一章 ある魔人の懺悔

1節

≪この世で何より大切なものは家族です≫ (元英国妃ダイアナより)


 少なくとも、ここは日本ではない。それが率直な感想だった。


「どこだよ、ここ……」


 思わず出た独り言も、乾いた風に運ばれてあまりに広い空に消えていった。ここまで広く青い空を見たことはない。

 俺は背の短い草が所々に生える、地理用語的に言えば『ステップ』のど真ん中をはしる、未舗装の道に立っていた。カラッと湿度の低い澄んだ空気、どこまでも広がる起伏のない地平線、雨の少なさ故なのか、樹木の一本もない大地。日本ではないと、断定できた。


「レイシアのやつ、俺をどこに飛ばしたんだよ……」


 聞く者も答える者もいないのは重々承知で声を出す。声を出さねば、ここは一人でいるには心もとないほど何もない。

 四方の景色を見渡しても何にもならないと判断し、俺はズボンのポケットに手を入れようとする。前の世界にいた時は、ここにスマホを入れていたのだ。まぁ、それを見逃がすほど自称神様も甘くはないと思うが――


「ん?」


 あるべき場所に、ポケットがない。手が生地の上を滑った。ここでようやく、俺はさらなる変化に気が付いた。

 服装が、まるで違う。買い物に出かけた時の、黒のパーカーでも、青のデニムでも、白いスニーカーでもなかった。俺を包んでいるのは真っ黒な戦闘服、いわゆる『コンバットスーツ』だ。現代仕様の軍隊がこれと似たような装備で身を固めているのをどこかで見た記憶がある。右腰にはホルスターに収まった、ガラス細工のように透明な拳銃。これは見たことがない。左腰には妙に軽い鞘に収まった両刃の剣が収まっている。抜いてみると、太陽の光で刀身がぎらぎらと光った。

 一番上に着ている防弾チョッキを一体にしたような上着を脱ぐと、その下はこれまた真っ黒のインナー。ぴったりと張り付いていて、体のラインがもろに出ているが、違和感は不思議とない。


「というか、俺の体、こんなんだっけ?」


 体に張り付いたインナーの下に覗く腹筋は見事なシックスパックを保持している。ビシッと線の入った腹斜筋に、厚みのある胸板。試しに触ってみると、俺のものとは思えない筋肉の固さ。金属板でも仕込んでるようだ。そこからいろんな体を服の上から触っていき、俺は確信した。


『体は強くした状態にしてあげる』


 レイシアの言葉が思い出される。あいつ、身体を強くするとか言っていたが、本当に俺の体を特殊軍隊仕込みの細マッチョにしやがった。だが不思議というか、当然というか、この体と俺の意識のリンクは何の違和感もない。まるでこの体がずっと前から、言い過ぎかもしれないが、生まれた時から俺の体のような……。そんなこと、あるわけもないが。


 意外と寒い晴天の下、上着を羽織りなおしながら、今度はコンバットスーツにつけられた各種ポーチをまさぐる。胸元にはスニッカーズに似たバー上の固形菓子。両太腿外側にはそれぞれ小さい透明の液体が入った200ミリリットル程度のボトル。恐る恐る、少しだけ口にすると分かった。紛れもない水だ。下腹部のにはどこかの範囲を示した地図。地名は聞いたこともないところばかりだが、英語のアルファベットに似た文字は読めた。識字の問題は、レイシアが俺の頭に細工してどうにかしたのだろう。しかし肝心の俺が今どこにいるかは全く書かれていない。地図と同じポーチには一本だけ円筒状の何かがあり、その側面に、『鎮痛剤』と書かれている。インスリン注射のように使うのか、使用法が小さく印刷されている。

 そして最も重要と思われる一枚の紙が上着の内ポケットから見つかった。二つに折られているそれを開くと、最も上に書いてあるのは『寛人へ♡』。ハートのマークがカチンとくるが、重要なことが書いてるだろうし、ひとまず読んでみる。


『異世界転生おめでとう。いきなりこんなところに出てびっくりだと思うけど、寛人なら何とかなるわ。餞別として腰についているピストルや剣、食料や水をあげます。あとあなたの職業は冒険者ってことにしたから。大きな町に出てギルドにでも行ってみて。最後に、手袋の左手の甲にある魔法陣を触ってみてね。じゃ、頑張って。レイシアより 追伸:この手紙、読み終わったら文字全部消えるから、内容忘れないでね』


 視線が最終文字に行きついて読み終わった途端、文字のインク部分だけが燃えて、あっという間に白紙になる。簡潔に書かれた内容は、どう考えても情報不足だが、だまし討ちのようにいきなり俺を転生させたレイシアがこれ以上何か教えてくれるとも思えず、ため息を一つし、白紙となった手紙をもともとあったところに戻す。

 そして左手の甲を見る。確かに、魔法陣だ。幾何学模様の赤い図形を触ってみる。すると、宙にノートパソコンの液晶画面ほどの映像パネルが現れる。


 姫神寛人(ヒメカミヒロト) AGE:22

 HEIGHT:174㎝ WEIGHT:67㎏

 血圧・脳波:異常なし マジックフォース:正常域

 術式:『剣術』『ロゴス』


「でた!」。そう声に出してしまう。お役立ちアイテムとともに定番の(定番といっても、アニメとかネット小説だけの話だが)仮想現実パネルだ。俺の情報がまとめられており、より細かく見ることもできるようだが、今は上に書いてあるものぐらいでよいだろう。

 ともあれ、またしても問題ができた。『マジックフォース』『ロゴス』だ。いや、安っぽい小説の設定かよ……。なんちゅうものが俺の体に宿っているんだ。ともあれ、これらを使ってなんとかしろってことだろう。『マジックフォース』というくらいだから、俺が持っている魔力量のことだろうか。そして『ロゴス』。ロゴスとは確かギリシャ語で、『言葉・理性・概念・定義』などといった意味で、世界万物を支配する理法という意味もあったはずだ。……いや、どういうことだよ。術式、つまりスキルの意味が分からん。『剣術』はまだわかる。だが『ロゴス』ってなんだよ。使い方もわからないし、無用の長物じみた匂いのスキルだ。

 ちなみに、手袋を脱いで肌を見ても魔法陣はなかった。仮想現実パネルは手袋、かっこよく言えばグローブに搭載されているのは確実だ。


「スキルはひとまず後にして、さてと、どうするかな……」


 小さな石ころが転がる道の真ん中に立つ。車両が通るようで、明らかに二筋の轍がある。車両が来るまでここで待つ手もあるが、こんな辺境に誰かが都合よく来るとは思えない。


「――こっちに行ってみるか……」


 左右を見渡してみて、そうつぶやく。太陽が高く昇っている方、つまり南に進路を取ることにする。なぜかって? そんなもの、勘に決まっている。都合よく町に転生させてくれなかった以上、自力で町に行くしかない。覚悟を決め、歩みを始める。便利なことに時間や日時も表示してくれる仮想現実パネルによると、今は昼過ぎ。画面によると、今はどうやら早春のようだ。太陽はまだ高い位置にあるから日没まで数時間は大丈夫のはずだ。



 そうしてかれこれ数時間が立った。日は大分傾いた。ときどき地図を開いてみるが、いかんせん何もない平原、目印がないからどこにいるか当て推量もできない。そもそも仮想現実パネルにどうして地図がないんだ。あってよさそうな機能だが、どこかでインストールしないといけないということなのか。それかレイシアが意地悪をしたかのどちらかだ。


「ん……?」


 スニッカーズに似た甘ったるいレーションを残り少なくなってきた水で胃に流し込み、視界を前に戻すと、遠くにポツンと町の影。砂漠を永遠とさまよい続けて、ようやくオアシスを見つけたような湧き上がる感情。俺が悪夢か、蜃気楼でも見ていない限り、あれは町だ。


「よ、よかった……」


 自然とこぼれる安堵の声と笑みをひとしきり漏らすと、あふれる気持ちを抑えきれず小走りで町に向かう。これで餓死や脱水で死ぬことは免れた。町に着いたらひとまず、ここがどこであるかは聞かなくてはならない。

 町が近づくにつれてその影は確実な実体へと変わり、俺を安心させる。と同時に、なにやら不穏な空気も俺に知らせた。

(煙?)

 町からは土煙が立っている。何かあったのだろうか。小走りを結構な全力走りにして町に急ぐ。体が今までと違って鍛えられているためか、走っても全然息が上がらない。すごい体になったもんだ。


 町、というより村の規模だ。建物はコンクリートらしきものでつくられてはいるが、どれもこれも小さな一軒家程度の大きさで、壁面は土で薄茶に汚れている。町の中だけは何とか道を舗装したといった様子で、町に入った途端、黄土の道が黒の舗装路に変わった。小さな集落の中を突っ切ってまた未舗装の道に出ると、そこに『それ』はいた。


 瞳は、野生の思考をそのままに宿す、野蛮で、同時に無邪気なものだった。口は大きく開かれ、連なる山脈のように並んだ鋭い牙が覗く。10メートル以上はあるだろう翼開長。翼膜に走る赤い血管が異様に生々しい。巨大な体躯を覆った鎧のうろこはアサルトライフルから放たれる光のような銃弾を簡単に弾き、欠けることなく、傷も残さないほど堅牢だ。身の毛がよだつ唸り声をあげて、邪悪な殺傷力を孕んだ爪と牙で、銃を手にする一人の女性を襲っている。


「まじかよ……」


 その場を目撃した瞬間、「来なければよかった」と情けない思いが心に過ってしまうほどの、生物。ドラゴンだ。おとぎ話の中の、ゲームの中の生き物は紛れもなく、そこにいた。そして躍動し、野生のままに、人を襲っている。前の世界の猛獣たちと何ら変わりなく、得物を取るため、敵を排除するため、その生存本能をむき出して生きていた。


「冒険者さん?」


 振り返ると、いつの間に現れたのか、小学校中学年ほどの男の子が立っていた。ぱっちりとした二重の目に鼻が高く、くっきりとした顔立ちは前の世界で言うところのインド系の人の顔立ちに似ている。

 少年は、


「お兄さん冒険者なんでしょ! あのお姉さんのこと助けて!」


 俺には土台無理なことをいきなり頼んでくる。俺があの化け物と戦えってか。


「あのお姉さん、怪我をしているんだ!」


 振り返って戦場を見ると、確かに俺よりも数歳若く見える女性の左腕には白い包帯が巻き付いている。その白に、うっすらと赤が滲んでいる。


「お姉さん、昨日魔物と戦って怪我をしたんだ。それなのに今日も僕たちのために……」


 少年の言葉は尻すぼみになって聞こえなくなる。俺はまた、ドラゴンと相対する女性を見た。ダークブラウンの短髪を揺らし、古めかしいアサルトライフルを構えてフルオートの掃射をドラゴンに叩き込む。が、ドラゴンは意に介さないで、女性に突進を加える。その地すら抉る衝撃は軽々と人の体を吹き飛ばす。アサルトライフルを空中で手放してしまった女性は、そのまま地面にたたきつけられる。ライフルが地面をはね、女性からは遠い位置に転がった。


「お姉さん!!」


 少年の悲鳴。飛び出していこうとするのを、俺はとっさに止めた。少年ははたと、俺の顔を見上げた。その瞳には怯えと、救いを求める思いがありありと浮かんでいた。ギリッと、俺は歯を食いしばる。そんな目で見ないでくれ。俺は何もできない、なんてことはない、ただの一般人だ。銃が効かない化け物を相手にするなんて、自殺行為だ。


「お兄さん、お姉さんを助けてよ!」


 すがらないでくれ。俺は、本当にどうしようもない存在なんだ。自分の境遇すら、変えることができなかった俺が、人を助けるなんて、あまりに大それている。そうだ、怖いんだ。でもそれは、実際に俺の体が傷つくことがじゃない。俺のすることを、周りの人は……


《それが周りに笑われることでも、バカなことだと見下されることだとしても、それでも、あなたの心に従って、人のために行動しなさい》


 懐かしい、声だ。あまりにも遠い過去のことで、脳にその残滓すら残していないように思っていた、あの時の、いつものように柔らかい笑みをたたえた、母の、最後の、言葉。


《その優しさが、寛人のここにちゃんとあるって、お母さん、知っているから》


 胸を人差し指で指しながら、いつものように、母は優しく、俺を慰めた。


「――クッソがッ!」


 俺は少年の前に出て、左腰に佩いた両刃の剣を抜刀する。拳銃に手を伸ばさないのはもちろん、腰の拳銃より威力がありそうなアサルトライフルの銃弾が有効打ではなさそうだから。それに俺には剣術の術式があるらしいことも理由の一つだ。近接武器で猛獣と戦うとは、先史の狩猟民族の気分だ。


「下がっていろ。巻きこまれると危ないからな」


 少年を背に告げると、少年は小さく頷き、家の陰に走っていく。


「さてと……」


 じりじりと倒れた少女に近づく野蛮なトカゲモドキを睨みつけると、竦む足に鞭を打って、剣を構え、叫んだ。


「おいコラ、そこのトカゲモドキ!」


 這い寄る足を止め、明らかに人の持つ理性がない、ぎらつく瞳をドラゴンは俺に向けた。べろりと、舌なめずりをした長く血黒い舌がテロテロと濡れている。新たな外敵を、いや、得物を発見した、歓喜に満ちた、欲望そのままの視線に射抜かれる。こうなってしまった以上、後には、退けない。俺は剣道で言うところの、身体の前で両手をもってして刀を握る、正眼の構えを取る。


「悪いが、お前のお楽しみタイムはそこまでだ!」


 俺は虚勢たっぷりに叫び、転生して初めて、いや生まれて初めて、暴力による弱肉強食の環境に身を投じた。

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