘を答えた。


 医者は、奥さんどうですか?と尋ねた。


 妻は下を向いた。


 すると、医者は、我慢できませんよね。

 私もお酒は好きですから、旦那さんの気持ちは分かりますよ。

 でも、極力、飲まないようにしてくださいと、優しく彼に言った。


 この流れのまま、医者が次の質問に切り替えようとした、その時、


 後ろから声が上がった。


 妻が重たい口調で、

 会社から連絡があった日はかなりお酒を飲んで、荒れていた事をおずおずと医者に喋ったのだ。


 今度は彼が下を向いた。


 医者は彼ではなく妻に向かって、会社は何と言ってきたのですか?と尋ねた。


 妻は、仙台に異動してはと言われたみたいです。

 でも、仙台は所謂、辞め席で、それに対して、主人は腹を立てたみたいですと説明した。


 その時、彼が医者に向かっていきなりこう言った。


 会社には辞表を出しましたと


 医者は、あっ!と言い。

 

 忘れてました。

 先週、それを言うのを。

 

 あのですね、貴方は今、正常な判断ができません。


 そのような時に人生を左右するような決断をしてはいけません。

 

 病気が良くなって後悔する事例が多いんですよ。


 それからも医者はまだ先週、辞表の件を指示しなかった事を悔やむように、   

 

 しまったなぁ~、前回は自殺のことばかり考えて、それを言うのを忘れてましたと、


 自身を責めるように愚痴をこぼした。


 そして、医者は息を整えるように一息つくと、彼に向かって、

 辞表は撤回してください!


 それと異動の関係は全て保留にしてください!


 会社には医者に言われたと言ってください。

 

いいですか!と


 彼に改めて指示を出した。


 彼は、分かりましたとだけ答えた。


 それでは、今日はこれで終わります。

 奥さんだけ、ちょっと残ってください。と医者は言った。


 彼は医者に礼を言い、診断室を出て、待合室の椅子に腰掛けた。

 

 そして考えた。 


 妻が余計なこと、飲酒の事を医者に喋った。


 多分、今、医者は妻から詳しく聴取してるんだろう。


 薬は減るかもしれない、いや、おそらく、妻が管理することになるかも

 まぁ、いいさ。俺にはまだまだ薬は残っている。


 兎に角、薬が出ればいいんだ。


 ストックが減らなければいいんだ。

と、自分に言い聞かせていた。


 その頃、医者は、彼の思惑どおり妻に尋ねていた。


 旦那さんは、どのくらいお酒を飲まれたかご存知ですか?と


 妻は、恐らくウィスキーのボトル1本は飲んだと思いますと答えた。


 医者は、一晩で!と驚きながら言った。


 妻は思った。この際、全てを話そうと。

 

 そして、医者に説明した。


 辞職を決断した際、表情がなくなり、無感情な態度になったこと、粉々に割れていた洗い場の様子、

 そして、夜の蛮行と不気味な独り言を


 医者は、う~んと腕組みをし、下を向き、考え込んだ。

 そして、妻に言った。


 奥さん、鬱病はね、焦りによりイライラ感が高まり、時に暴力的な行為をすることはよくあるんです。

 

 その場合は、薬の量を調整して対処すれば良いんですが、

 

 独り言が気になりますねぇ~

と、何かを探し当てたように眉を顰めながら呟き、


そして、妻に尋ねた。


 どんな事言ってるか分かりますか?と


 妻は、ただぶつぶつ言ってるのしか聞こえず、内容は分からないと答えた。


 医者は両手で両膝を叩き、立ち上がり、受付に行き、待合室にいる彼に、

 旦那さん、もう一度、診断室にお願いします。と彼に言った。


 彼は診断室に入り、医者の前に座った。


 医者の眼は彼を厳しく睨みつけていた。


 彼は酒の件だなと覚悟した。


 医者は彼に言った。


 旦那さん、教えてください。


 貴方が毎晩、独り言を言っていると奥さんから聞きました。

 

 何を言っているのか?


 その時、何を考えているのか?


 教えてください!と


 彼はじっと医者の眼を睨み続けたが、心の眼は妻を睨んでいた。


 「余計な事を言いやがって」と言わんばかりに!

 

 予想外の展開になった事で、彼は妻を恨んだ。

 


 医者も彼から決して眼を離さない。


 彼は沈黙を保った。


 しばらく、そのような膠着状態が続いた後、医者が彼に優しくこう言った。


 旦那さん。フラッシュバックって知ってますか?


 あのですね、私は貴方の過去にとても苦しい出来事が、何かあったんではないかと、

 今、考えています。

 

 人間は、時に辛い経験をした時、例えば最愛の人を亡くした時とか、

 

 大きなショックを受けた時に抑うつ状態になります。

 その重い軽いで抑うつ症状、鬱病と診断しますが、

 

 フラッシュバックで症状が出た患者はね、私たち精神科医にとって、実は治療し易いんですよ。


 なぜならば、鬱になった原因がはっきりしているから。


 治しやすいんですよ。


 貴方は何を悩んでいるのか、

 何を独り言を言ってるのか、


 教えてください!


 彼は医者から眼を外し、下を向いた。


 そして、彼は思った。


 俺は一体何を求めているのか。 


 あの真実を告白することではないか!

 

 薬ではない。


 告白するのはこの医者でも良いのか?


 この医者は俺の鬱病を真剣に治そうとしてくれてる。


 この医者に言えば、それで終わるのか?と


 5分くらい診断室に沈黙が支配した。


 彼はやっと顔を上げ、医者の眼を見て、

 

 「ダムの中に…」とだけ言いかけ、慌てて口を噤んだ。


 その時、言葉に出した瞬間、瞬時に彼は感じたのだ。


 誰かが彼の告白を阻止するかのように


 「ダム湖の真実、彼女の事、カミングアウトするのはこの場所ではない!」と


 ダムの中?旦那さん、ダムの中に何があるんですか?と医者は尋ねた。


 彼は、眼を瞑り、口を閉し、それから下を向いた。


 沈黙が続いた後、後ろから妻が答えた。


 主人は大学時代に自動車事故に巻き込まれて、ダムに落ちたんです。

 その時、同乗者の1人が亡くなったと聞いていますと


 彼は妻に事故の話をしたことがあった。

 でも、彼は、後輩4人を乗せて事故に遭い、1人が死んだと妻に説明していた。

 

 真実ではない事を説明していたのだ。

 

 ここで、終わって欲しいと彼は願った。


 彼は急に貧乏揺すりを始めた。


 医者は妻の話を聞きながら、彼の様子を観察しながら、大きく頷き、そして彼を優しく見つめ、


 分かりました。今でもその時の光景が浮かぶんですね。

 

 分かりました。貴方は今までよく耐えてきました。  

 

 トラウマを抱え、激務をこなし、ウィルスに感染し、上司とぶつかり、心が疲れて当然です。

 と彼を労った。


 そして、妻に向かい、奥さん、治療方法を変えましょう。


 カウンセリング療法を取り入れます。


 このクリニックではできませんので、系列の都立病院に紹介状を書きましょう。と説明した。


 彼の貧乏揺すりが突然止まった。


 それから、医者は、彼に向かって、旦那さん、入院しましょう、できますよね。

 と尋ねた。


 彼はある意味、茫然自失となり、言葉を失ってしまった。


 そして、彼は慌ててしまった。  

 

 彼は医者に、薬は出るのですか?と

 見当違いな質問をしてしまったのだ。


 医者は笑いながら、


 出ますよ。

 安心してください。

 ただ、カウンセリング療法が主たる治療となりますので、薬の量は今より少量になると思います。

 

 また、薬も病院が管理するので、過剰摂取する危険性はなくなりますよ。と言った。


 彼は諦めた。


 後ろから、よかった~と言う妻の心の声が聞こえたかのように感じた。


 彼は医者に、いつ頃から入院になるのですか?と尋ねた。


 医者は、今はウィルス感染者の受け入れが忙しく、病床数の関係もあり、すぐには難しいと思いますが、

 

 そうですねぇ~、遅くとも来月初めにはできると思いますよ。

 と答えた。


 彼は珍しく、また、医者に質問した。


 月末、ウィルス感染後遺症の腎臓の検査が予定されています。

 もし、腎臓に障害が見つかったら、どうなりますか?と


 医者は、

 私は循環器内科の医者ではありませんが、医者としての判断はどの医者も同じだと思います。


 治療するに当たり、その患者の病状の重い軽い、急ぐ急がない、これで判断します。

 

 貴方の場合、もし、ウィルス感染により腎臓に疾患が見つかれば、そちらを優先することになるでしょうね。

 と応えた。


 彼は、大きく頷いた。


 彼にはもう一枚、切れるカードが残っていた。


 では、腎臓の検査が終わり次第、その結果を教えてください。     

 それから、カウンセリングの入院の手配をしますね。

 と医者が妻に向かって言った。


 妻は、腎臓の検査は明日なので、すぐに連絡できます。と医者に答えた。


 医者は、明日ですか!分かりました、連絡をお願いしますね。と妻に言い、

 

 彼を見てこう言った。


 入院までの間、お薬は出しますが、管理は奥さんにしてもらいますからね。

 いいですか!と


 彼は、心の中で舌打ちをしながら、小さく頷いた。


 彼と妻は心療内科を出て、薬局に向かい、薬を貰い、それを妻が受け取った。


 車に乗り帰宅する車内は沈黙が続いた。


 沈黙を破り、妻が勇気を持って彼にこう言った。

 

 よかったね。今までカウンセリングしなかったもんね。


 ある意味、ウィルスに感染したから、よかったかもね!と

 皮肉も交え、重い沈黙を突破しようとした。


 彼は、苦笑いをしただけで、何も言わなかった。


 ただし、彼の心は、怒りの声を上げていた。


 「中途半端な鬱病だ!治る鬱病なんてあるのかよ!中途半端だ!薬も盗られ、カウンセリング入院かよ!くそぅ!」と


 妻が続けて言った。


 明日の腎臓検査、異常無かったら、本当に安心できるね!と


 その時、彼は今度はウィルスに期待していた。


 そして思った。


 「鬱みたいな中途半端は勘弁してくれよ」と


 

 


 

 

 


 

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