Episode 13 消える外国人

 それから俺はクルマに乗って、一路中華街へと向かった。いつものコインパーキングにクルマを放り込み、ボストンバッグ片手にやや速足で中華街の通りを抜けて、陳さんの店の玄関をくぐる。


 カウンターの奥にいた陳さんが、マスクでくぐもった声で不愛想に言った。


「やあ、よく来てくれたね」


「会って話がしたいってのは、この前言っていた件のことか?」


「まあ、そうなんだけれども……その為には、あたしも少し確認しておきたいことがある。先にお前さんの希望を叶えておこうかね」


 陳さんの案内で、俺はこの店の地下へと足を運んだ。そこはちょっとした射撃訓練場シューティングレンジになっていて、古くて小さな漢方薬局の地下にある設備とはとても思えないほどのものだった。


 俺が陳さんに出した条件というのは、この射撃訓練場の使用のことだった。以前はアイツと二人で時々ここを利用させてもらっていたが、今となっては実弾射撃など久方振りのことで、腕が鈍っていないかどうかはなはだ不安ではあった。


 十メートルほど先には、ターゲットシートがクリップに挟まれてぶら下げられていた。俺は室内のテーブルの上に持参したボストンバッグを置き、中身を順番に取り出して射撃台に並べた。


 今回持ってきたものはグロック17とグロック19、そしてグロック26の三丁の拳銃だ。これら三丁の拳銃にはある共通点があって、型番の数字が大きくなるにつれて拳銃のサイズは小さく、携行性に優れるようになっていくのだが、小さな拳銃はより大きな拳銃のマガジンを共用することが出来た。装弾数はグロック17が十七発、グロック19が十五発、グロック26は十発となっている。そこそこ装弾数が多くて扱いやすく、フランス外人部隊にいた頃に使い慣れていたというのが、俺がのメインアームとしてグロック17を選んだ理由だった。


 テーブルの側の壁にぶら下げられていたゴーグルとイヤーマフラーを着用すると、まずはグロック17にマガジンを装填してスライドを引き、ターゲットシートに向かって発砲した。乾いた破裂音が射撃訓練場に鳴り響くが、防音対策がしっかりとなされているので、拳銃の発砲音が外に漏れるようなことはない。


 使用しているターゲットシートは、拳銃をこちらに向けて構えた男の写真が用いられたマンターゲットタイプだ。一般的な円形のターゲットシートは、俺は使用しない。実戦の場において、円形のターゲットがこちらに向かって発砲してくる訳ではないからだ。


 ターゲットシートに向けて、一度に二発ずつ弾丸を撃ち込んでいく。実戦の時に出来ることは、訓練の時に身体に染み込ませた動作だけ。一見無駄弾を撃っているようにも見えるが、出来るだけ瞬時に敵を無力化するためには、一発必中では何とも心もとない。


 立て続けにマガジン一本分の弾丸を撃ち尽くし、射撃台の頭上にあるスイッチを操作してターゲットシートを手元に引き寄せた。撃った弾丸の集弾率はまずまずといったところで、弾痕はマンターゲットの頭と心臓付近にほぼ集中していた。


 それからはグロック19、グロック26を順に手にして、それぞれ同じように十メートルの距離で新しいターゲットシートに向けて発砲を続けた。ほぼ一年ぶりの実弾射撃だったが、十メートルの距離であれば、弾丸の集弾率はいずれも良好だった。


 今度はターゲットシートまでの距離を二十メートルに設定して、同じように三丁の拳銃を順番に用いて実弾射撃を行った。距離が倍になったことで、撃った弾丸の着弾点にややばらつきが出始めた。空になったマガジンに予備の弾丸を込め直し、再び二十メートルの距離で実弾射撃を続けた。何度かこれを繰り返すことによって、ようやく着弾点が狙った位置に集中するようになった。


 持参した弾丸を使い切ったところで、俺はゴーグルとイヤーマフラーを外し、後ろにいた陳さんに言った。


「9パラを二ケース売ってくれ、金は持ってきてある」


 9パラとは、俺が使用していた拳銃すべてで共用できる弾丸の略称で、正式には9×19ミリ・パラベラム弾と呼ばれている。一ケースにつき五十発、二ケースで合計百発だ。当面の目的セルフディフェンスを果たすためには、それだけあれば十分だろう。


「あいよ……お前さんがここに来るのはほぼ一年ぶりのことだったが、なかなかどうして、腕の方は鈍っちゃいないようだね。これなら安心して、お前さんに仕事を頼むことが出来そうだ」


 同じくイヤーマフラーを外した陳さんが、少し感心したような口調で言った。陳さんが確認しておきたかったことというのは、どうやら今の俺の射撃の腕前だったらしい。


 俺はテーブルの下に備えてあったほうきと金属製のちり取りで、辺りに飛び散らばった空薬莢やっきょうを掃き集め、ゴミ箱代わりの空の一斗缶に捨てながら答えた。


「前にも言ったはずだよ。俺はもう、アンタからの仕事を受けられそうにはない。今ここで練習をさせてもらったのは、万が一の時の用心のためさ」


「そんな薄情なことを言うもんじゃないよ。とりあえず話だけでも聞いておくれ」


 そう言って陳さんは手にしていたイヤーマフラーを壁のフックにかけ、一旦その場から姿を消したが、すぐに9パラを三ケース持って戻ってきた。


「俺が頼んだのは二ケースだけだぜ?」


 陳さんはテーブルの上に弾丸のケースを置き、マスクの奥から独り言のように言った。


「なに、すぐにお前さんの入用いりようになるだろうと思ってね……ここ最近、ツァオグループが新しいビジネスに手を出し始めている」


 曹グループと聞いて、俺はつい無意識に身体をこわばらせた。一年前の出来事が、ふと脳裏をよぎった。


 曹グループというのは、数ある中国系マフィアの中でも、特に過激な手法を好む連中だった。以前聞いた話では、中国の裏社会におけるあぶれ者や危険人物、素行の悪い軍人崩れなどが主な構成員だという。


 連中が日本国内を活動拠点の一つにし始めたのは、つい数年前からのことらしいが、日本の反社会勢力はもちろんのこと、ロシアンマフィアや他の中国系マフィアといった連中達でさえも、曹グループの扱いには少なからず頭を悩ませているらしい。


「今流行りの新型コロナウィルス感染症の影響で、世間はどこも不景気の真っただ中だ……そんな中、在留外国人の生活がままならなくなってきている」


 俺は出来るだけ平静を装いつつ、テーブルに置かれた弾丸のケースを一つ手に取り、ケースから弾丸を取り出して空のマガジンに装填していく。


 ちなみに、マガジンに弾丸を装填する際には、ちょっとしたコツがある。それは、マガジンの最大装填数いっぱいまで弾丸を装填しないことだ。弾丸を装填してすぐに使用するのであればともかく、弾丸を装填した状態でマガジンを保管する場合、目一杯まで弾丸を装填しておくとマガジンスプリングがへたりやすく、しいては給弾不良の原因になる。俺の場合、マガジンの最大装填数から二発減らして弾丸を装填するようにしていた。


「あたしらみたいに古くからこの国に住んでいる者や、きちんと定職に就いているような者達は、まあそれほど問題は無い……今問題になってきているのは、この国へ出稼ぎに来ていた連中や、ここ最近この国に大勢やってきた、外国人技能実習生って連中さね」


 ひとまずグロック26のマガジンの再装填を終えた俺は、次にグロック17のマガジンを手にして、弾丸を込め始めた。一発ずつ弾丸を装填する時のかちゃり、かちゃりという音が、静かな射撃訓練場の中で小さく響く。


「ニュースなんかを見ていた限り、そもそも外国人技能実習制度そのものに、色々と問題があったように思うんだがな」


 俺が話の合いの手を入れると、陳さんは目だけで小さく笑ってみせた。


「低賃金や残業代の未払い、暴行、セクハラ、労災の隠ぺい、その他もろもろ……お前さんの言う通り、あたしもこの制度には、色々と闇があるって思っちゃいるよ」


「で、その話が俺達と、一体どんな関係があるんだ?」


「外国人労働者については、今までにも色々と闇があったんだが……その闇が最近、だんだんと色濃くなってきている」


 陳さんは部屋の隅に立てかけてあった折り畳み式のパイプ椅子を広げ、その上に腰を下ろした。俺は全てのマガジンの再装填を終え、それぞれの銃の熱が冷めていることを確認してから、使用していた三丁の拳銃をそれぞれモデルガンの箱の中に収め、ボストンバッグの中に入れた。残りの弾丸と予備マガジンは、そのまま一緒にボストンバッグの中に放り込んだ。


「あっちこっちで職を失った外国人労働者達が、収入を得られず、新型コロナウィルス感染症の影響で帰国することもままならず、この国の中でどんどん路頭に迷い始めている。そしてそのうちの一部は、犯罪にも手を染め始めている」


「豚だの果物だのを盗んでいったっていう、あれか?」


 後片付けを終え、腕組みをしながら射撃台にもたれかかるようにしていた俺の言葉に、陳さんは小さく頷いた。


「それもある。ただ、外国人による犯罪の件数が、それほど急激な勢いで増えているって訳じゃない。一時期に比べれば、むしろ少なくなったぐらいさ」


「で?」


「ここ最近、ベトナム人の犯罪件数が急激に増えている。それと、昨年末の時点で、技能実習生の数は五年前の約二.五倍にまで増えた。昔は中国人が一番多かったらしいが、今じゃベトナム人が一番多いそうだ」


「……」


「毎年この国が発表している統計資料なんかを見ても、そのことに触れられている部分がある。出稼ぎや技能実習の名目で日本に来てはみたものの、思っていたものとは違う日本の労働環境に絶望し、あるいは日々の生活に困窮こんきゅうして、犯罪に手を染めているってパターンじゃないかってあたしは思っているけれど」


 そこで陳さんは一旦言葉を区切り、小さくため息をついた。


「そのベトナム人達をメインターゲットに、曹グループが新たな人身売買に手を付け始めたらしい。母国に帰りたくても帰れない出稼ぎ労働者の外国人達に、密航船で国へ帰してやるって声を掛け、あるいは無理矢理拉致して、最終的には第三国へと連れ出して……って奴さ」


「その商売、金になるのかね?」


 俺がそう尋ねると、陳さんは小さく肩をすくめてみせた。


「さあて、ね。ただ、連中だって馬鹿じゃないから、リスクとリターンを計算して、儲けになるって考えたんだろうね。売春、強制労働、臓器売買……行方知れずの人間を売りさばく方法なんてのは、世の中いくらだってあるさ」


「やれやれ、おっかない話だ」


「それに、ここ最近じゃ技能実習生の失踪も増えていてね。去年実習先から姿を消した技能実習生のうち、半数以上がベトナム人だったそうだよ」


「その連中が、餌食になっているって話か?」


 俺の問いに、陳さんは被りを振って答えた。


「そいつが分かれば、この国の役人連中だってそうそう苦労はしないだろうさ……ただ、から聞いた話だと、ここ最近の外国人の入国者数と居留者数、そして出国者数との間に、のずれが出始めているようだ」


「出入国管理の記録のずれ、か」


「そういうこと……それも、密入国であればそもそも国の記録へのカウントがなされないから」


「現在の記録のずれの原因は、密出国あるいは誘拐って線が色濃くなってくる」


「その通り」


 陳さんは満足そうに頷き、そしてじっと俺を見つめた。


「この国のお役人さん達は、密入国者への対処は昔から厳しく行ってきていたが、密出国者への対処にまでは、なかなか手が回っていないってのが現状だ。とはいえ、自国内に居留している外国人が、密出国で勝手に母国へ帰っている程度だったらいざ知らず、犯罪組織の資金源になっているとなると、見過ごす訳にもいかない」


「それぞれの国の大使館なんかの動きは?」


 俺がそう言うと、陳さんはまるであざ笑うかのように小さく鼻を鳴らした。


「お前さん、そんなことを期待するっていうのは、流石に無茶ってもんだよ……全くの無関心って訳じゃないんだろうけれども、すぐに打てる手がない。これが実情だろうね」


「ふむ」


「でも一方で、曹グループの動きなんかについては、それなりにきちんと情報を掴んでいる。この国の行政機関は、なかなか優秀だよ」


「……そこで、って訳か」


 俺は組んでいた両手を腰に当て、一つため息をついた。直接聞いたというわけではないが、どうやら陳さんはこの国の組織だけでなく、海外の様々な組織などとも繋がるコネクションを持っているらしく、その必要に応じて俺達の元へ、受注した依頼の下請けを時々出していた。


 陳さんがくくっと、喉の奥を鳴らして笑った。


「三日後、あららぎ港を出港予定のコンテナ船が一隻あってね。その船はよくあるパナマ船籍の船で、オーナーは中国のとある海運会社ってことになっちゃいるが、その会社の実態は曹グループの息がかかったダミーカンパニーだって話さ」


「その船に、連中のが積み込まれている?」


「未だ調査中だが、その可能性は非常に高い。あと、面倒なのはその船の船員達が、揃いも揃って曹グループの息がかかった連中らしいってこと」


 陳さんの言葉に、俺は思わず眉をひそめた。


「日本の警察じゃ、下手すりゃ返り討ちってか?」


「ほら、何て言ったかね……そう、特殊急襲部隊SATとかいう連中でも連れてこられれば、少しは話が違ってくるんだろうけれどもね。普通の警察官がのこのこと乗り込んでいったんじゃ、おそらく命がいくつあっても足りやしないよ」


 確かに、曹グループの連中を相手にするのに、武器を使うことを躊躇ちゅうちょするようでは話にならない。一年前の出来事で、それは嫌というほど思い知らされた。


 今あららぎ港に停泊しているというコンテナ船の連中も、表向きはごく普通の船員の皮を被っているのだろうが、ひとたび本性をむき出しにすれば、何をし始めるか分からない。俺が連中の立場だったら、突入してきた警察官達を全員拉致あるいは殺害して無理矢理港を出港し、船がはるか沖合に出たところで、警察官達を海に投げ入れるだろう。それぐらいのことは、平気でしかねない連中だ。


「だったらSATでも、海上保安庁の特殊警備隊SSTでも、何でも使えばいい」


 俺がそう言うと、陳さんが小さく鼻を鳴らして笑った。


「それが出来てりゃ、あたしらなんかにお鉢が回ってきたりはしないよ。SATだのSSTだのいう連中も、みんな公務員なのさ。んだ。それがルールってもんだろ」


「今までの話の流れで、まだ事件が起こっていないとでも?」


「そりゃまあ、曹グループにはれっきとした容疑があるし、それを裏付けるための捜査も進んじゃいるよ。だが、警察や海上保安庁の特殊部隊みたいな連中が、わざわざ出張でばってくるような事件にまではなっちゃいない。今のところはまだ、普通の刑事連中のヤマなのさ」


 陳さんは自分の掛けていた細い銀縁の眼鏡を外し、マスクをずらしてレンズにふっと息を吹きかけた。再び眼鏡を掛け直し、マスクを元に戻した陳さんが言葉を続けた。


「とは言え、捕らえられている外国人達はもちろんのこと、警察や海上保安庁からも死人を出す訳にはいかない。人命が大事ってのはもちろんのことだけれど、何より事後処理が色々と面倒臭くなるからね」


「……」


「それに、依頼主は今回の件について、そうだ。だから、あたしらの出番って訳さ」


 陳さんはそこで一旦言葉を区切ってから、冷徹な口調で言った。


「今回の報酬額は五百万円。お前さんが片を付けた後のカバーストーリーも、すべて用意してある。ただし、下手な痕跡は決して残さないこと」


「……」


「あと、依頼主からの要望オーダーは、。あたしからの話は以上だよ」


 そこまで口にした陳さんは、ただ黙って俺の返事を待っていた。俺は何度か言葉を口にすることを躊躇ためらったのち、あえぐように言った。


「悪い、陳さん……俺の答えは変わらないよ。今の俺じゃ、アンタの依頼を受けることは出来そうにない」


「この間も言っていたけれども、それは武村がいなくなったからかい?」


 陳さんの目が、じろりとこちらをにらんできた。自分の視線が、あらぬ方向を彷徨さまよっているのを俺は自覚した。


「……ああ。ましてや今回の話は、アイツと一緒だった時でもしくじったような案件だ」


「偶然が重なった不慮の事故を、一体いつまで引きずるつもりだい?」


 陳さんが、大きなため息をついた。俺は思わず陳さんを睨み返した。


「アンタはあの場にいなかったから、そんなことが言えるんだ」


 陳さんは何も言わず、ただじっとこちらを見ていた。やや荒い息を吐いた俺は、一つ大きく深呼吸をした。


「アイツは俺の目の前で、連中に撃たれて死んだ。俺にはそれが、今でも信じられない」


 一瞬で頭に上った体内の血液が、ゆっくりと肩から胸の辺りまで下りてくるのを俺は感じた。そして、ここで陳さんを怒鳴りつけたところで何の意味もなく、過去は決して変わらないことを思い出した。


「アイツはとてもいい奴で、俺の相棒で……初めてアイツと会ったのは三年前、アメリカへ探偵とボディガードの修行に行った時のことだったよ。向こうアメリカじゃアイツは俺よりも先輩で、表の仕事でもアイツの方が、俺なんかよりもずっと有能だった」


「ふん」


「アイツが死んだのは、俺の一瞬の気の緩みが原因だった。アイツが死ななきゃならない理由なんて、どこにもなかった。そんなアイツが死ぬ間際に、最後に言い残したのは……」


「言い残したのは、一体何だったっていうんだい?」


 陳さんが、ぼそりと呟くように言った。


「……いや、何でもない。ともかく、今回の話は無かったことにしてくれ。今の俺には荷が重すぎる」


 俺は再び大きく息を吐き、視線を床に落とした。アイツの最後の言葉を思い出すのは、俺にとっては色々と辛すぎた。


「鳴沢……今のお前さんを武村が見たら、一体何て言うかねぇ」


 陳さんが、眼鏡のブリッジに右手の人差し指をかけ、軽く持ち上げた。


「お前さんには、例え一人になっても己の責務を果たそうって気概きがいはないのかね?」


「これが任務ミッションだったら、たとえ最後の一人になっても成し遂げなければならないだろう……でも、仕事ビジネスではなかなか、そういう訳にはいかないよ」


 俺の言葉に、陳さんの眼鏡が一瞬ぎらりと光ったように見えた。


「自分の命さえ守れれば、他人の命はどうなったっていいって?」


「そんなに言うなら陳さん、アンタが直接この仕事を引き受ければいい」


 つい口をついて出た言葉に、俺は後悔した。陳さんが、心底呆れ果てたという目で俺を見ていた。


「それが出来れば、わざわざお前さんに頼んだりなんかしないよ……人それぞれ、能力と適正ってのがあるもんさね」


「……」


「お前さんには能力も適正もあるっていうのに、たった一回の失敗を理由にして、目の前の困難から逃げ出そうとしている。今のお前さんは、あたしが知っていた鳴沢公佑じゃないよ」


 俺は懐から財布を取り出し、射撃訓練場の使用料と弾薬二ケース分の代金を、テーブルの上に残した弾薬ケースの脇に置いた。こっちの用事も、陳さんの話も済んだ――となると、ここに長居は無用だ。


「ああ、そうだ。最後にもう一つ、こっちは事のついでの話さ」


 その場を立ち去ろうとしていた俺に、陳さんが声を掛けてきた。


「お前さんが拾った、あのマーシャとか言う娘っ子のことだがね……ロシア対外情報庁SVR国家安全部中国の息はかかっていなかったよ。父親はロシア科学アカデミーの教官らしいけれども」


 俺は思わず足を止め、陳さんの方へと振り返った。


「わざわざそんなことを調べたのか?」


「なに、あたしらみたいな仕事をしていりゃ、用心はどれだけしてもしすぎってことにはならないよ」


「あいつがそんな大層な身分の訳がないだろう」


 もしそうだったら、家賃滞納でぼろアパートを追い出されるなんて間抜けな真似はしない――喉まで出かかったその言葉は口にせず、思わず被りを振る。


「しかし何だってまた、あんな小娘を拾ったりしたんだい? 犬や猫の子を拾ってくるのとは訳が違うよ?」


 これ見よがしに肩をすくめた陳さんの問いには、俺も苦笑せざるを得なかった。


「さあて、ね……運命の悪戯か、神の思し召しか。あいつには、お前が拾った幸運はクリスマスセールの売れ残りだって言っておいたけれども」


 そんな俺の様子を、陳さんが冷ややかな目で見据えた。


「お前さん、銃の腕前はともかくとして、感覚の方は少し鈍ってきているんじゃないかね……せいぜい気をつけな。あたしらの世界じゃ、そんなだったら先は長くないよ」


 俺は手にしていたボストンバッグを持ち直し、今度こそ振り返ることなくその場を立ち去った。陳さんももうそれ以上、俺を引き留めようとはしなかった。

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