第十話:喜びと不安と

 宴という楽しい時間も終わり。

 雅騎達は皆と笑顔で別れると、自分達の家に戻った。


 先に風呂を済ませた雅騎が、台所に立ち湯を温め、同時にフライパンで茶葉をっていると。


「いい湯だったね~」

『ええ。そうですね』


 更衣室から頭をタオルで拭きながら、佳穂とエルフィが姿を現した。

 エルフィは普段通りの白ローブだが、佳穂は雅騎と同じ、若草色の衣服に身を包み、しっかりと異世界に溶け込んでいる。


「お茶淹れるから、テーブルに座ってて」

「あの。何か手伝うことないかな?」

「大丈夫。ゆっくりしてていいよ」


 こんな夜に彼と同じ時間を過ごせる嬉しさを感じつつも、同時に未だ勝手分からぬ台所を任せるしかない不甲斐なさも感じてしまう。

 横目で台所に立つ彼を見て、少しだけそんな自分を恥じ、少しだけ申し訳無さそうな顔をすると。


『佳穂。折角ですから、雅騎に紅茶の淹れ方を教わっては如何ですか?』


 彼女のそんな気持ちを感じ取ったのか。

 エルフィが優しげな笑みでそんな助言をすると、佳穂ははっとする。


「あ、あの。速水君。迷惑じゃなかったら、いいかな?」


 咄嗟に彼女の言葉に続き、もじもじとしながら問いかけると。ちらりと彼女を見た雅騎は、ふっと笑みを浮かべ頷いてみせた。


* * * * *


 雅騎と共に紅茶を淹れた佳穂は、一緒のテーブルに向かい合って座ると、自身が淹れた紅茶を口にした。

 今回は甘みをつけないストレートティーにしてみたのだが。

 現代で飲む紅茶と遜色ない香りと味を感じる。


「どう? 自分で入れた紅茶は」

「うん。凄く飲みやすくて美味しい」


 教わりながらとはいえ、自分で淹れた紅茶は格別なもの。

 彼女はその味に満足そうな笑みを浮かべた。

 そんな佳穂の表情ににこやかな顔を見せていた雅騎は、少しだけ腕を大きく上に伸ばし伸びをすると、ふっとリラックスした顔をする。


「何か不思議だよね」

「え?」

「何度か深夜に会った事あるけど、こうやって別の世界で一緒にいるって」

「あ、うん。確かに……」


 互いに普段のブレザー姿と違う服装で。

 互いに異世界である『白銀の狼』の世界の中にいる。

 その不可思議さに、彼女は納得するように頷く。


 と、同時に。

 心の隙間に浮かんだある想いに駆られた佳穂は、雅騎をじっち見つめた。


「ねえ。速水君って今の状況、どう思う?」

「今の状況?」

「うん。訳も分からず、異世界みたいなこの場所に来てるでしょ? もしかしたらって不安とか、ないの?」

「例えば?」

「元の世界はどうなってるのかな? とか。帰れるのかな? とか……」


 語った本人が、少しだけ不安そうな顔をし、視線を伏せる。


 佳穂はこの世界が好きだ。

 小説で読んだ人狼達と仲良くし、楽しく過ごせているこの世界が好きだ。


 だからこそ、先程までそんな事はつゆとも感じることはなかったのだが。

 心が落ち着いたこの時間。テレビを見れるでもなく。スマートフォンを触れるでもない。そんな異世界らしさが、彼女の心に陰を落としていた。


 自分達が今こうなっているのは夢なのか。夢なら何時か覚めるのか。

 もし異世界に飛ばされてしまったのだとしたら、親や御影、霧華は心配していないのか。

 この世界は好きだが、何時か帰れるのか。ずっとこのままじゃないのか。


 それは、異世界転移者であるが故の不安。

 現代で知った多くの物語では、現代に嫌気が差していて戻る気もなかったり。神に力を授かり目的を果たす者なども多い。

 だが。二人にはそんな物語にあるような、己の行動を前向きにする要素も、示唆するようなものもない。


「……綾摩さん。笑わないで聞いてくれるかな?」

「え? あ、うん」


 突然の言葉に、はっとした彼女が顔を上げると、彼は自嘲するように苦笑していた。


「俺。実はこういう話、以前聞いたことがあるんだ」

「小説とかで?」


 素直に尋ねると、彼は首を横に振った。


「いや。親父から」

「お父さんから?」

「うん。俺が小さい頃、よくこんな事言ってたんだ。『俺はお前が生まれる前に、母さんと異世界を救った勇者なんだぞ~』って。すっごい自慢気に」


 少し懐かしさを感じたのか。雅騎は少し遠い目をする。


「俺、それが嘘だって思えなかったんだ。実際持ってるじゃない」


 こんな力。

 それを佳穂とエルフィは知っている。


 彼女達を助けてくれた、彼の特別な術。

 それは現代の人知を超えた、魔術といっても過言ではない特異な力を彼は持っている。


「でさ。親父に綾摩さんと同じ質問をした事があるんだよ。そうしたらこう言ったんだ。『最初は右も左も分からなかったし、凄い不安だった。だけど同じ境遇の仲間もいたし、向こうの世界で仲間もできたし。そんなのを感じていく内に、今を楽しみ、今を乗り越える事だけ考えるようになった』って」


 その信じがたい話を、佳穂は真剣に聞き入っていた。

 雅騎が、自分を慰めるために嘘をついているようには、感じられなかったから。


「でね。同時に言ってたんだ。『今考えたら、人が別の世界に呼ばれるのにはきっと、何か意味があるんじゃないかって思うんだ』って」

「呼ばれる意味……」

「うん。それが何かなんて、親父も最初分からなかったって言ってたけど。俺は今回の件を経験して思ってるんだ。本当に意味があるなら、きっとその意味を成す何かを成し遂げたら帰れるのかもって。だからそれまでは、うまく世界と付き合っていこうって思ってて。だから、実はあまり不安には感じてないんだよね」


 そこまで語ると、彼はまた自嘲気味に苦笑する。


「楽観的すぎて、ちょっと恥ずかしいけど」


 佳穂は、雅騎に言葉を返せずにいた。


 確かに、にわかに信じがたい話。

 確かに、あまりに楽観的な話。

 彼の作り話にしても。彼が元気づけようとしたにしても。なんともご都合的な考え方。


 ただ、彼女はやはり、それを疑うことができなかった。


 語った相手が彼だったのもあるかもしれない。

 実際、異世界に立っているからかもしれない。

 それでも、その言葉がすっと、不安な心の隙間を埋めてくれた。

 まるで、足りないピースがそこにすっぽりと収まったかのように。


  ──『白銀の狼』の世界……。人狼のみんなとは違う、特異な力を持つ私達……。


 確かに偶然と言われたら、そうかもしれない。


 だが。

 偶然本を読み。偶然その世界に入り込む事があるだろうか。

 確かに本を読んだ時。ふっとレティリエとグレイルに自身と雅騎を重ねたりもしたが。

 それだけで、彼までもこの世界に巻き込めるものだろうか。


  ──私達の力に、ここの皆と共にいる意味があるとしたら……。


 佳穂は思わず黙り込み、真剣に考え込む。

 それを彼は、余計思い悩ませてしまったと捉えたのか。


「今は考えても何も始まらないし、まずは世界を楽しもうよ。折角綾摩さんも、大好きな小説の世界に来れたんだし」


 そう言って、雅騎は優しい微笑みを見せるのだった。


* * * * *


 深夜。

 二人は同じ寝室で、別々のベッドで横になっていた。

 雅騎は既に眠りにつき。エルフィも佳穂の中に戻っている。


 月明かりが薄っすらと部屋を照らす中。佳穂はぼんやりと見える、雅騎の寝顔を見ていた。

 同じ部屋で寝るのは少々恥ずかしかったが、見知らぬ部屋で独りで寝るより、心細くはない。


  ──夢なら、すぐ覚めるかな?


 彼女はぼんやりと考える。

 雅騎の世界を楽しむという言葉に、不安は消え。新たに生まれたのは、雅騎と共にいられる喜び。


  ──無事向こうに戻りたいけど……。夢ならもう少し、覚めないでほしいな。


 まだ恋かは分からない。

 だが、一緒にいられるのは、やっぱり嬉しい。


 ほうけながら彼を見つめていた彼女は、心で願う。


 いつしか覚めるのかもしれない。

 いつしか戻れるのかもしれない。


 ただ。

 今は少しの間、彼と一緒にいられる喜びを感じたいと。

 彼がいてくれるからこその安心を感じていたいと。


「……フェルねえ。もう、食べれないって……」


 と、突然。雅騎むにゃむにゃと小声でそんな寝言を口にした。

 彼のバイト先である喫茶店の店長であり、彼の古くからの知り合いである天野フェルミナ。彼女の試作したケーキを沢山食べさせられているのだろうか。

 容易にそんな想像がつくような寝言に、佳穂は思わず声を殺しくすくすと笑う。


  ──うん。今は、この幸せを楽しもう。


 佳穂はそう心に想うと、毛布を被り直して静かに目を閉じる。

 そして彼女もまた、もうひとつの夢の世界に旅立つと、長い一日を終えたのだった。

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