幕間

シャコナイトの追憶

 貴族の家になど生まれなければよかったと思わない日は無かった。


 持つべき者の側に生まれ、幼少期より人の上に立つ者として教育された苦痛を忘れない日は無かった。

 物心ついた時には、すでに私は一人の人間ではなかった。ただ、名家としての誇りと財産を守るための歯車だけがそこにあった。

 部品。

 家を守り、そして受け継ぐだけの、部品。

 なんと――なんと虚しい青春だったことか。

 このまま自分を失ったまま老いて、死んでいくのだろう。そう想像するだけで、暗闇に蝕まれるような錯覚を覚えた。

 そんな不安を埋めてくれた唯一の存在こそが、私の妻であった。


「ただ、一緒にいられるだけでいいんですよ」


 こんなつまらぬ男と一緒にいて、何が楽しいものか――と思いつつ、柔らかい日差しのような笑顔に幾度となく暖められたことか。

 妻は唯一、私に歯車としての能力を要求しない人間だった。その事実に、私がどれだけ救われたことか――とても言い表せない。

 彼女と暮らしていく内に、私は人として生きるために失ってしまった何かを取り戻していくような心地を覚えた。

 今にして思えば、それは錯覚であったのかもしれない。

 錯覚ではなくとも――過ちではあったのだろう。

 私には歯車として生きるために最も忘れてはいけないことを忘れてしまっていたのだ。

 即ち――強くなければ何も守ることができないということを。

 大切なものほど掌から零れていくということを。

 そんな大切なことを、すっかり忘れてしまうくらいには。


 ほどなくして妻は死んだ。

 私がほんの少し家を離れたスキに、盗賊に侵入を許してしまったのだ。

 妻は女性としての尊厳を惨たらしく凌辱されたのち一息に殺されたようだった。


 それからのことは――よく覚えていない。

 盗賊の根城らしき場所で一人、私はふと自分を取り戻した。手には血に塗れた刺突剣レイピアが握られていた。


 妻殺しに関わったすべての盗賊を追跡し、殺した。

 だが、怒りは一向に覚める気配がない。

 それ以来、私は家を捨て、盗賊という盗賊を殺しつくすための旅に出た。各地のギルドを廻っては盗賊と名の付く集団を襲い、拷問し、一人残らず殺し尽くした。幸いなことに、盗賊は殺しすぎるということが無かった。彼らのような人種はいくら殺しても湧いて来る。次第に私は虐殺侯爵バンデットスレイヤーと呼ばれるようになった。

 元の名前は、忘れた。忘れたが、どうせ下らぬ名に相違あるまい。

 盗賊を殺す。

 これが私の使命なのだと、そう思った。最初からそういう風に決まっていたのだと思えばそれでよかった。歯車として生きる術は、全身に叩き込まれているのだから。


 しかし――やがて私も老い、思うように剣を振るえなくなってきた。

 死の恐怖。この世から愚かな人間を一掃できないまま老いて死ぬという恐怖。

 老いた体に鞭を打ち、やっとの思いで盗賊の根城を壊滅させる日々。

 肉体の限界。時の流れの恐ろしさ。

 そんな恐怖に打ち震えている時――私は、一人の老人に出会った。


虐殺侯爵バンデットスレイヤー――鬼神と恐れられた剣豪けんごうも、老いには勝てぬか。怖いな、老いは……。儂も老いて朽ちることは恐ろしい……」


 彼の声は静かで、穏やかで、優しかった。

 血や肉塊が散らばる盗賊の根城の片隅で、古ぼけたり椅子に腰かけて――まるで最初からそこにいたかのように、落ち着いた佇まいで。一見して、彼はどこにでもいる老人のように見えた――少なくとも、外見上は。


「老いは人から、怒りを奪う。お前は……疲れているな。怒り続けることに。理不尽を嘆くことに。しかしそれ以上にお前は悔やんでもいる。この世から愚かな人間を一掃できなかった、己の無力を……」


「なにを……何を言っている?」


「お前の夢は美しい。だから……どうかこんなところで終わってくれるな、虐殺侯爵バンデットスレイヤー。この儂に、お前の――」


 老人はゆっくりと穏やかな笑みを浮かべた。


「お前の、夢の続きを見せてくれ」


 私は思った。

 この老人もまた、私に歯車であることを強要しない――

 私が夢を見ることを、望んでくれる存在なのだと。


 彼が魔王だと知ったのは――それから、少し経ってからだった。

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