第7話 破滅と暴力の現実

 彼は深い眠りから覚めた。


 少しの頭痛と倦怠感を感じ、口の中は睡眠導入剤の残量が残した化学物質の味で覆われていた。


 彼は思い出した。


 そうだ。黒い影を追いかけたんだと、そして、あのダム湖に行き、彼女の名前を呼んだことを


 そして彼は独り言を呟いた


 まだ、逢っては貰えないんだと


 彼は枕元に置いた携帯を見た。木曜日の午後5時であった。


 どれだけ眠ったのだろうか、どれだけ時が進んだのだろうか、

 彼には何十年も経った感があったが、現実はあの魔の金曜日からたった6日を経過したに過ぎなかった。


 彼は徐に携帯の受信メールを確認した。すると、会社の社長から、メールが届いていた。


 彼は思った。またか…、休ませてくれないなと


 彼は朦朧とする意識のなか、社長のメールを開いた


 「ご体調はどうでしょうか。

 さて、今度の異動の件ですが、〇〇人事部長の体調を考えると、ご家族とご一緒の方が良いと思います。

 そこで、追加の提案をいたします。

 

 札幌支社ではなく、貴殿が勤務した経験があり、比較的、東京から近い、仙台支社はどうでしょうか?

 

 新幹線ならば2時間かかりません。

 貴殿の体調を考慮し、通勤できる勤務形態も考えています。

 

 どうか、ご検討のほど、よろしくお願いします。

 

 また、ご連絡いたします。」


 そのような内容であった。


 再び、彼の脳は瞬く間に怒りに覆われていった。


 彼は知っていた。


 東日本大震災の時、会社は国及び県からの復興事業としての被災者の仮設住宅の建設、移設居住地の開発、区画整理といった事業を落札し、

 多くの人材を派遣していた。


 彼もその中の1人であった。


 それから10年、会社が実施するそれらプロジェクトはある程度、終盤を迎えており、ある意味、人材過多の状態にあった。


 会社は被災地住民の雇用を継続しながらも、会社社員の派遣は段階的に縮小してきたが、

 主たるポストである「復興対策室長」は、まだ残していた。


 実質的には、このポストが本来担う役目は既に消滅していたが、被災地に貢献しているとした会社のイメージを残すためだけに形だけのポストとして残していたのだ。


 このポストに着く者は、大抵が定年間際の者、そして幹部社員で体調崩した者、

 そうメンタルになった者の最後のお勤め先として設けていたことを


 彼は思った。


 もう、会社は俺を必要としていないな。

 今度は、ウィルス感染者への配慮として、あのポストを使うつもりだ。

 上手いやり方だよ。

 イメージ重視で形骸化した愚かな考えだと


 彼はじっと考えた。


 辞めどきだな。


 俺の考えは間違ってない。

 非は会社にある。

 会社は場当たり的に対応しているだけだ。

 ウィルス感染者への配慮!笑わせるな!

 東京から、本社から、遠ざけようとしているだけではないかと


 何時間経ったであろうか。

 

 彼は仕切りに考えていた。


 彼は会社を辞職したいと思った。

 しかし、家族のこともある。子供らに費やした教育ローンの返済もやっと始まったばかりだ。

 

 娘の病気治療の資金も必要だ。

           

 来秋、結婚する息子への支援金も

いる。


 辞職退職となれば、退職金など雀の涙程度になる。



 そして、彼は鬱病患者が往々にして陥る破滅的な考えに辿り着いた。


 でも、俺の信念は曲げたくない。損得なんか、どうでも良い!

 

 俺は辞職する!と


 彼はすくっと立ち上がり、自室を出て、

 

 先ずは妻の部屋に行き、会社が彼を必要としてないから辞職する。

 退職金はほとんどないと思ってくれ。と淡々と妻に語った。


 妻は呆然と彼の話を聞いていた。

 そして、ローンのこと娘の医療費のこと、息子の結納金、結婚式の支援金はどうするのよ?と

 彼に静かに尋ねた。


 彼は生命保険を全て解約し、実家の土地を売却すれば何とかなると言った。


 妻は何も言わなかった。彼は妻の部屋のドアを閉めて出て行った。

 

 すると、妻の部屋からコンコンと咳をする音が聞こえ出した。

 

 妻も彼と同様、ウィルスに感染し、その後遺症として咳喘息を患っていた。

 それが再発し出したのだ。彼の唐突な辞職という自己都合に平静を保っても病んだ肺は耐えきれなかったのだ。


 彼は次に娘の部屋のドアをノックし、娘の返事を聞き、部屋に入った。


 娘は起きていた。

 彼を待ち受けていたかのようにベットに正座し座っていた。


 お父さん、会社辞める。

 会社はお父さんを必要としていないからね。

 お父さんは自分の考えを曲げたくないんだ。

 お金減るけど、いいかい?と

 彼は娘を諭すように尋ねかけた。


 娘は言った。私は、私は、まだ、働けない。

 

 やっぱり…、私も…、バンドの夢、諦めないとね。


 仕方ないんだね。と言うと、

 

 顔を布団に押し付け、蒸せるように鳴き出した。


 娘は大学を辞めて、音楽に夢を抱いていた。


 彼は何も言わず、ゆっくり静かに娘の部屋のドアを閉め、彼の自室に向かい、部屋に入り、携帯を取り、社長にメールした。


 「私如きの者に、いろいろ配慮していただき感謝します。


 また、私の体調、家族の事も考えていただき、恐縮至極に存じます。


 家族とも相談しました。これ以上会社にご迷惑をお掛けするのは忍び難く、潔く、辞職します。


 お世話になりました。


 追って、辞表を郵送します。」

と、

 書き込み送信し、この内容をコピーし、妻と娘のLINEにも送信した。


 メール、LINEを送信してから何分か経った時、


 急に娘の部屋から泣き叫ぶ悲鳴がマンションの部屋中に響き渡った。


 妻は徐に部屋を飛び出し、娘のもとに駆け寄り、懸命に娘を宥める声が聞こえてきた。


 そして、妻は彼の部屋に行き、娘の発作が始まった。救急車を呼んでと彼に頼んだ。


 彼は何も言わず、携帯を取り、119番通報を慣れた様子で淡々とこなした。


 娘は双極性障害、躁鬱病を患っており、これまで何度もパニック障害に陥り、自殺未遂を起こしていた。


 20分後、サイレンを消した救急車がマンションに到着し、消防員2人が娘を担架に乗せ、妻とともにマンションから去って行った。


 彼は自室で目を閉じて、煙草を吸っていた。


 夜の10時頃、妻からLINEが送信された。今夜は娘と共に病院に泊まるという内容であった。


 彼は了解と返信し、


 そして、俺も希死念慮あるのにねと一言呟いた。


 彼は思った。俺は悪くない。悪いのは会社だ!と


 彼は自室を出て、キッチンの隅にある丸椅子に腰掛け、灰皿と煙草、そして医者から止められていた酒、ジャックダニエルのバーボンウィスキーとタンブラーを準備した。


 ボトルには、半分以上残った琥珀色の液体が見えた。


 彼は医者から貰った抗うつ薬と睡眠導入薬を適量だけ口に入れ、タンブラーにバーボンを注ぎ、薬を飲み込んだ。


 彼はまた自室に戻り、押し入れにあるバックを漁り、今まで不当に貰っていた、大量にストックされた抗うつ薬と睡眠導入薬を鷲掴みに取り出した。


 そして、キッチンに戻り、綺麗に皿に乗せた。

 あたかも、それをバーボンのつまみにするかのように


 彼はカタンカタンとタンブラーをガスコンロの脇にある真鍮のスペースに叩きつけるように、

 バーボンを注いでは飲み干し、つまみの薬を口に入れ、

 また、タンブラーにバーボンを注ぎ、そのローテーションを続けた。


 彼は朦朧とした意識のなかで、LINEミュージックのマイプレイリストを開き、

 イーグルスのナンバーをBGMとしセッティングした。


 The Last Resort がかかった。


 彼は思い出した。


 あのダムに落ちる前、カーステレオから流れていたのもこの曲であることを


 いつの間にか、ジャックダニエルのボトルは空になっていた。

 

 彼はその空いたボトルを掴み、まだ洗われてなく、キッチンの洗い場に放置された、汚れた皿、コップ、残飯を見つめた。


 彼は叫んだ。俺も一緒だよ!汚れだ!と


 そして、握ったボトルを思い切り皿に目掛けて叩きつけた。


 物凄い破壊の音が部屋中に鳴り響いた。

 彼には破滅への序曲のように聞こえた。


 彼は丸椅子に座り直した。


 酒のつまみと化した薬は、まだ皿の上に半分程残っていた。


 彼は今度はヘネシーのボトルを持ち出し、

 また、同じように、薬をつまみに、タンブラーの叩きつけをドラムのように繰り返し、

 更にはBGMのThe Last Resort をリピート設定し、

 破滅の行為を再開し始めた。


 彼はThe Last Resortを聴きながら、あの時、交わした彼女との会話を思い出した。


 彼がこの曲は、メロディーと違って歌詞は、

 過去の愚かな植民地主義、先住民であるインディアンの犠牲の下、今のアメリカの繁栄がある。

 それを忘れて、西海岸が楽園なんて言う奴には、サヨナラを言う!って感じの重たい歌詞なんだよと

 彼女にうんちくを説明した。


 彼女は言った。英語わかるの?と


 彼は、いや、和訳を覚えただけだよと言った。


 そうだよね、英語は苦手だもんねと笑いながら言った。


 彼は苦笑いした。


 あの時の光景が彼の脳裏に蘇って来た。


 いつしか、彼は丸椅子に座ったまま、眠っていた。


 目が覚めるとリビングの中に陽光が差し込んでいるのが見えた。

 

 彼は携帯のカレンダーを見た。

 

 金曜日と表示され、時刻は午前11時を回った頃であった。

 

 彼は昨夜の記憶を辿ろうとはしなかった。


 絶対に思い出すことができないことを彼はよく知っていた。

 また、辺りさえ見れば、自分が、昨夜、何をしたかが分かることも知っていた。


 昨夜の蛮行は初めてではなかったのである。


 彼が水を飲もうと覗いたキッチンの洗い場には、

 粉々に破壊された、ボトル、皿、コップが散乱していた。

 

 彼は思った。やっぱりと


 そして、彼はガスコンロの脇に残った皿の上の薬を見つめた。


 彼は朦朧としたまま、皿に残された薬だけをジャージのポケットに詰め込むと、

 徐に立ち上がり、キッチンを離れた。


 彼は娘と妻の部屋を覗いたが、まだ、2人は帰っていなかった。


 彼はよろけながら、自室に戻り、そこに敷かれた棺桶のような布団を見て、

 そして、生きた屍のように横たわった。


 彼は渦巻きのように回りながら降りてくる天井を睨み、


 そして、なかなか死なせて貰えないなと呟き、


 また、深い眠りに堕ちて行った。


 


 

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