オレンジはまだ酸っぱい
夕焼けの光が窓から差し込み、部室をオレンジ色に染めるころ。
「こういうときはⅢ度よりもdimコードを使うのよね」
「好み次第だけどね」
俺と大河は、合唱部の部室で顔を突き合わせていた。目の前には、俺が編曲した楽譜。女子3人、男子2人の変則5部合唱としてアレンジした、有名なアニソンだ。
「編曲してもらって、ついでに合唱編曲の個人指導までしてくれて。いつもありがとうね」
「別に、俺も楽しんでるし」
「私もいつかは一曲くらい編曲してみたいな。歌いたい曲たくさんあるの!そのときは竜二も誘うからね」
「期待しないで待っとくわ」
俺はため息交じりに答えた。
開け放した窓から風が吹いて、大河のロングヘア―を少し持って行った。うなじの辺りで一段癖がついているが、絹のような黒髪。僕の好みを差っ引いても、大河は綺麗な奴だった。
部活もない放課後の教室でわざわざ大河と二人でこんなことをしている理由は、なんてことない、好きになった大河からの頼みだからだ。大河はソプラノのパートリーダーをしている。今度の市の合唱祭で、ほかのパートリーダーと指揮者の計5人で歌いたい曲があると言って、俺に合唱編曲の依頼が来た。
「大体の混声合唱は4部だから、5人で歌えなくて。ありがとね竜二」
「いや、結構面白かったよ」
嘘に嘘で返す。不毛な会話だなと心の中で苦笑する。
頼まれてすぐに、俺も一応はその曲の市販されている楽譜を調べてみた。そしたら5部合唱ではないものの、アルトだけがほぼ全部に渡って2部に分かれている楽譜がすぐに見つかった。それを流用すれば、細かい調整くらいは大河もできるはずだ。
それでも一からの編曲を依頼した理由は簡単。その楽譜が気に入らなかったのだ。その理由はすぐに分かった。
部室では、人が来ると毎回大河は入り口を確認する。俺が入ってきたときもそうだ。けれどよく見ていると、物音がしても入り口を見ないこともかなりある。つまり、来るのを待っている誰かがいるということだ。
そのことと、市販の楽譜ではソプラノとテノールでの絡みが多かったのを見てピンときた。大河が部活で心待ちにしているのは、ベースパートリーダーの中村だ。
そう思って見ると、確かによく話をしている場面を見るし、普段の距離も近い。
市販の楽譜がどうせ気に入らない編曲ならば、俺に頼んだ方がベースと絡める機会が増えるとでも踏んだのだろう。一言も言わずに頼んでくるあたり、大河もずるい女だ。
恋敵の手助けをしてやるのは癪なのに、結局ソプラノとベースに美味しいところを用意してしまったのは、大河が喜ぶかもしれないと思ってしまったから。惚れたほうが負けってやつだ。
「あ、そうだ。編曲のお礼にこれ。お祖母ちゃんから送られてきたミカン」
大河は唐突に鞄の中からミカンを二つ取り出した。俺が受け取った方のミカンはまだ少し青い。皮を剥いて一房を口に放り込む。
「うわ、酸っぱい!」
感想は隣で大河が代わりに言ってくれた。
「ごめん、こんなに酸っぱいと思わなかった。残していいよ竜二」
「ちょうどいいよ」
今の俺には、と自虐的なことを思いながら、いくつかまとめて口にほうった。
「私ね、最後の『すきだよ』ってところお気に入りなの。好きって言葉は真っすぐで飾らないぶん、心がこもってる気がする」
俺は少しだけ余計な話をすることにした。
「この曲、『すきだよ』のフレーズはほとんどが、メロディーの音程と日本語としてのイントネーションが一致してない。でも1番の最後だけ、あえてメロディーを変えて、普段話すときと一致させてるんだ。そこがエモい」
「気づかなかった」
「でもラストでそのメロディーを出した後、最後にもう一回、一致してない方のメロディーで歌ってしめるんだ」
最後の最後で思いを伝えられない、そんな酸っぱさをこめたように。
「もうこんな時間だね。そろそろ帰ろっか」
楽譜を揃えながら大河が立ち上がる。
「俺はもう少し残るよ」
「そっか。じゃあ私は先に行くね」
颯爽と去っていく彼女の背中に、もう少しいろよ、とは言えなかった。そもそも『編曲』という口実だけが、俺と大河を唯一繋いでいるのだ。
「ねえ竜二」
入り口の手前で立ち止まって、大河は俺に呼びかけた。
「今度髪を切ろうと思うんだけど、どうかな?」
「いいんじゃねえか。大河ならどんな髪型でも似合うだろ」
その黒髪を切ってしまうのは、俺は惜しいと思うけど。
「ふうん」
気のない返事をしてから、今度こそ大河は部室を出ていった。胸の前に楽譜を大事そうに抱えながら。
机を見ると食べかけのミカンが、置いて行かれた子どものように、ぽつんと残っている。俺は最後の一房を口に入れた。
「……酸っぱい」
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