Episode 12 動き出す歯車

 十二月二十八日、五時三十分。時折見るいつもの夢で、寝覚めは最悪だった。


 色白で細面の男。その傍らに立つ若い女。こちらへと向けられた銃口。そして、最後の言葉を残して息を引き取るアイツ。


 単なるフラッシュバックだと頭では理解しているが、何度見ても慣れることのない苦痛に、小さく唸って太い息を吐く。夢見ばかりは、自分ではコントロールが出来ない。


 早朝の窓の外の景色は、まだ暗かった。昨晩しこたまウォッカを飲まされた割には、二日酔いのたぐいは見受けられなかった。俺は手早くトレーニングウェアに着替え、まだ寝ているであろうマーシャを起こさないよう気を付けながら、そっと家を出てロードワークへと向かった。


 ここ数日の間はサボりがちになっていたが、基本的には雨の日を除いて、毎朝十キロメートルのジョギングをこなすようにしている。走るコースはいくつかあって、その日の気分によって毎日変えている。仕事柄、誰かの恨みを買う可能性がゼロではないため、待ち伏せなどに合わないようにするためだ。


 約四十分程でジョギングを終え、家に戻る。玄関のドアの前に置いたチェスの駒は、そのままの状態だった。マーシャが一緒にいる間は、この習慣は止めておいた方が良いのかも知れない。でないとまた、先日のような事故が起こる可能性がある。


 そっと玄関のドアを開けて家に入ると、マーシャはまだ目を覚ましていないようだった。俺は静かに自室へと戻り、三十分程度の筋力トレーニングを黙々とこなした。第一空挺団や外人部隊兵レジョネールの現役時代に比べれば遥かに軽いメニューだったが、俺ももうそれほど若くはない。下手に無理をして身体を壊してしまっては食い扶持に困ることにもなるので、現状必要な体力が維持できればそれで問題はなかった。


 着替えとタオルを準備して、バスルームへ向かう。脱衣所にある洗濯乾燥機の中には、まだマーシャの衣類が残っていた。中身に手を触れるわけにもいかないため、汗を吸ったトレーニングウェアの類は洗濯籠の中に放り込み、シャワーを浴びて汗を流した。


 七時ちょうど。いつものようにケトルポットに水を入れ、コンロの火にかけた。マグカップを取り出そうと食器棚を開けると、そこには笑った猫の絵柄が描かれたピンク色のマグカップが一つ増えていた。


 そのマグカップには見覚えがあった――マーシャのアパートの中に入った時、炊事場の水切りラックの中に入っていた食器のうちの一つだった。もののついでだと思い、一応そのマグカップも取り出しておいた。


 コーヒーを淹れたマグカップをデスクの上に置き、ノートパソコンの電源を入れて電子メールのチェックを始めかけたところで、マーシャが寝間着姿のまま、ぼんやりとした表情でのっそりと姿を現した。


「おはよう、コースケ」


「ああ……って、おいおい、とても年頃の若い娘の姿とは思えないな」


 俺がそう言って笑うと、マーシャは少しだけ不機嫌そうな表情で答えた。


「私、朝あんまり強くないから仕方ない」


「そうか。悪いが今は、少し仕事中だ。湯は沸かしてあるから、目覚ましが欲しければ自分でれてくれ」


 俺の言葉に、マーシャはぼんやりとした表情のままキッチンへと姿を消した。それからしばらくして、例のマグカップを手にしたマーシャがリビングへと戻ってきた。


「何だ、今朝は紅茶か?」


 マグカップの中身を覗き込んだ俺がそう言うと、マーシャは少しだけ笑みを浮かべて答えた。


「コーヒーもいイけれど、私、どっちかって言うと紅茶が好き」


「やっぱりロシアンティーの方が良いのか?」


「これは普通の紅茶に、お砂糖入れただけ。今、昨日のボルシチの残り温めてるから、朝ご飯はもう少し待って」


 それだけ言うと、マーシャはマグカップを手にしたまま再びキッチンへと姿を消した。それから少しすると、昨日のボルシチの良い匂いが微かに漂ってきた。


 パソコン用のメールアドレスに届いていたメールには、たいして重要なものはなかった。ノートパソコンの電源を落としたところで、ボルシチとは違う微かに香ばしい別の料理の匂いが漂ってきた。


「マーシャ、この匂いは一体何だ?」


 キッチンの方から、マーシャの声だけが聞こえてきた。


「それは見てのお楽しみです」


 それからしばらくして、マーシャが朝食をテーブルの上に並べてくれた。ボルシチと黒パンは昨日の晩飯と同じだったが、そこにもう一品、別の新しい料理が加わっていた。それは一見赤飯のようにも見える、ごろごろとした穀物を煮たもののようだった。


「昨日お店でソバの実売ってたから、カーシャ作りまシた。これもロシアの一般的なご飯です」


 なるほど良く見れば、皿に盛り付けられているのは蕎麦の実のように見える。日本人の感覚で言えば、蕎麦の実は粉に挽いて麺にして食べるのが一般的だが、どうやらロシアでは違う食べ方をするものらしい。


 皿に盛り付けられたカーシャをスプーンですくい、一口食べてみた。味付けは塩と黒糖がベースとなっているようで、意外にも日本のお汁粉に近い味がした。


「うん、なかなか美味い。マーシャ、お前、いい嫁さんになれるんじゃないか」


 俺が冗談めかしてそう言うと、マーシャは何とも言えない照れた笑みを浮かべてみせた。


 朝食が終わった頃、プライベート用のスマートフォンでショートメッセージの着信音が鳴った。発信者は陳さんで、今度はマーシャ抜きで、急ぎ会って話したいことがあるという。


 俺が提示したを飲んでくれるのならば構わないと返信すると、陳さんからは「わかった」の一言のみが返ってきた。俺はキッチンで後片付けを済ませてくれたマーシャに声を掛けた。


「マーシャ、今日は少し用事があって出かける。俺の部屋のものと仕事関係のもの以外は好きに使っていいから、適当に過ごしていてくれないか?」


「……チェンサンのところですか」


 少し不安そうな表情を浮かべたマーシャが言った。なかなか勘が鋭いと思ったが、よく考えてみれば今俺が手にしているスマートフォンで、今まで連絡を取っていたのは陳さんとだけだったことに気付く。


 俺は仕事用のデスクの引き出しを開け、中から一本の鍵がついたキーケースを取り出してマーシャに渡した。キーケースは元の持ち主の趣味で、ルイヴィトンのモノグラム。詳しい商品名までは知らない。


「昔アイツが持っていた、この家の鍵だ。お前に預けておく」


 それから、財布の中から一万円札を一枚抜き取り、マーシャに渡す。


「悪いが今日は構ってやれそうにない。行ける場所は限られているかも知れんが、どこかで適当に遊んでこい」


 マーシャは金を受け取ることを渋ったが、俺は無理矢理その手の中に金を握らせた。困った表情を浮かべたマーシャに、俺は言った。


「お前、この間言っていただろう。大学のゼミと昔のアルバイト先で知り合った友達がいるって。どっちかに声を掛けて、その金で飯でも食って来い」


「……分かりまシた、ありがとう。じゃあ、まずはクエに連絡してみます。たぶんあの子も、今は色々大変なはず。コースケがくれたこのお金で、一緒にご飯食べてきますね」


「それだったら、今の金だけじゃ足りないんじゃないか? そのクエって子にも、何かご馳走してやるといい」


 俺は更にもう一枚、一万円札をマーシャに握らせた。マーシャは慌てて被りを振ったが、余った金は今後の食材の購入費に回せと言ったところ、ようやく素直に金を受け取った。


 俺は自室に戻り、小さめのボストンバッグの中に必要なものをいくつか詰め込んだ。それから部屋を出て、玄関に向かいかけたところで、スマートフォンを片手に怪訝な顔をしているマーシャを目にした。


「どうしたんだ?」


「ダメです、クエと連絡つきません」


「何か忙しい用事でもあったんじゃないか、年末なんだし」


 俺がそう言うと、マーシャは小さく笑って頷いた。


「そうですね……もう少ししてから、また電話してみます」

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