2節

 『闇』を示せ。そう言われたならば、今度からは今自分が感じているこれを示せばよいだろう。光、音、……ありとあらゆる振動がその波長を失い、時間の流れ、そのダイナミズムも白い吐息が空中に霧散するようにかき消えてしまったかのような、異様な空間。横隔膜を運動させ、肺に空気を取り込もうとするが、胸郭の広がりも、空気が鼻腔をくすぐる感触もない。体に張り巡らされた神経網がショートして脳からの電気信号を各所に伝達できなくなってしまったのか。今自分が立っているのか、寝ているのか、生きているのか、死んでいるのかも、ここではその手掛かりすら掴むことができない。


 しかし、己の生死すら判断できないこの空間において、ただ一つ、確かなことがある。それは『自分の意識』だ。少なくとも、先ほどから何も感じないなどと俺はぶつくさ宣っているが、『思考』の能力は確かに存在している。哲学者デカルトはかつて言った。「我思う、故に我あり」。この言葉を信じ、引用させてもらおう。この思考する自分が確かにこの世界に存在しているのであれば、たとえ世界の確実に正しいと言えることがわからなくても、その世界を考え、認識する己の意識だけは否定できない。デカルトの言葉を拝借し、俺は心を沈めた。おおかた大丈夫だろう。なんてったって、あのデカルトが言ったのだ、間違いがあるはずがない、――たぶん。どれほどかわからない時をかけて、自分でもよくわからない考えをこねくり回しながら、現状を飲み込む。


 この意識のみ取り残された状態を俗に『植物状態』というのだろうか。植物状態の人の感情や考えを外部の人間が認知できましたなんて聞いたことはない。もし、そう、万が一だ、自分自身がその状態であると仮定しよう。ベッドに横になって、その濁った瞳で一点を見つめながら、ただ生きている俺を、想像する。――気味が悪い。が、億が一のためにさらに思考。周りの人は俺の考えを認知しようともしないだろう。悲しいかな、植物状態の人が感じるそれは、植物状態人間当事者にしかわからないということである。とどのつまり、自分自身の言葉で、現状と感情を説明せねばならない。この状態をどう表象すればいいのか。……「やばい」「うける」「草」と、スラングで済ませておこう。


 そもそも、あの人物と現象は何だったのだろうか。あんなことがあった後だったから、警戒はしていたのだが、まさか話しかけてきたり、こんな状態にするとは思いもよらなかった。あの現象は人知を超えているように思う。魔法や、超能力の類の、物理現象を無視したなにか。いよいよ神様が刺客でも差し向けてきたか? なんて……


「ええ、そうよ。姫神寛人さん」


 女神から洗礼を受けた人々はこのような声を聴いたから神を信じ続けるのだろうか。その声はあまりに清澄で、遠い異国の町に建つ伝統ある大聖堂の鐘の音のように荘厳だった。人間という種からは決して発しえないその声調。敬虔な無神論者であっても、神はここにいると宣言するだろう。俺は、しなかった。


「あら、まだ前の世界にくっついたままだったの? 今解いてあげる」


 少なくともその声の主からしたら、自分ははるかに格下の存在であるだろうが、声色から女性だろう、彼女は親しげに言う。


「いくわよー! えーい!」


 なんだその天然系巨乳お姉さん(二次元)が吐きそうな調子のセリフは。そんなオラクルや神託を告げそうな声で言うものじゃない。こちとら自分がどんな状態なのか、それにあなたの顔も、性別すら定かでないのに、なんのときめきもありゃしない――

 二次元天然系巨乳お姉さん(仮称)が何ともといったセリフを吐くと、今までに感じえなかった、確かな感触が。なんだかもう久しい感覚だが、これは間違いなく、触覚だ。マジックテープをはがすようにべりべりと自分の体が何かから引きはがされていくのを感じる。すると他の五感も、その機能を取り戻し始め、まるで真っ暗で生物のいない樹海から出口に向かって行っているように、光が近づいてくる。

 ぱっと、長いトンネルから抜け出したような、光が蒸発した、一面の白が視界を包んだ。先ほどまで全く逆の色に支配されていた自分の目は、瞳の絞りを急速に小さくして、今度はきちんと色と形、距離を捉えた。


 目の前、こぶし一つも入らないだろう。神の御業と言うにふさわしい、絶美の尊容がそこにあった。月明かりを反射した雪原のように白く、光を内包する肌。細く整った眉に、柔らかく軽くウェーブする背に梳き流したストロベリーブロンドの髪は、天の川をまとわせたように輝いた。にこりとほほ笑んだ口元が、いかにも愛らしいと思ったのは、何とも罪深い、不敬なことのように感じられた。


「おはよう。そしていらっしゃい」


 見惚れていた俺の顔面に息がかかった。くすぐったい感触に、夢から冷まされた俺は、いまさらというように飛びのいた。久しく失っていた筋肉の運動に懐かしさを覚えながらも、うまくそれを制御できずに足を絡ませると、後ろに思い切りたたらをふんで無様に倒れる。驚いて、上品に手を口元に当てている女性。後頭部をしたたか打って悶える俺。羞恥、ここに極まれり。


「大丈夫?」


 差し出された白く、男の俺とはまるで違う細く小さな手を取って、後頭部をさすりながら俺は立ち上がった。彼女は俺より10cmは小さい体格をしている。差し出された手を握る前に下から見上げた時は、細い線に長い御御足で俺以上の背の高さに見えていた。その容姿や声を神だなんだと誇大表現的に言ったが、目の前にいるのは傾城傾国、花顔柳腰、眉目秀麗な女性だった。まとった白いドレスが、誠に彼女の美しさを引き立てている。かわいい女性に見上げられるとドキリとするらしいが、ここまでの女性になるとドキリといったら最後、心臓が止まるのではなかろうか。


「そんなに見つめちゃって。私って、そんなにかわいい?」


 あざとい笑顔もまたよく似合う彼女に微笑まれて、俺はたじろいだ。女性と関わってないとほんの少しの仕草も心に響く。この感覚が『きゅんとする』ということか。何と切ない感覚であろうか……。自分で感想を考え、自分で鳥肌を立てて気持ち悪がる。なにが切ないだ。俺は女性と付き合ったことも、まして恋したこともないのに。


「あっと、私の自己紹介をしてなかったわね。私はレイシア。いわゆる神様。よろしくね」


 朗らかな自己紹介。美しいこの女性はレイシア。そして、神様か。なるほど、なるほ――。……早速、俺はレイシアと名乗る女性に突っ込んだ。


「――えっと、か、神様?」


「ええ、そうよ」


 わずかな静寂が訪れた。どちらもしゃべらないと、この空間はあまりにも静かになる。俺はフリーズしかけた脳を再起動させて、


「……あっ、えっと、ごめんなさい。なんかその……痛くないですか、その設定」


「痛っ……私は本物だもん! 本物の神様だもん! 設定じゃないもん!」


 頬を膨らませるレイシアはぽかぽかと俺を叩いた。くそっ、いちいちかわいいな。


「わかった、本物の神様という設定は理解する。でもまだ聞きたいことはある。ここは、どこだ。あの後、俺はどうなった」


 わざと口調はフランクに尋ねる。痛い設定の自称神の美人にはこれくらいのフランクさがちょうどいい(たぶん)。

 叩くのをやめたレイシアは、ゴホンと、わざとらしく一つ咳払いし、


「そう、そうね。あなたの状況を説明しなきゃ。ここは死後の世界と現世のはざま。迷える魂が集う、転生の間」


 またいろいろと突っ込まなくてはならない。レイシアが口を開けば意味の分からないことばかりその口から出てくる。


「死後と現世? 転生の間? ……ちょっと待て、意味が分からん。いや、言葉の意味は分かる。その、なんだ――俺って、死んだのか?」


「あら、飲み込みが早くていいわね。さすが見込まれたことはあるわ」


 何を感心しているのか。俺は、やはり、死んだ、の、か? あの黒い人物に、殺されて?

 それにまだ疑問はある。


「し、死んだとかはひとまず置いておく。それより『転生』ってなんだ。あれか、輪廻転生とか、異世界転生とかの、あれか?」


「ええ、もちろんそれよ。画竜点睛の『点睛』でも、金属の性質の『展性』でもなく、生まれ変わる『転生』よ」


 何を当然のことをという風にレイシアは言う。だが、俺にとっては当然ではない。

 いきなり開示される胃もたれしそうな情報の圧倒的濃さに俺はお腹がいっぱいだ。ニンニク背油マシマシのラーメンのように重い。待ったをかけて、俺はできの悪い脳をフルに回転させる。今に至るまでの経緯の整理をしなくては。

 俺は午後四時ごろにスーパーに出かけた。なぜ? 米以外何も食べるものが無くなったからだ。その日は少し遠いスーパーが特売デーだったから、わざわざ歩いて行った。それから目当てのものをゲット。特にジャガイモが安かった。帰りに電気屋のテレビでニュースを見て、きれいな秋の空を見ながらのんびり歩いて、それからあの橋で――俺は、殺された。そして、神に出会った。


「――いや、どんな脈絡だよ……」


 何の因果関係があってこんな状態になった? 人間の脳には理解できない何かがあるというのか。


「理解できた?」


「できるか」


 思わず食い気味の突っ込みになった俺の否定を聞き、レイシアはニヤリと、口角を上げ笑う。


「まぁ、なかなかできないわよね。でも大丈夫」


「何が大丈夫なんだよ」


「別に理解しなくてもいいってことよ。この状況も、あなたが殺された理由も」


「なんて無責任なこと言うんだよ。俺は殺されたんだぞ。死のうとして、死んだんじゃない」


「でも、あなたが死んでも何の影響もないわ。あなたが生きていた、あの世界にとっては」


 急に残酷なことを言うレイシアの言葉。人格や自分の存在自体を真っ向から否定する言葉を、俺は声高に否定できなかった。「何をっ――」。言いかけて、言葉がのどに引っ掛かり、出てこない。自分自身が一番理解していることを、誰かに言われても「そうだ」と肯定しか言えない。レイシアの言葉を否定することは自分を偽ることだ。


「――そうだな。俺がいなくても、いや、俺がいないほうが世界は、平和だもんな……」


 口にしてみれば何ともむなしい事実。自分の言葉は深く、胸に刺さった。今まで散々言葉で刺されてきたが、「自分は必要ない」と自身で言葉にすると、それは罵詈雑言に慣れた俺の心にもなかなかなダメージを与える。頭で考えるのと言葉に出して自分の耳で聞くとでは受け取る感覚が全く違う。


「そんなに落ち込まなくていいわ。なんたってそんなあなただからこそ、ここに導いたんだから」


 落ち込んだ俺を慰めてくれるように、いまだ俺とレイシアにしか光の当たっていない闇の空間の中で、彼女はその闇を吹き飛ばすように明るく、まぶしい笑顔で、


「ようこそ転生の間へ、新たな転生勇者さん。あなたに異世界での新しい人生を与えましょう」


 ぽかんとして、それから思わず吹き出して笑ってしまった。


「ハハハ……異世界? 転生勇者? 俺が?」


 なんてことだ。誇大妄想が現実になったのか。『転生の間』とか聞いた時には心のどこかで『俺が何者かになって転生する』と理解したのかもしれないが、今まさに言われるとおかしいことにしか聞こえない。そんなこと、あるわけがない。俺はいまだ判然としないレイシアやこの状況を脇に追いやって笑った。天国か地獄に行くとか、魂だかが輪廻転生して現世に生まれ変わるとかなら宗教にもあるからまだしも、いくら何でも異世界転生して勇者はないだろう。

 けたけたと笑う俺に、


「ええ、全くをもってそのとおりよ」


 突如まじめぶった声色に俺は笑うのをやめた。真剣に言うレイシアの言葉を、俺はつい納得しそうになる。


「――なんで、俺なんだ」


 一拍おいてから、ぼそりとつぶやいた。


「言ったじゃない。あなただからよ」


 答えになっていない。なんのトートロジーだ。俺だから、俺が選ばれて、俺が転生勇者とやらになる? どこの安い小説だ。俺である必要がわからない。


「俺の選考理由は、必然か、それとも偶然か?」


「どちら、と言われれば、必然かしら。簡単に言えば、あなたの人生、人となりが理由よ」


「人となり……」


「孤独と、そして人の醜さ……弱さを知っているあなただから、もう一度人生歩ませてあげようって思ったわけ」


 思わず、今度は乾いた笑いが出た。選定理由に妙に納得して、それから笑いを止めて唇をかみしめた。俺に改心でもさせようってか。たった22年の人生だったが、それでも前の世界は俺にとって非常につらかった。最近は考えてもいなかった、考えるのをやめたが、過去に俺は何度も自分の人生を終わらせようとした。結局、どれも失敗か、やろうとして怖気づいて実行しなかったが。


「また俺に、人間のそれを見せようってのか。辛いなんてもんじゃない、人の社会をまた生きろってのか。それも勇者に変身してってことだろ」


「ずっと孤独に生きてきて、人の温かさなんてものを知らない。そんなあなたには酷な話かしら」


「当たり前だろ。――神様なら、知ってるんだろ、俺の過去も、全部」


「知っているから、転生させるの。あなたに異世界で『人』ってものを知ってもらうために。――それにあなた、別に本当は人が苦手ってわけでも、嫌いでもないのでしょ? それから特別人に失望もしちゃいない……本心では、だけど。自分で「俺は人とコミニュケーションを取るのが苦手」って、上辺で気持ちすら偽って、逃げただけじゃない」


 忘れていた、いや、忘れようと努めていた過去が、目の前に突き付けられた。その記憶は決して落ちない汚れだ。いつまでもこびりついて、俺を縛り続ける。あの辛く、陰鬱な、裏切りなんて日常茶飯事の、過去の日々。

 なにが異世界転生だ。異世界転生ってのは神様がひねくれた人間を強制的にまっすぐな人間にする、夢も希望もないものなのか。そんなものじゃ、俺はネット小説の主人公のように無邪気に喜んだりはできない。


「ちなみに、」


 黙り込んだ俺を無視して、レイシアはいたずら好きの少女のように無邪気に笑って、一言告げた。


「もう、転生は始まっているわ」


「……は?」


 驚くのも束の間、俺は光に包まれた。温かい光だ。その光を触ろうとすると、バチっと電気が走って、俺の手ははじかれた。光が檻のようになって俺を閉じ込めた。


「ちょ、ちょっと待てよ。俺はまだ何も、聞いてもいないし、同意もしてないぞ!」


「もう遅いわ。あなたがここから来た時点で、運命は決まっていたのよ」


 俺を包んだ光は輝きを増した。


「ずるいぞ! お前何も言ってなかったじゃねぇか!」


 負け犬の遠吠えにしかならないと知りながらも、俺は叫んだ。


「大丈夫よ。体は強くした状態にしてあげるし、すんごい能力だってつけちゃうんだから」


 なにが大丈夫だ。どこも大丈夫でない。でも、もうすべてが遅いことは本能で理解できてしまった。

 かわいい顔してだましたレイシアはニコニコと満面の笑みで手を振っている。散々かわいいだの美人だの褒めちぎったが、今はその顔を一発殴ってやりたい。


「人の温かさ、今度こそ理解できるといいわね」


 俺の気に障ることばかり言うレイシア。だが、急展開すぎて怒りが完全には沸き立ってこない。

 最後にレイシアは、さっきとはまるで声色と表情を変えて、


「さぁ、行きなさい、新たな勇者よ。あなたの未来に光あらんことを」


「レイシア、これ本気か――」


 最後の足掻きすら言い終わらせず、レイシアは俺、姫神寛人を異世界転生させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る