10節

 ここは、どこだ。俺は、何をしている。


 あまりにも虚無な白い世界。どこまでも続いた地平線は果てを知らぬようにどこまでも遠く、広い。空も青さを忘れてしまって、何者であっても飲み込まれそうなほどの光を湛えて白い。


 その中心には黒いコンバットスーツに身を包んだ俺。世界のシミになったように、孤独だった。前の世界と同じような孤独。日常と化した孤独。無理やり飲み下して納得したふりして受け入れた、孤独。


「兄さん」


 漂白された世界のどこからか。幼い少年の声。この世界では俺は孤独じゃないと知る。


「アーヴァ、どこだ。どこにいるんだ」


 焦りを隠すこともなく、俺は呼んだ。一刻でも早く見つけなければならないと、心のままに呼び続ける。


「兄さん、どうしてそんなに焦っているの?」


「どうしてって、それは――」


 なぜだろう。俺はどうしてこんなに焦燥に駆られているのか。この手汗は何だ。この喉の渇きは何だ。この動悸は何だ。なぜ俺は、こんなに当てもなく焦っているのか。


「そ、そんなことはどうだっていいだろう。早く姿を見せてくれ」


 アーヴァの姿を見れば、きっと、何もかもが落ち着く。強迫観念に似た何かが心をいっぱいにして、苦しい。この苦しみから解放されたい。


「――兄さん」


 今度ははっきりと、背後から声がした。いつの間に現れたのかはどうだっていい。どうしてこんな世界にいるのかだってどうだっていい。俺は自分でもわかるくらいには笑顔を湛えて振り返った。そして、叫んだ。


「兄さん。どうしたの? 何かあった?」


「ア、アーヴァ、お前、その、身体――」


 ぐちゃぐちゃ。ぼろぼろ。どろどろ。

 見たくないのに、目を背けることができなかった。自分の罪を眼前に突きつけられた恐怖と、そこから目を背けてはならないというくだらない義務感に束縛された。なにがあった。


「これ? 兄さん、覚えてないの?」


 焼けただれた皮膚の顔面がきょとんとした。半分以上焼失した目玉の視線が俺を射抜く。


「そうか、そうだよね。忘れても仕方ないよ。兄さんだもん」


 残念だという内容なのに、口調そのものは達観したようにさっぱりしている。なにを俺は忘れているのか。俺だと、忘れる内容なのか。


「思い出せない? そっかー。じゃあ、これならどう?」


 笑みは引きつって、皮膚が耐えきれずに裂けた。彼の笑顔は、こんなのだっただろうか……思い出せない。

 ぱっと、穏やかな白い世界が厳しい赤の世界に変わった。熱い、苦しい、痛い、死にたくない。そんな声が聞こえる、業火渦巻いた、煉獄の世界。よく焼けた死体が、地面に伏したまま硬直した手を目いっぱいに伸ばす。下半身が炎に包まれているのに仰向けの姿勢で笑みすら湛えて動かない者。その人も死んでいる。ここを、俺は見たことがある。そうだ、確かに見た。いや、その場にいたんじゃないか。――いつ? なぜ? 何をしていた? そもそもここは、なんという……


「そうだよ、兄さん。やっぱり兄さんは兄さんなんだね」


 意味が分からない。なにを言っているんだ、君は。――君は、誰だ?


「そうさ、もう、終わった。全部終わっちゃったよ! 兄さんが何もできないまま! みんな死んだよ! ――ねぇ、兄さん、何で僕たち死んだの? なんで僕たち『だけ』死んだの?」


 無邪気さが怖かった。君はいったい、さっきから何を言っている? 説明してくれ。それとも、俺が悪いのか。分からない、俺が悪いのか? 覚えていない、俺が悪いのか?


「そうさ、兄さんは今まだそうだったじゃないか! しょうがなかったんだよね? 自分を守るために、捨てることしかできなかったんだよね? いや、自ら望んで捨てたんだよね? 今までも、そして今も!」


「俺は……」


「暗いドロドロした過去どころか、きれいな輝く思い出さえ、兄さんは切り捨てる。兄さんだから、切り捨てる」


「俺は……」


「そして平気な顔して生きていくんだ! 代償として、対価として、僕たちから奪い取った生を使って、他者を踏み潰しながらさ!」


「俺は……誰だ?」


「姫神寛人」


「君は誰だ?」


「アーヴァ」


「俺が殺した?」


「そう。救うこともできなくて、僕が死ぬのも看取ってくれもしなかった。僕がただの肉塊に変わった後にそれを見てただ泣いただけ。あなた自分のために、泣いただけ。なにもしなかった」


「あ、ああ」


「だって誰でもいいんでしょ、隣にいるのは」


「え、え、いや」


「他人なんかどうだっていいって思っているんでしょ? どいつもこいつも同じに見えるんでしょ? 誰が隣に座って仲良くしゃべろうが、一緒にご飯食べようが、風呂に入ろうが、それは兄さんにとって通勤電車や定食屋や銭湯で隣り合った人と大差ない。僕じゃなくてもいいんだ」


「はぁ、はぁ……」


「あなたは他人に期待しちゃいない。その代わり押し付ける。エゴで押し付ける。関わりの選別なんていうおこがましい行いをする。それに必要なのはかわいいかわいい、自分自身のための、たった一つの条件」


「言うなっ!!!」


「あなたの過去を知らないこと」


「違う!!!」


「兄さん、自分の心に嘘はついちゃいけないよ。転生しても兄さんは、兄さんでしかないんだから」


「違う!!!」


「愛情、友情。そういったものより、はるか彼方に過ぎ去った出来事を優先する兄さんは、僕たちのことも簡単に忘れるんだ」


「違う!!!」

 


 目尻から涙がこぼれた。こめかみを伝って、地面に敷かれたすすけた絨毯にしみた。その上に、俺は仰向けになって寝ていた。空があまりにも高い。届かないと分かってはいるのに、なぜか俺は空に右手を伸ばした。蒼穹に、ある少年の笑顔が滲んだ。俺は泣いていた。


「アーヴァ……!」


 右手を下ろして目を覆ったが、あふれた涙は止まらなかった。


「ヒメカミ……」


 いつの間に隣に来ていたのか、ルナが横たわった俺の横に座っていた。指の隙間から覗いたルナの顔を直視できない。


「ルナ……俺は、俺は――」


「ヒメカミ……」


 声が震える。嗚咽が洪水のようにあふれて止まらない。言葉にするのが恐ろしいと思いながら、訊いた。


「村のみんなは……」


 分かり切っている。それでも、訊いた。


「みんな、死んでしまったわ」


「あ、ああぁぁ……」


「どうして」と無意識に言葉が出た。どうして死んでしまったのか。どうして俺が生き残ったのか。どうして俺は守れなかったのか。どうして、どうして、どうして――

 ルナが俺の左手を握った。よく見るとルナも泣きはらして目が赤い。


「それでも、ヒメカミが生きていてくれてよかった」


 声が掠れていた。その大きな目に、光るものが見え、そして一粒零れた。


「お、れが……?」


「死んじゃったら、どうしようって、思ってたんだよ。私をかばって死んじゃったら、どうしようって――」


「ルナ……」


「ありがとうも言えないでヒメカミが死んじゃたら、私、一人になっちゃうと思ったんだよ」


 左手を強く握られる。俺のために、泣いてくれているのか。感謝の言葉を貰う資格などない俺を、待っていてくれたのか。


 俺もルナも泣きはらし切る。どれほどの時間を泣いていたのかは分からないが、もう、涙を流すのは充分だ。俺はかけられた薄いブランケットをはだけて起き上がる。不意に体が痛んでせき込んだ。


「無理しないで。傷口だって閉じたわけじゃないらしいから」


 体に巻かれた白い包帯。ほんの少し赤いしみが浮いている。横腹に穴が開いていた気がするが、そっと触っても鈍い痛みがするだけで、肉が無くなっているという感触はない。


「起きたか?」


 バリトンの声。少しくぐもって聞こえるのはヘルメットをかぶっているからだろう。全身を艶のない鎧が包んでいて、その鎧に煤や砂が付いている。肩の装甲前面に猟銃を構えた猟師のアイコンが鮮やかなオレンジ色で描かれている。


「確か、ハインツ、だっけ?」


「そう。ハインツ=シュターゼン。よろしく」


 そう言うと彼は俺の目の前にしゃがんで、俺の体を一瞥すると、


「体の方、どんな具合だ? さすがにまだ痛いだろうが、少し動ける具合にはなったか?」


「ああ。ちょっとまだいろんなところが痛いけど、起き上がれないってわけじゃないし。ハインツが治療してくれたのか?」


 ハインツはヘルメットの位置を直しながら、


「まぁ、そういうことだ。とは言っても、俺は回復術式を会得していないから、持っていた特別な薬を使っただけだがな」


「ラスト一個がいい仕事したぜ」と言いながらハインツは立ち上がって、


「そう言えばルナ、やれるだけのことはやったぜ」


「ありがとう。みんながあのままなのはかわいそうだったから」


「ハインツは何かしてたのか?」


「遺体を並べてたんだ。軍の連中が来るまでそのままってわけにはいかないからな」


 俺は村の広場の端のほうで寝ていたから大穴の中が見えないが、あそこに積まれていたみんなや家で焼かれたみんなを助けてあげたということだろう。死んでしまった人を助けてあげたというのは変な言い回しだが。


「――俺さ、みんなの顔を見たいんだけど、いいか?」


「――それを決めるのはお前自身だから、止めはしない。でもな、正直安らかとはいいがたい状態だ」


「それでも、見たいんだ。どれだけひどいとしても、今会いに行かなかったら、一生顔も見れないし、会いに行けないから」


 ルナに手を貸してもらって立ち上がる。下はコンバットスーツを着ているが、上半身は包帯でぐるぐる巻きなので肩に上着をかけて向かう。

 頭の先から足先まですっぽりと毛布やタオルが掛けられている人もいれば、布が足りなくて足が出ている人もいる。天の高いところから太陽がみんなを照らした。

 何度もためらったが、一番端に寝ていた遺体の毛布を除ける。ひどい。面影が、尊厳が、全力をもってして汚されている。俺はまず初めに歯を食いしばって怒らなければならないはずだった。でも、俺は場違いに安堵した。きちんとこの人が誰なのかを覚えていることに。


「アーヴァ……」


 俺は再び泣きそうになったが、押しとどめた。泣いたからって、故人があの世から蘇ることはない。生き残った俺にできるのはただ冥福を祈ることと、そして――


「ヒメカミ……?」


 ルナは寛人の目を見て慄いた。その目は、あの吸血鬼と同じ、戦慄的狂気のそれ。




 生き残った俺にできるのはただ冥福を祈ることと、そして――

 あの吸血鬼をこの手で討つこと。

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