第46話 天国に一番近い部屋
『天国に一番近い部屋』
鈴が丘記念病院の緩和ケア病棟。そこにある祈りの間は、患者たちからそう呼ばれている。
僕はひとり、真っ白な部屋の中央に置かれたベンチに座り、天井付近の窓から差しこむ光を浴びていた。そのまばゆさに目を細め、息をつく。
温かい。まるで天国から彼女に微笑まれているようだ。
無音の穏やかな時間だが、その間も僕の体はあちこち焼けるような激しい痛みを訴えていた。
大人になり、目標だった医者になって十数年。もう痛くない場所がないというくらい、全身ズタボロだった。指ひとつ動かすだけで、息を吸うだけで、ベッドに横になっているだけで、体のどこかしらが悲鳴をあげる。
これらはすべて、ここ緩和ケア病棟に入院している患者さんたちから奪った痛みだ。無痛症である僕自身の痛みは欠片も含まれていない。
ここに来る患者さんたちの最後の望みを叶えるために、僕は彼らの痛みを肩代わりしている。闇雲にすべての人の痛みをとっているわけではない。最後まで彼らが彼ららしく生きるために、僕の力が必要だと思ったとき、そうしている。
そういうとき、僕は医者ではなく、ひとりの人として患者さんたちに向き合っていた。
痛みに眠れない日は数えきれないほどあった。痛みにのたうち回っているうちに、意識を失うように眠る日も同じだけあった。
だが疲弊していく体とは裏腹に、僕の心は容赦のない痛みたちを喜んだ。痛みを感じれば感じるほど、いまはもういない彼女に近づけるような気がしていた。
羽子さんは、いまの僕を見て何を思うだろう。何やってるんだと怒るだろうか。お人よしなんだからと笑うだろうか。それとも——よくがんばった、と褒めてくれるだろうか。
いまの僕がいるのは、羽子さんのおかげだ。羽子さんと出会ったから、僕は痛みを知って、生きることを選択し、いまここにいる。すべては彼女のために、ここにいるのだ。
無理をしすぎだと言われても、僕は痛みの肩代わりを止めなかった。これが僕の使命だと、立ち止まることも振り返ることもせずここまできた。
しかし何事にも限界はある。終わりが近づいていることは僕自身感じていた。
人の体はとても脆く、崩れ始めればあっという間だ。指先からさらさらと砂になっていき、最後のひとつぶが落ちたとき、やっと彼女のもとへといける。
もうずっと、僕はその瞬間を待ちわびていた。
「はやく会いたい……」
羽子さんに返しそびれたまま、僕の手元に残ったハンカチを握りしめる。
毎日洗濯を繰り返し、もうボロボロになったハンカチ。形見のようなそれを、僕は肌身離さず持ち歩いている。
僕と彼女を繋ぐものを持っていれば、死んでも彼女にまた会える気がしていた。
「もうすぐだと思うんだ……」
もう随分と前から僕は疲れきっていて、医者としても長くないと感じている。
最後のときは、どんな風に訪れるだろうか。
僕は正面の壁にかけられた絵を見上げ、きっとこんな風だろうと思った。
椿坂羽子が最後に描いた絵。タイトルは『福音』。雲の切れ間から光の梯子が海に向かって降りる、美しい光景が描かれたものだ。
祈りの間には、この絵とベンチだけが置かれている。他には何もない。花も、時計も、何も飾られていない。絵がひとつしかない、ただの真っ白で殺風景な部屋だ。
それでも患者さんはこの祈りの間を訪れる。ベンチに座り、羽子さんの絵を見上げ、時に祈り、時に涙し、時に眠り、穏やかな顔で部屋をあとにする。
患者さんたちは言う。ひとりであの絵を見ていると、何だか怖くなくなってくるんです、と。会いたい人の姿が見えた、という人もいた。
羽子さんが生きた証は、彼女がいなくなったあとも輝いている。その輝きはいまも、たくさんの人を救っているのだ。
改めて、僕は椿坂羽子という人をすごいと思った。医者にできることなんてたかが知れている。僕とは比べものにならないほど、彼女は多くの人の心を癒してきた。
彼女にまた会えたときは、それを教えてあげたいと思う。
だから、僕はここで待っている。
この部屋で、君に会えるときを待っている。
ふと、背後で音がした気がしてまぶたを持ち上げる。
そこではじめて、自分が居眠りをしてしまっていたことに気が付いた。
誰か呼びに来たのだろうかと振り返り、目を見開く。
「——やあ。待っていたよ」
僕の役目が終わるまで、あともう少し。
痛いの痛いのどこへゆく【完】 糸四季 @mildseven10
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