第15話 最後の景色


「意識して笑ったことがないっていうのも、そういうこと? 笑えないの?」



 笑えない、というのは微妙に違う気がする。

 笑うべきときがわからない、と言うほうが近いかもしれない。



「でも自然と笑ってることはあるよ。妹を見てると、時々」


「ああ、それはアレだね。愛だね」


「愛……?」


「妹が可愛いから、見ていると自然に笑うんでしょ? おかしくて笑うとか、気を遣って笑うのとは、また少し別だよね」



 そういうものなのだろうか。

 笑うと言っても、多少口角が上がっているくらいなのだが、それでも愛と呼べるのだろうか。

 僕はきちんと、家族を愛せているのだろうか。



「じゃあ、悲しくて泣いたりは? 後悔で叫びたくなったりは?」


「ないかな」


「本を読んでわくわくしたり、暑くてイライラしたりは?」


「ない。暑さや寒さもわからないし」


「え! じゃあ熱中症になったり、凍死したりしないの?」


「いや。人より熱中症になって死にやすいし、風邪引いたり凍傷になりやすい」



 暑さや寒さがわからない、そして自分の体の不調に疎い無痛症患者は、とても脆い生き物なのだ。

 羽子さんはしばらく、ぽかんとした顔で黙っていたが、やがて感心したように「なるほどね」とうなずいた。



「要するに、虹はとっても不便な体をしてるんだ」


「不便……。そうかもしれない。怪我もしやすいし、病気になっても気づかないし」


 僕自身はあまり不便さは感じていないが、母は誰よりそれを感じているだろう。


「ふうん。痛みがわからないって無敵じゃんって思ったけど、そう単純なものじゃないんだね」



 どこか残念そうに呟き、羽子さんはクッションに深く沈んだ。

 そういえば、この間会ったとき、彼女は「いいなあ」と言っていた。

 無痛症がうらやましかったようだが、実情を聞いて考えが変わったのだろうか。



「羽子さんは……いま痛いの?」


「痛くないよ」



 青白い顔が即答した。

 疑いが顔に出たのだろうか、羽子さんが「ほんとだって」と笑う。



「いまはそんなに痛くないの。薬が効いてるから」


「薬が切れたら、この間みたいになる?」


「薬は常時効いてるの。連続して使っている薬じゃ抑えきれない痛みが、突発的に来るんだよね。そうなると、死んだほうがマシってくらい痛い」



 死んだほうがマシ、という例えも僕にはぴんとこなかったが、とにかくひどくつらいものなのだろう。

 いま羽子さんはあっけらかんとしているが、この前ここで会ったとき彼女は、死んだほうがマシと思っていた。

 死んだほうがマシな痛みが何度も訪れると、寿命を待たずに死んでしまいたくなったりはしないのだろうか。


 そんなことを僕が考えているとは知らない羽子さんは、沈黙は僕の理解が追い付いていないのだろうと思ったのか、腕を組んで首をひねった。



「うーん。どう言ったらうまく伝わるかなあ。あのね、どれくらい痛いかっていうと、私が筆を持てなくなるくらい」


「筆? ああ、絵の」


「そう。大事なのは、私が、筆を、持てなくなるってこと。このわたしから絵を描く気力を奪うくらいの痛みなわけ。ほんと、うんざりするよ」



 うんざり、というより忌々しそうに言う羽子さんは、いまにも壊れてしまいそうな体をしながらも戦士のように見えた。

 爛々とした目で生を欲し、病気に抗う戦士だ。圧倒的不利な戦況でも諦めない、不屈の精神を持った戦士。



「そんなに絵が描きたいの?」


「ちがう。絵が描きたいんじゃない。描きたい絵があるの」



 ちがいがよくわからない。

 絵が描きたいことと描きたい絵があることに、何かちがいがあるのだろうか。

 まだ描きかけらしい、黄色のチューリップをちらりと見る。



「……描きたい絵って、花の絵?」


「わからない」


「わからない?」


「最後に描きたい絵があるんだけど、それが何かつかめてないの」



 苛立ったように、絵の具で汚れた親指の爪を噛む羽子さん。


 彼女の印象からは少し幼い仕草に思えた。

 僕の視線に気づき、羽子さんは恥ずかしそうに口元から爪を離す。



「ツツジは、おばあちゃんの家に咲いててね。おばあちゃんとの思い出がある花なの。でも、これじゃないって描いてて思った」


 なるほど、それでアザレアをツツジだと思って描いていたのかと納得する。


「友だちと行ったチューリップ畑も描いてみた。修学旅行で行った沖縄の風景とか、好きな映画のワンシーンとか、本当に色々描いてみたけど、どれも違うの。最後に見たいのは、描きたいのはこれじゃないって」


 疲れたようにため息をつき、羽子さんは僕を見上げた。


「だから虹に聞いたの。虹は死ぬ前に何を見たいか、考えたりした?」


「うん。考えたけど、特になかった」


「ない? うそでしょ。死ぬ前に食べたいものとか、死ぬ前に会いたいひととか、そういうのと同じ。人生の最期に見たいのは、どんな景色?」



 あの日された突拍子もない問いについて、一応僕は僕なりに考えてみた。

 例えば明日死ぬと言われたら、自分はどうするだろう。


 食べたいものは特に思いつかない。元々食にはあまり興味がないので仕方ない。

 会いたい人というのもやはり思いつかなかった。家族は毎日会っているし、自分がいなくなっても母も妹もそれほど変わりなく過ごせるだろうから心配もない。

 司狼には会いたいというよりも、明日死ぬらしいことは伝えておくべきかなと思う。

 見たい景色、もしくは行きたい場所もかなり時間をかけて考えたが、ひとつも思い浮かばなかった。


 そもそも半分死んでいるような人間に聞くのが間違っている。



「本当に、思いつかなかったんだ」


「ないって、ひとつもないの?」


「そんなに思い入れのある場所っていうのがない」


「まだ行ったことがない場所とか、見たことのない景色でも?」


「ぴんとこないな。でも、ひとつだけ敢えて挙げるなら――」



 脳裏に真っ暗な海が浮かんだ。

 煙草の香りにさざなみの音、そして司狼の言葉がよみがえる。



「日の出かな」

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