林さんの恋日記

紅音

一目惚れ

 林鈴音(はやしすずね)23歳。大手ショッピングモールに勤める彼女は、勤務3年目にして初めてやる仕事を任されていた。


「椅子は10ずつ、5列並べてー。んで、通路ように一人二人通れるスペース開けて、同じく10の5で並べてー。」

「は、はい!」


 広場になっているイベントスペースに、簡易舞台と座席。今日の午後に開催されるヒーローショーの準備をしているのだった。

 鈴音は初めてのことに戸惑いつつ、上司の指示に合わせて椅子を配置していた。指示を受け、殴り書きでメモをとり、そしてすぐに実行と順を踏み、仕事を進めていく。


「チーフ!椅子の配置終了いたしました。」

「ありがと~。じゃあ、楽屋に挨拶にいこっか。」


 ついにこの時が来てしまった。鈴音の心臓はバクバクと音を立て始め、冷えた指先をきゅっと握る。


「そんなに緊張しなくても大丈夫よ~。」

 今日何度目かの言葉を聞きながら、鈴音は曖昧に笑う。

 チーフから聞いた話だと、50代のおじさんで、自分にストイック、動きにキャラクターがしっかりと染み付いているベテランスーツアクターさんとのこと。


「林さんって、特撮とか好き??」

「あまり。なので昨日帰ってから一応見てみたんですけど…。」


 そう、昨日の終業時、チーフに唐突に“明日アクターさんにも挨拶するよ”と言われ、何も知らないのもまずいのではないかと、朝方まで寝落ちしつつも作品を見ていたのだ。


「林さんは偉いね~。」


 と、かれこれ話している間にバックヤードに着いてしまった。目の前には“ヒーローショー用楽屋”と書かれた簡素なコピー用紙が貼ってある。

 心の準備をする間もなく、チーフが扉をノックした。心臓の鼓動がピークに達するなか、部屋から“どうぞ”とくぐもった声が帰ってくる。


 開かれていく扉は、スローモーションのように感じられた。


 徐々に見えていく室内に不安が爆発する。


“作品をちゃんと知っているか?”と聞かれるのでは?

 上手く答えられなかったら“こんなことも知らんのか!”と怒られてしまうのではないか、呆れられてしまうのではないか…。


 そう思ったのも束の間、考えても仕方がないと、鈴音は意を決して視線を定めた。

 そこに居たのは男性が1人、扉に背を向けて着替えようとしていたところだった。細い体に、無駄なく付いている筋肉。振り向けば引き締まった腹筋が視界に入る。


「すみません。本日新人が手伝いに来てまして、ご挨拶をと思ったのですが…。お着替え中にすみません。」


「いえいえ、大丈夫ですよ。むしろお目汚ししてしまい、申し訳ないです。」


 男性は申し訳なさそうにしながら、黒いインナーをサッと着る。


 チーフと男性が何かを話しているようだが、鈴音の耳には何も入ってこない。


 チーフの話していた、“50代のベテランアクター”というのは、きっとこの人だろうと思いつつ、想像よりも優しい声色と雰囲気、さらにはその体型に頭が真っ白になっていた。


 と、扉の前で制止する鈴音に気づいたチーフが不審げに、そして男性は眉を更に下げて申し訳なさそうに、視線を彼女に向けた。


「年頃のお嬢さんの前で、ごめんね?」

「い、いいえいえ!とんでもないです!とても素晴らしいお体だと思いますよ!!」


 とっさに出てきた言葉は、何もオブラートに包まれることなく、鈴音が頭の中で思っていた本音そのもの。

 はっと気づいたときには、もう時既に遅し。チーフと男性はポカンと口を開けていた。


 さすがにこれはまずい、どうしよう、どう言い訳すれば…と、頭のなかでパニックを起こし全身からさらに冷や汗が出る。

 鈴音にとって辛い沈黙を破ってくれたのは、男性だった。


「…あ、ありがとうございます。お嬢さんに言っていただけると、何だか照れますね。えっと、よろしくお願いしますね。」


 恥ずかしそうに、男性ははにかんで頬を掻く。


 変態とも取れる発言を咎めることなく、真っ直ぐに受け止めてくれる純粋で優しいおじ様。

 ストイックだというのを体現しているそのボディ。

 そして極めつけは最高な笑顔。


 その笑顔を見た瞬間、鈴音の胸にプスっと、何かが刺さった。

 甘くて痛くて、でも、止められない。

 鼓動がまた走り出す。


「こちらこそ、よろしくお願いします!」


 今日一番、いや今までで一番の笑顔で、鈴音は笑った。

 ここから彼女のもう目的な片想いの恋が始まったのだった。

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林さんの恋日記 紅音 @akane5s

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