第16話 誰かの見たいもの


 僕の答えに、羽子さんは「あるんじゃん」という顔をした。



「日の出って、初日の出?」


「いや、普通のでいいんじゃないかな」


「いいんじゃないかなって、他人事みたいに言うんだね」


「実際、知り合いが言ってたことだから。日の出の眩しさはパワーがちがうって。生き返ったような気持ちになるって」



 羽子さんは意外そうに目を見開いた。

 ベッドの上でわずかに前のめりになる。



「生き返ったような……」


「それで、ああ、自分は生きてたんだなって思うんだってさ。今度見せてやるって言ってたから、まあ死ぬ前に見ておいてもいいのかなと」



 つまり、実際に見たいのは僕ではなく司狼だ。

 僕は執着の薄い司狼がそこまで言うのは珍しいなと思っているくらいなのだが。



「私も見たい!」


「えっ」


「日の出、見てみたい! 連れてって!」



 本当に病人なのか疑わしくなるほど元気よく言った羽子さんに、さすがの僕も固まってしまった。


 連れていく? 海へ?

 余命三ヶ月の、弱り切った末期がん患者を?


 基本僕は、人に頼まれれば断ることはない。断る理由がないことがほとんどだし、抗うよりも流されるほうが面倒が少ない場合が多いからだ。

 でも、今回はちがう。まず無理だろう、と冷静な頭がすぐに答えをはじき出した。

 だが言い出したらきかなそうな彼女が、無理だと言ったところで納得してくれるだろうか。

 難しいだろうな。出会って間もないが、そう確信している自分がいた。



「言われてみたら、私日の出って見たことなかったかも! 虹は見たことあるの?」


「いや、ないよ」


「じゃあ虹も初めて? 楽しみ~!」



 ダメだ。これはもう完全に行く気でいる。

 しかし実際問題、どうやって連れて行けるというのか。

 まさか正面から「海に行っていいですか」と病院にうかがいを立て、許可をもらえるとは思えない。

 早朝の海辺などまだ寒く、浜風が病人の体に差し障るのは間違いなかった。


 そうなるとこっそり抜け出すしかない。

 看護師や警備の目をかいくぐり、いかにも体力のなさそうな羽子さんを連れ、真夜中に海へ。

 想像するだけで気が遠くなるほど、ハードルが高い。

 失敗する確率は九割を超えるのではないか。



「あの。一応担当医に確認したほうが……」


「おじいちゃん先生に? あの人に言ったって意味ないよ」


「意味ないって、それ――」


「お願い、虹」



 身を乗り出した羽子さんに手を握られ、どくりと大きく鼓動が鳴った。

 まるで胸の奥で心臓がジャンプしたような、いままで感じたことのない衝撃に戸惑う。


 羽子さんの手は、無痛症の僕には温度はわからないが、少しかさつき骨ばっている。

 折れてしまいそうな手なのに、ぎゅうぎゅうと強く握りしめてくる。


 こちらを見つめる目はやはり爛々と輝いていて、僕はその強さにのまれるように気づけば首を縦に振っていた。

 そうするしかなかった。話しているだけでどんどん顔色の悪くなっていく羽子さんに、無理だとは言えなかった。言ったら最後、彼女が目の前で死んでしまうような気がしたのだ。


 結局、とりあえずまたくるとだけ約束し病室をあとにした。



「絶対来てよ? 来なかったら死んで祟ってやるからね」



 ベッドの上から羽子さんがシャレにならないことを言っていたが、声には不安が滲んでいるようにも聞こえた。

 次はそう日を置かず来たほうがいいだろうか。だがそう頻繁に来ては彼女の体には負担になる。

 それについ海に連れていくことを了承してしまったが、可能なのかどうか。



「あれ、虹くん。もう帰るの? 羽子ちゃんと話せた?」



 エレベーターに向かっていると、別の病室から吉村さんが出てきた。



「はい。かなり疲れているようだったんで、今日はこれで。また来ます」

「ほんと? 新しいお友だちができて、羽子ちゃんも喜んでるね」



 羽子さんが喜んでいる?


 果たしてそうだろうか、と僕は内心首をかしげた。

 たしかに羽子は退屈しているようではあったけど、僕が彼女を楽しませられるとはとても思えない。

 よくて暇つぶし程度にしかなれないだろうが、それでも彼女は喜ぶだろうか。


 そのままナースステーションを通り過ぎようとしたとき、立ち入り禁止の札がかけられた扉が目につき立ち止まる。



「吉村さん。あの部屋って?」


「うん? ああ。前は面談室っていう部屋だったんだけど、いまは改装中なの。工具や機材があって危ないから、立ち入り禁止ね」



 面談室は家族室とはちがうのだろうか。

 死が近づいている患者には、きっと細かな配慮が必要なのだろう。

 そうなるとますます、彼女を連れ出す役に僕はふさわしくないなと思う。


 ハンカチをまた返しそびれたことに、帰りのエレベーターの中で気が付いた。

 このまま持っていてもいいだろうか。

 そんな風に考える自分が不思議だった。


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