第32話 とある少年の話④

 ニコはこの日々がずっと続くと思っていた。


 いつまでも——いつまでも彼女と星を眺めていられる気がした。


 しかし、そんな日々も唐突に終わりを迎える。


 その日もニコは母親が寝静まった後、こっそりと家を抜け出した。


 今日はどんな話をしてくれるのだろう。この前、教えてくれた星座の話の続きだろうか。


 そんな事を考えながら、いつもの場所へと向かう。


 到着してみれば笑香はまだ来ていないようだった。


 いじけるようにポケットに手を突っ込むと何か紙切れのような感触が指先に触れる。


 それは数週間前に母親から与えられた千円札だった。


 使い道がなく、すっかりその存在を忘れていたニコだったが、ふとある事を思いついた。


 今日はお菓子でも買って一緒に食べながら星を眺めよう。


 そう思い立ったニコは近くのコンビニへと向かった。


 いざ、店の前まで来ると買い物をした経験がないニコは何だか緊張してしまい、近くの電柱で右往左往する。


 そんな事をしていると、店内から浮かない顔をして出てくる笑香を見かけた。


 彼女はニコには気付かなかったようで、公園とは反対の方向へと歩いていく。


 普段とは違う雰囲気に、安易に声をかける事を憚られ、そんな笑香が心配になったニコは彼女の跡をつける事にした。


 数分ほど跡をつけると笑香はとある一軒家の前で足を止め、その中に入っていった。


 恐らく彼女の実家だろう。


 流石に中に入るわけにはいかない。家の前で待つ事にしよう。


 そう思った矢先、家の中からは男の怒鳴り声が聞こえてきた。


 何を言っているかまでは分からなかったが、物凄い剣幕で誰かを捲し立てているのは想像できた。


 嫌な予感がしたニコは玄関の前に立ち、ドアノブに手をかける。


 鍵は開けっ放しになっており、すんなりと侵入する事ができた。


 男の怒鳴り声は続いている。


 ニコは家の中を進んでいき、声が漏れている部屋へと辿り着いた。


 開きかけた扉の隙間から中を覗く。


 そこに広がっていた光景は——ニコ自身もよく知っている地獄だった。


「この鈍臭せぇクソガキが! 酒買ってくるのに何分かかってんだよ!」

「ごめんなさい、お父さん。でも、いつも行ってるとこが売り切れで、違うお店に買いに行ったの……だから——」

「あん!? 誰が言い訳しろって言ったよ? なぁ? 本当に役に立たねぇなお前は!」


 〝お父さん〟と呼ばれた男は、頭を床に擦り付け許しを請う笑香の脇腹あたりを、何の躊躇いもなく蹴りつける。


「かはっ……うぅ……おぇぇ」


 蹴られた痛みと衝撃で笑香は思わず嘔吐してしまった。そんな彼女を見て、男はさらに激昂する。


「おいおい。家を汚してんじゃねーよ。誰の家だと思ってんだ!! さっさと掃除しろよ、クソガキ!」


 笑香は着ている服の裾で自分の吐瀉物を拭き取っていく。その服はいつも着ている白のワンピースだった。


 愕然とその光景を見つめるニコはとある事に合点がいった。


 何故、彼女が自分などを気に掛けてくれたのか。得体も知れぬ気味の悪い自分に優しくしてくれたのか。


 それは


 笑香は一目見るだけで気付いていたのだ。


 見知らぬ少年が自分と同じ境遇という事に。


 ニコは途端に自分に苛立ちが湧いてきた。


 笑香は弱みを決して見せず、自分を勇気づけてくれた。


 恐らく今見ている出来事は今日が初めてではないだろう。


 ニコは彼女の苦しみに気付かずに、甘えるだけの弱く惨めな自分に心底腹が立った。


 心の中を黒い黒い何かが蝕んでいく。


 とにかく笑香を助けなければ。


 そう思っている筈だが思うように足が動かない。


 動け。動けよ。


 そう強く心の中で念じるが足の震えは止まらない。


「あ〜。お前の面倒見るのも疲れたわ」


 男はそう言うと、キッチンから包丁を持ち出す。


 そして、笑香の首を掴み無理矢理立たせると彼女の体にそれを突きつけた。


「……やめて、お父さん……許して」


 男は包丁を持った手を振りかぶる。


「うあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 ニコは叫び声をあげながら勢いよく扉を開け、ようやく動いた足を放り出すように駆け出す。


 助けたい助けたい助けたい。


 その時、ニコの心は黒い何かに完全に支配された。


 部屋中に血飛沫が飛び散っていく。


 男を止めようと突き出したニコの手の向こうには、無数の黒い結晶に貫かれた男が苦悶の表情を浮かべ喘いでいた。


「うぐぁ……がふぅ……」


 ほどなくして男はその場に倒れ込み動かなくなった。


 ニコは何が起きたか分からなかった。


 体中に返り血を浴び生臭い鉄の香りが鼻をつく。


 足元に目をやると男の隣には笑香も倒れ込んでいる。


 ニコは彼女の側に寄り添い声をかける。


「……笑香」

「……ニコ? どうしてここに……お父さんは?」


 笑香は首を少しずつ動かしながら父親を探す。


 そして、血塗れになった父親を見て何かを悟った顔をした。


「……もしかして、ニコは助けに来てくれたの?」

「……うん。早く、早く救急車を呼ばないと」

「ううん。多分、もう助からないよ。お父さんも——私もね」


 笑香の腹部からは血が溢れ出していた。


 ほんの数秒の差であったが、ニコの能力ちからが発現するより前に、既に彼女は刺されていた。


「ねぇ、ニコ。私達は何かしたのかな……幸せになっちゃいけないのかな……」


 笑香はニコの頬にそっと手を当てる。


「こんな世界……壊れちゃえばいいのにね……あのね、最後にお願い……聞いて欲しいの……お別れする前に一度だけ、ニコの笑顔を見せてよ」

「……うん」


 彼女は数秒間、ニコの顔を見つめると満足そうに、


「やっぱり……ニコは笑っている方が素敵だね」


 そう呟き、彼女の体温は熱を失っていった。


 この日、ニコは人間ではなくなった。





 

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